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三 新教育制度の具現

学校教育法の制定

 新教育制度の骨組となり教育改革を具体化したものは昭和二十二年三月制定の「学校教育法」である。この法律は、従来の制度に比べて形式的にも内容的にも画期的なものである。形式面からみると、従来は学校の種類ごとに学校令が定められていたのを幼稚園から大学まで含めて単一化し、しかも法律をもって定めている。内容面の特色はまさに教育改革の実態を示している。その理念と内容は、第一は教育の機会均等の実現である。憲法および教育基本法の定める理念および原則に基づき国民は誰でも均しく能力に応じて教育が受けられることとされ、特に男女による差別を撤廃し、経済的理由により就学困難なものに対しては就学援助または、奨学の方途を講じ、高等学校および大学に通常課程のほか定時制、通信制の課程を正式に認め、心身障害児に対する特殊教育学校を学校体系の中に位置づけた。第二は学制の単純化であるが、第一の原則を学校体系に具現化したものである。従前の中等教育の段階の学校はその種類が複雑でしかも高等教育との接続で複数の路線を形成し、高等教育への道もきわめて限定されていた。新学制は六年制の小学校に続く中等教育を三年制の中学校と三年制の高等学校に単純化し、同時に高等教育機関を四年制の大学に一本化し、大学の門戸をすべての高等学校卒業生に開放する徹底した民主的な学校体系とした。第三は普通教育の普及向上と義務教育年限の延長であるが、三年制の中学校を含めて義務教育を九年に延長し、すべての中学校は職業分化のない普通教育とし国民基礎教育の向上充実を図った。第四は高等教育の普及と学術の進展を図るため大学の門戸を広く開くとともに大学院を新学制の頂点に明確に制度化した。このように新学制は従前に比してきわめて画期的な改革であるが、義務教育の年限延長と学制の単純化はわが国教育界にとって必ずしも唐突なものではなかった。特に前者については大正・昭和を通じて幾度か論が起こり、案も立てられたが財政上その他の理由で実現に至らなかったが、昭和十六年の国民学校の成立を機に義務教育八年は制度上確立されながらその後戦時特例によって停止された経緯がある。後者については、中学校と大学について別々の意見ではあるが、たとえば戦前の教育審議会においてもかなり積極的に論議されていた。しかし、皮肉なことには、義務教育年限の延長と学制の単純化は、敗戦と占領という最悪の条件のもとで一挙に解決をみたのである。

新学制の実施と学習指導要領

 昭和二十二年四月から学校教育法を施行し、新制の学校は、まず二十二年に小学校および中学校が、二十三年に高等学校が、そして二十四年(一部の私学は二十三年)に大学が発足した。新学制の実施は米国教育使節団報告書の発表から一年弱、教育刷新委員会の審議から三か月というきわめて短期間に準備を整えなければならないせっぱつまった大事業であった。まず教育課程と教科書の用意である。法令により、教育課程の基準は文部大臣の定める学習指導要領の基準によることとし、「学習指導要領一般編、試案」を二十二年春発表し、続いて各教科別の学習指導要領を発表した。これによると小学校の教科の基準は、国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育および自由研究と定められ、従来の修身、国史、地理の三教科がなくなり新しく社会、家庭、自由研究が教科として登場した。このうち社会科の誕生は教育内容・方法の改革と関連して特に注目すべきものであり、新教育課程は社会科を中心に推進されたといえる。その意味では社会科は戦後教育の長短、功罪を一身にになうこととなった。社会科の目標は、青少年が自分たちの社会に正しく適応できるように、またその中で望ましい人間関係を育成していけるように、進んでは自分たちの属する共同社会を進歩向上させることができるように社会生活を理解させ、社会的態度や社会的能力を養うことにある。したがって学習領域は単に修身、国史、地理を合わせたものということはできず人間のいとなみのあらゆる社会事象を含むものである。社会科は中学校および高等学校にも設けられた。教科書は新たに検定制度となったが二十二年度分は時間的に間に合わず暫定的に文部省による著作であった。

