四 短期大学の発足

短期大学制度の創設

 昭和二十四年、新制大学への切り替えに際し、旧制の専門学校の大部分は四年制大学への転換を目ざしたのであるが、そのうち約五〇校は、教員組織、施設・設備等がふじゅうぶんのため四年制大学への転換が認められなかった。

 しかしながら、新学制への切り替えは可及的すみやかに行なわなければならない事情にあったため、これらの学校や諸般の事情により認可申請を見送った旧制の学校をそのまま存続させることはできなかったので、大学設置委員会は、二年制の大学を設置することを教育刷新委員会へ建議した。建議を受けた同委員会では、二十四年一月の総会で、「二年または三年制の大学について」の建議を採択し、これを短期大学と称することとしたのである。そこで、文部省としては、二十四年五月学校教育法の一部を改正し、暫定措置として修業年限二年または三年の大学を設け、これを短期大学と称することとしたのである。

短期大学の目的・性格と設置基準の設定

 短期大学は、当初、暫定的なものとして考えられていたこともあって、学校教育法上の規定も四年制大学の修業年限の特例として扱われ、目的・性格もきわめてあいまいなものであった。大学設置審議会が設置認可の基準として定めた「短期大学設置基準」によると、「短期大学は、高等学校の教育の上に二年または三年の実際的な専門職業に重きを置く大学教育を施し、よき社会人を育成することを目的とする。」とされている。

 また、短期大学は、学部を置かず学科を単位として構成されることとされ、卒業の要件は、二年制の場合六二単位、三年制の場合九三単位と、学年の長さに応じて四年制大学の二分の一ないし四分の三とされている。しかし、内容的にみると、一般教育科目が四年制大学の三分の一の一二単位(三年制は二分の一の一八単位)と少ないこと、外国語科目は必修でないことなど、四年制大学とは違った特色をもっている。

短期大学発足当時の設置状況

 前述のような事情から、短期大学は四年制大学の大部分の設置より一年遅れ、昭和二十五年度に発足した。二十五年度開校を目途として申請した学校は一八六校(公立二一校、私立一六五校)であり、その大部分は旧制専門学校を母体としたものであった。審査の結果、一四九校(公立一七校、私立一三二校)が認可され、二十五年度から短期大学として発足した。国立短期大学については、四年制大学の整備先行などにより二十六年度から発足した。

 二十五年度に発足した一四九校についてその設置母体、分布、定員、学科等をみると次のとおりである。

 まず、旧制専門学校を母体とするものが六五校、新制高等学校・各種学校を基盤とするものが三九校、四年制大学に併設されたものが四五校であった。学校の所在地は大都市が大部分を占め、東京四九校、愛知一三校、大阪一二校、京都一一校、兵庫九校、神奈川七校などに対して、岩手、秋田など一六県には一校も設置されなかった。入学定員は二万一五五人(公立二、二七〇人、私立一万七、八八五人)であったが、大部分は昼間に授業を行なう学科であった。また、入学志願者は、入学定員の八五%強(一万七、六一〇人、うち公立二、七四五人、私立一万四、八六五人)で、実際に入学した学生の数は入学定員の七〇%弱(一万三、八三九人、うち男子八、二二二人、女子五、六一七人)であった。

 学科は全部で二八五学科(公立三七学科、私立二四八学科)であり、その専攻分野は広範囲にわたっているが、文学・語学系、家政学系、商業・経済学系、理工学系が多く、全体の九〇%を占めていた。なお、三年制短期大学はわずか五校のみで、その学科も美術、工芸、厚生、宗教教育など特殊な目的をもつものであった。

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