 二十二年度版の学習指導要領は、新学制発足に際し早急に作られたもので、文部省はその刊行直後から実施状況の調査と同時に学者や教師の協力を得て多角的な教育課程の研究に力を注いだ。二十四年、教育課程に関する重要事項を調査審議するため教育課程審議会が設置され、二十五年三月に小学校の家庭科の存否、毛筆習字の課程の取り扱い、自由研究の存否、総時間数の改正などにつき諮問され、答申の結果は二十六年に学習指導要領の改正となった。

中学校と施設

 中学校の発足についても教育課程および教科書については小学校と同様な経過であったが、特に中学校については母体となる旧制の学校がなく、しかも独立校舎をもつことを建て前としたので、当初から施設が最大の隘(あい)路となった。発足当初どうにか転用により独立校舎をもちえたものは一五%にすぎず、いわゆる青空教室や不正常授業はいたるところでみられた。また教員についても約半数は旧国民学校からの転任であり、しかも定数を満たすだけの人員を集めることもできず、さらに必要な免許状をもたないものもきわめて多数いる実情であった。施設の不足や教員の転任は当然小学校にしわよせを与えた。このような事態に対して文部省は二十二年に取りあえず学校施設補助金を補正予算に計上し、翌年には五〇億円の予算を用意して対処したが、二十四年度の当初予算において超均衡予算政策のあおりを受けて六・三制施設予算は全額削除という重大事態に陥った。このような事態で最大の苦境に立ったのは市町村当局で、全国一七〇にのぼる市町村長の引責辞職やリコールにまで発展し非常な混乱を引き起こした。その後関係者の必死の努力により事態は改善に向かったが発足当初はこのような深刻な事態を経験したのである。

高等学校の発足と三原則

 新制の高等学校は一年の準備期間をおいて昭和二十三年度から実施された。高等学校はおおむね旧制の中等学校が転換して発足したが、その際、学区制、男女共学制、総合制の三原則が方針とされた。この方針は旧制の中等学校間にあったいわゆる格差を是正しその平準化を図ることと、小学校および中学校とともに高等学校をできるだけ地域学校化してその普及を図ろうとする考えによるものである。そのため二十三年に制定された「教育委員会法」には、都道府県委員会が公立の高等学校について学区制をとるべきことを規定したのである。これにより二十三年から二十五年にかけて新制高等学校は統廃合を行ないつつ整備が進められたが、一部、地方軍政部の強い主張により実情を無視した総合制や学区制を実施したため混乱を起こしたり、禍根を残したところもあった。したがってこの三原則については、二十五年ごろから一部修正を始める地方もあり、ことに独立回復後は、地方の実情への即応や高等学校の新たな発展に対処するため、逐次是正が行なわれた。なお、私立学校の場合は旧制中等学校が母体となり、この三原則外におかれたため男女別々の高等学校となり、また中学校と高等学校の併設の型をとるものが多かった。

 高等学校の教育課程の特色は選択教科制と単位制であるが、それはこの段階の生徒の進路の多様性と個人の特性に応ずるための方策であった。新制の高等学校は教育内容により普通課程と職業課程があるが、前述の三原則により独立の職業高校は減少し、総合制における職業課程を含めて職業教育に必要な施設・設備がふじゅうぶんであり、加えて民主社会の人間形成における普通教育、一般教育の強調は職業課程を希望する生徒を減少させた。かくて戦後当分の間職業教育は沈滞に陥った。このような状態のなかで関係者の産業教育の振興への熱意と努力がしだいに実り、遂に二十六年議員立法による「産業教育振興法」の成立となりようやく産業教育は活気を呈するようになった。この法律は、もとより産業教育振興のための諸施策や施設、設備に対する国庫補助を規定したものであるが、同時にその後の各種の教育振興法の先鞭(べん)をつけた画期的な立法であった。高等学校はさらに教育形態により全日制のほか定時制、通信制の課程が置かれることとなって勤労青少年に大きく門戸を開いたのであるが、特に定時制については、二十七年度には五二万人、全高校生の二二・六%を占め、発足当初の三・一倍にのぼっている。

 新学制による中等教育の前期三年が義務制の中学校となり、後期三年が単一の高等学校となったことは教育の機会均等を目ざす新学制の理念の制度化であるが、これは高校進学率において端的にその成果が示されている。すなわち二十七年度には高等学校数は四、五〇六校、生徒数は二三二四万人となり、二十三年発足当時に比べてそれぞれ約二倍の増加をみせている。

新制大学の制度化

 新学制の頂点をなす新制大学は昭和二十四年度に本格的に発足した。新制の大学が制度化される以前に大学に関して二つの大胆な構想があった。一つは田中分相独自の構想による学区兆案で、全国を九つの学区に分け学区に初等教育から大学までの学校教育および社会教育をつかさどる学区庁を置き学区庁の長官には当該学区にある帝国大学総長を充てる案であった。これは大学の自治を中核にして教育の自律性を保障する教育行政制度を樹立しようとするものであったが、米国教育使節団報告書および教育刷新委員会の建議それに特に総司令部の強い意向が民意に基礎をおく教育行政制度の構想にあったためこの案は立ち消えとなった。他の一つは、主として帝国大学を中心に総合大学の七ないし九を残して他の国立の大学、専門学校を地方に委譲すべきことにつき総司令部から文部省に示唆があったことである。これに対しては大学関係者をはじめ各方面から反対の意向が表明され、教育刷新委員会も、大学の自由と自治の保障、高等教育機関の全国的配置、大学維持の財政力等の見地からこの構想に反対する建議を行なったため、総司令部もこの案を撤回した経緯があった。

 新制大学の設置について特に問題の大きかったのは国立学校であった。文部省が総合的な実施計画を立案するに当たり総司令部より国立大学の大都市集中をさけ、かつ高等教育の機会を全国的に均等化するため一府県一大学の方針が強く要請された。そこで文部省は二十三年六月、新制国立大学設置に関し一府県一大学を中心とする十一原則を定め、多くの大学、高等学校、専門学校、師範学校等につき統合か独立かを図ったが、地域の事情、学校の性格、伝統等多くの要因がからんで計画は難行したが、結局単科大学を含めて七〇校が二十四年から発足することとなった。また公立大学一七、私立大学八一が同年に発足した。当時、旧制専門学校のなかには教員組織、施設設備等の整備が遅れ新制大学への切り替えがただちには見込まれないものがあったため、二年または三年の短期大学を暫定措置として設けることとし、二十四年五月学校教育法の一部改正が行なわれ、短期大学は二十五年度から発足した。当初は大都市に集中した短期大学はその後しだいにわが国の社会的風土に即した独自の高等教育機関に発展していったのである。

 新制大学、特に国立大学については性格、伝統を異にする諸学校を早急の間に一つの大学にまとめたものであるからこれが一つの大学としてまとまった運営が行なわれるためには新しい大学の管理運営の制度が大学自体にとって必要であった。また、高等学校以下の学校に対する教育行政についで地方分権化と民主化を図るために教育委員会制度が採用されたこととも関連し、文部省の大学行政と大学の自治運営の調整を図るためにも新しい大学管理方式が求められた。これにこたえるものとして、二十三年十月総司令部の意向もあって文部省は「大学法試案要綱」をまとめたが、これはアメリカ合衆国の大学における理事会制度を取り入れたものでわが国の伝統的な大学管理の方式と異なるものであったため関係者のなかに激しい批判をまき起こした。そこで文部省は改めて協議会を設けて案を練り法案をまとめた。法案の骨子は、1)文部省に国立大学審議会を設け、大学関係法令の立案、予算編成方針、学部、大学院、研究所などの新設、廃止、教員の意に反する任免などについて文部大臣に答申、勧告する、2)大学に商議会を置き大学の教育、研究、運営について学長に答申、勧告する、3)数個の学部をもつ大学に評議会、単科大学、学部に教授会を置くとするものであった。二十六年「国立大学管理法案」および「公立大学管理法案」が国会に提出されたが、法案は継続審議の後、廃案となった。大学管理の問題はこのようにして未解決のまま残され、その後大学の急速な拡大と実態の変貌に伴いたえず大学管理が問題とされながら今日に持ち越されることとなった。

教員の養成

 新学制における教員養成については、教育刷新委員会は二度の建議において、教員は大学において養成し、特に小学校、中学校の教員を養成するために学芸大学・学部の設置を主張した。したがって国立大学設置十一原則において各府県には必ず教員養成のための大学・学部を置くこととされたのである。

 同時に大学における教員養成に必要な教育課程は教員の資格付与条件と関連するので、新たに「教育職員免許法」が昭和二十四年九月から制定施行された。これによると免許状の種類は、普通、仮、臨時の三種で、普通免許状は一級、二級とされ、原則として大学において教職専門科目を含める所定の単位を修得したものに授与される。かくて学芸大学・学部以外の大学・学部においても免許法に定める単位を修得すれば専門の学問を修めながら教員の資格を取得できるいわゆる開放制度がとられ、ここに教員養成制度は新しい免許制度と相まってわが国教育史上の画期的な改革をとげることとなった。免許法の施行により免許資格および免許状取得の現職教育の方法等が明らかになったので当時現職にあった校長、教員約五九万人に対し継続的・組織的に資質の向上と資格の上級化のための現職教育が行なわれることとなった。この現職教育は二十五年から十年計画とされ、二十九年に計画変更があり結局三十三年をもって完成したが、これは戦後教育界においては画期的な大事業であった。

教育公務員特例法の制定

 教員の待遇、身分の確立は焦眉(び)の急を要する問題で、戦後いくつかの措置が次々にとられたが、昭和二十四年一月「教育公務員特例法」の制定によって新しい制度が確立した。この法律は、国立学校および公立学校の教員を通じて、その職務と責任の特殊性に基づいて、公務員の一般法に対して特例を定めたものである。特例法の内容は、採用、昇任は競争試験によらず選考によること、その他分限、服務、研修等について特例が規定された。特に大学の自治を尊重する建て前から従来慣行とされた教員人事について大学の自主性が法的に確立されたことは注目すべきことである。

 戦後の混乱した社会状態や窮迫した経済生活のなかにおいて教師の生活を守るためにいくつかの組合が結成され、やがて全国的組織として二十二年六月日本教職員組合(日教組)が統一的に結成された。日教組は教職員の待遇その他労働条件の改善、民主主義教育の建設等を目標に掲げて出発したが、実際の運動は労働条件の改善のほか教育政策や選挙運動その他政治的活動に主力を傾注する傾向が強かった。そして二十七年第九回定期大会で「教師の倫理綱領」を決定したが、これは日教組の階級闘争観を端的に現わしたものと批判された。

私立学校に対する助成

 戦後私学の当面した問題はまず財政問題であった。都市に集中した私学の戦災は著しく、また当時の経済状態は私学存立の基盤をくずすほどでその経営をきわめて困難におとしいれた。文部省は、戦災復旧貸付金、経常費貸付金、旧軍用施設の転用および払い下げを、都道府県は契約金、補助金の支出を行なうなど応急的助成の手をうったが、財政問題はその後ながく尾をひいた。教育改革における私学の課題は財政問題のほか、従来の官学偏重の弊を打破して国・公・私立の平等を図り、私学の自主性を認めるとともにその公共性を高めることであって、教育刷新委員会も再度にわたりこの三つの課題について建議している。国・公・私立の平等は学校教育法において制度的に確立され、また私学の自主性、公共性の保障のために新たに「私立学校法」の制定をみた。この法律の内容は、一つは私立学校に対する所轄庁の監督権限を制限してその自主性を尊重し、二つは私立学校の設置者について学校経営の特殊性に即した学校法人という特別法人を創設してその公共性を確保し、三つには憲法第八十九条との関係を調整して私学に対する公の助成の道を開いたことである。このように私立学校法はわが国の私学制度に画期的な改革を行なったものでその後における私学の発展を保障したものといえる。他面、私学の自主性を前提とするその公共性の確保はほとんど理事者の良識と自覚にゆだねられたため、一部ではあるが私学経営に好ましくない事例も生じている。私学に対する公の財政援助は前述の応急措置を越えて積極的、恒久的な方策の樹立が強く要望された。一連の経緯ののち、昭和二十七年三月「私立学校振興会法」が制定され、ここに全額政府出資による「特殊法人私立学校振興会」が発足し、私学経営に必要な資金の貸し付けを行なうこととなった。しかし現実には資金の限界から施設費に対する貸し付けが中心であって、本格的な私学への財政援助はその後の措置をまたなければならなかった。

学生の状況

 終戦に伴い戦場や工場から学園にもどった学生はその日から戦後の社会的・経済的混乱にまきこまれ、深刻な食糧難と住宅難に直面し、また家庭からの送金も途絶えて、自ら生活の道を求めなければならない学生が少なくなかった。このような窮状に対して文部省は「勤労学徒援護会」(昭和二十二年から学徒援護会と改称)に補助を行ない学生のアルバイトあっせんを開始し、東京を始め地方主要都市に逐次学生寮を開設して救援の手をさしのべた。他方、「大日本育英会」(のちに日本育英会と改称)を通じて従来少数の英才を手厚く援助してきた方針を改め、奨学生の採用数を大幅に増員したが、なお学生の増加と引き続くインフレーションに対応することができず金額的にも必要経費の一部を援助する程度であった。学生生活の危機に対処したのは国や学校だけではなく学生自身の努力にもめざましいものがあった。二十一年から二十二年にかけて学生生活協議会、学生食堂連合会、全国学校協同組合連合会などが相次いで設置され、勉学の基盤を固める努力が続けられた。

 このような学生の生活復興運動とは別に、学園における民主的自治活動として組織された学生自治会の動きもしだいに活発となり、二十三年初頭の授業料値上げ反対運動を契機に同年九月には全国的組織としての全国学生自治会総連合(全学連)が結成されるに至った。その後総司令部の占領政策に変化をきたし、しだいに反共的立場をとったのに伴い二十四年から翌年にかけて総司令部の顧問イールズ博士が各地の大学を訪問して学問の自由を守るための反共遊説を行なったために学生運動は急激に反占領政策的な政治活動を指向していった。全学連は左翼的政治団体の指導下にあったが、二十五年上部団体の動揺を契機に過激な非合法活動に出るようになったため学内外の強い批判を浴び、さらに二十七年秋には学内でのいわゆる学園民主化闘争と学外での過激な街頭闘争という二面的傾向をとるに至った。

社会教育の振興

 戦時中、統制的指導の色を濃くしていた社会教育行政も、またそれにひかれて教化的性格を強めていた社会教育も、敗戦を契機に自由を回復し、人々の自発的学習を基盤とする本来の教育活動に向かうことになった。昭和二十年九月、文部省がはじめて教育方針を明らかにした「新日本建設の教育方針」において国民道義の高揚と国民教養の向上を目標に、学校教育の興隆と並んで社会教育の振興が強調された。米国教育使節団報告書は日本の民主化をすすめる上で成人教育の推進、行政の民主化、図書館の充実、PTAの奨励等について勧告し、教育刷新委員会も青少年や労働者に対する社会教育について建議し、特に二十三年四月の「社会教育振興方策について」の建議において社会教育関係立法の急速な実現を要望した。教育基本法においても社会教育の重視と施策の重点が定められたのを受けて二十四年六月、わが国ではじめての「社会教育法」が制定された。続いて二十五年四月には「図書館法」、二十六年十二月には「博物館法」が制定され、ここに新しい社会教育活動の基礎が確立されたことは画期的なことがらである。戦後民主社会の市民の育成を目的とし、特に選挙権の拡大に伴い公民教育が強く意識され、学校教育においてはこの思想は社会科へと発展したが、社会教育においては各種の社会教育活動の拠点としての公民館活動にひろがっていった。公民館はわが国独自の発想で二十一年七月には文部省は通達を発してこれを唱導したが、社会教育法においては実に全条文の半ば近くが公民館関係の規定で占められている。二十五年度から運営費、二十六年度から施設費の国庫補助も始まり、人々の郷土再建の意気と合して公民館活動はしだいにその基盤をかためてきた。また、婦人教育の振興も戦後社会教育の特質の一つであるが、戦時中の大日本婦人会に代わって地域婦人団体が発達してきた。PTAも戦後のこの期間に急速に発展した組織であるが、当時の学校教育の財政不足に対して後援会的役割を果たさざるをえなかった一面もあった。その他この時期の社会教育活動には、社会通信教育、学校施設の開放、視聴覚教育、各種の講座開設など多様な活動が展開された。なお、社会教育法の制定により、憲法第八十九条との関係で社会教育関係団体への公金の支出が禁止されたことは、これら団体の自主性を保つ意義は大きかったが、同時にその後の社会教育関係団体の消長に大きな影響を与えることとなった。

体育の充実

 学校体育についての終戦処理は、他の領域と同様に戦時中の軍事的色彩を除去することで、銃剣道と教練の禁止、武道の中止等が行なわれた。一方、新しい学校体育は新学制の内容として従来の形式的・訓練的な体育から遊戯、スポーツ中心の内容へ大きく転換した。武道もその後競技方法が改められスポーツとして昭和二十五年に柔道が復活し、その後弓道、剣道も教材として取り扱われるに至った。学校保健も新学制の発足とともに新たに転換した。従来の疾病・傷害の予防と処置を中心とする学校衛生の考え方から、健康そのものを教育目標にすえて積極的に健康の保持増進が図られることとなった。二十四年の教育職員免許法により従来の養護訓導、看護婦は養護教諭、養護助教諭と名称も資格も新たにされた。

 学校給食の歴史は戦前に古く遡(さかのぼ)るが、戦争の深刻化とともに中止されていた。戦後の学校給食は、食糧危機、子どもの体位低下、栄養不良という深刻な事情のもとで二十二年からララ(アジア救済連盟)物資、軍放出物資によってはじめられた。次いで文部省あっせん物資、脱脂粉乳、ユニセフ(国際連合児童緊急基金)寄贈物資などにより、学校給食は不完全ながらも拡大し、やがて、パン・ミルク・おかずによる完全給食が二十五年から八大都市においてはじまり、ようやく学校給食は学校教育活動のなかに定着してきた。二十六年末給食実施校は一万をこえ実施人員も八〇〇万近くに及んだ。

 敗戦の荒廃と意気消沈のなかから中堅スポーツマンの提唱による国民体育大会が大日本体育会(のちに日本体育協会と改称)の主催のもとに二十一年戦災をまぬがれた京都市を中心に開催され、食糧持参の選手五、三七七人が相集まりスポーツの復興と新生日本建設の意気を示した。以来この大会は「国体」の名で国民に親しまれ、毎年各地で開催され今日に至っているが、この間地方におけるスポーツの振興とスポーツ施設の整備に大きな役割を果たしている。文部省は運営費を補助し共催者として国体の推進に協力している。一方、二十四年には早くも全米水泳選手権大会に日本選手が参加し、古橋選手の大活躍があるなど戦後国際社会への復帰はスポーツに始まり、二十七年には十五回オリンピック大会に参加するに至り、スポーツの国際交流はいっそう盛んになった。

教育行政制度の変革

 戦後の教育改革で学校制度と並んで大きな変革をみたのは教育行政制度である。すでに昭和二十一年八月文部省において「教育行政刷新要綱案」がまとめられた。それによると、教育行政の官僚的な画一主義を改め、公正な民意と地方の特殊性を尊重し、教育の自主性を確保する基本方針のもとに、全国を九学区に分け、学区に学区庁を置き、その長官は学区内の初等教育から大学教育までおよび社会教育をつかさどり、また学区に調査審議機関として学区教育委員会を設け、府県には学区支庁、支庁委員会を置き、学校は設置者たる地方公共団体の管理のもとにおく。視学を学科指導と学校管理に分け、教員の身分保障を考慮し、初等・中等教員の給与費全額を国庫負担とする。さらに、学区庁長官には地域の帝国大学総長をあて、教育委員会の委員は教育者の選挙によることとされた。この構想は大学自治を中核として教育の自律性を保持しようとするものであった。しかるに、米国教育使節団報告書および教育刷新委員会の建議はむしろ教育行政を地方分権化してその基礎を民意におくことによって民主化を促進しようとするものであったため学区庁案は立ち消えとなった。教育刷新委員会の建議は教育使節団の勧告を基本としながらも学区庁案のブロック制を取り入れたものであった。改革の基本方針としては、1)官僚的な画一主義と形式主義の是正、2)教育における公正な民意の尊重、3)教育の自主性の確保と教育行政の地方分権、4)各種の学校教育の間および学校教育と社会教育の間の緊密化、5)教育に関する研究調査の重視、6)教育財政の整備の六項をあげている。具体的には、市町村および都道府県に住民の選挙による教育委員会を設けて教育に関する議決機関とし、教育委員会が教育総長を選任してこれを執行の責任者とする。さらに数府県を一単位に地方教育委員会を設けて地域内の人事その他教育上の調整に当たるというものであった。

 建議をうけた文部省は、当時二十二年四月から発足を期して検討が進められていた新しい地方自治制度との関連を考慮しつつ法案の制定を急ぎ建議の基本線に即した第一次案を定めたが遂に総司令部との話がまとまらず、あらためて第二次案の作成にはいった。第二次案はブロックに置く地方教育委員会をやめ、教育委員会の性格を行政委員会に明確化したが、教育委員会の設置単位、委員の選任方法、教員人事権等について最後まで文部省の主張は総司令部の入れるところとならず、かくて教育委員会法案は国会に上提されたが、はたして多くの論議をよびおこし、結局、国会で修正を受け二十三年七月制定され、十月五日第一回委員選挙を行ない、十一月一日に教育委員会は成立発足した。教育委員の公選を固執した総司令部の考え方は教育の管理は住民の手で行なうという米国の歴史的実態に基づくもので、したがって教育委員は教育の専門家でないしろうとが選ばれる建て前であった。ところがこの選挙では教員組合の支援で全体の三分の一が教員から選ばれた。当初の教育委員会制度にはわが国の実情からみてたしかに問題点があったが、この第一回の選挙結果は、別の意味で教育委員会制度についてその後の批判を生む結果となった。教育委員会は二十三年に都道府県と五大市に、二十五年に市町村に設置されることとなっていた。その後二十五年は時期尚早との意見が多くまた検討すべき問題も多いとの理由で、二十七年まで延長する法改正が行なわれた。そこで文部省に教育委員会制度協議会が設けられ、問題点の検討が続けられ論議の焦点は教育委員の選任方法と設置単位であったが、遂に結論を得られず、文部省はとりあえず実施を一年延期する法案を提出したが、衆議院の解散のため審議未了となり、結局、二十七年十一月に全国市町村に公選による教育委員会が設置されたのである。教育行政の自主性をうたった教育委員会制度において当初から教育財政についての権限なり、これを裏づける財源措置が問題とされた。

 当時、新学制実施に伴う施設整備と教員給与費確保が教育財政上の緊急問題であったが、これらは地方公共団体のみでは処理しきれない国家的な財政問題であった。したがって行政上自律性をもった教育委員会もこの緊迫した重大な財政問題を自主的に処理するには限度があり、その本来のねらいをじゅうぶんに発揮する条件はみたされていなかった。このような事情もあって教育行政制度の改革は、地方財源の充実、教育費の確保とあわせて制度的に再検討を迫られることとなるが解決は独立後の時期までもちこされた。

 地方教育行政の改革と並んで中央における動きをみると、終戦とともに戦時教育体制が解体され、文部省においては二十年九月にはまっさきに学徒動員局を廃止して専門・国民・数学・科学・体育の五局編成とし、十月には学校行政一元化を図るため学校教育局を新設し、社会教育局、教科書局が復活して教学局が廃止された。その後も局・課の新設があったが二十四年五月、新たに「文部省設置法」が制定され新しい文部省の組織と任務が明確にされた。これは行政機関の組織は法律で定めるとする戦後の民主化の措置であって前年の国家行政組織法の制定に基づくものであった。かくて、新しい文部省は、初等中等教育局、大学学術局、社会教育局、調査普及局および管理局の五局編成となった。この組織替えによって、二十三年の教育委員会制度の創設と関連して文部省はできるだけその権限を地方に委譲し、専門的、技術的な指導、助言、援助をおもな任務とし、他方、全国的な教育水準の維持向上の見地から教育の基準設定とこれを裏づける財政援助を行なうこととされた。中央における教育財政は新学制発足に伴う施設整備費と教員給与費が地方教育財政同様最大の問題であり、二十四年度からは新制大学が発足して新たに国立大学の施設整備が焦眉の急務となった。また、すでにふれたように私学に対する財政援助も急を告げていた。しかし、この時期の教育財政は中央・地方を通じて制度のたび重なる変革と激しいインフレとで安定を欠いた。地方教育費の中心的支柱となる教員給与費と施設整備費の国庫負担制度が確立し、さらに各種の教育振興法による国の財政補助制度が進められていくのは独立回復後特に三十年代の経済成長期を待たなければならなかった。

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