一 戦後教育史の概況

 昭和二十年八月十五日、敗戦を契機としてわが国の国政全般は連合国軍最高司令部(以下総司令部という。)の占領のもとにおかれることとなった。したがって、戦後のわが国の教育もこの占領というきびしい条件のもと、敗戦の荒廃のなかで大きな改革を迫られることとなった。そのため、戦後の教育改革のなかには懲戒的色彩をもつ措置やわが国の文化的風土に即しがたいものがあったことは否定することはできないし、また、新教育の理念と制度の樹立に急にしてこれを裏づける諸条件の整わないまま実施されたため、必要以上の困難と混乱を引き起こしたことも事実であった。しかし、戦後の教育改革は、これを近代教育史の発展の流れからみれば必ずしもその方向の大筋を誤ったとみるべきではなく,むしろ近代教育発展を妨げていたわが国独特のいくつかの障害を取り除き、わが国の教育を正常な発展の路線においたものということができる。

 戦後の教育史は、占領下の時期と二十七年の独立回復以降との二期に大きく分けることができる。そして教育改革はこの第一期の占領期間においてほぼその基本路線がしかれた。この占領期間の教育改革は二つの段階を経て実現された。第一の段階においては、一方において教育面における終戦処理と旧体制の清算が精力的に行なわれ、他方において新しい教育の理念の啓発普及が始められるが、まだ本格的な教育改革には手が及んでいない。しかし、この時期の措置のなかには戦後教育史上忘れることのできない重要なものがある。すなわち、二十年九月文部省の「新日本建設の教育方針」、同年十月から十二月にわたる総司令部の「日本教育制度に対する管理政策」以下四つの指令、翌二十一年四月の「第一次米国教育使節団報告書」および五月の文部省の「新教育指針」の発表とこれらに基づく諸施策である。第二の段階は、二十一年八月内閣に教育刷新委員会(二十四年以降は教育刷新審議会と改称)が設けられたことに始まり、以後同委員会の審議とその建議をもとにして新教育制度の基礎となる重要な法律が相次いで制定・実施された。すなわち二十二年四月からいわゆる六・三制は発足し、新しい教育行政制度もしかれるなど、教育改革の骨組みはほぼこの第二の段階の時期にできあがったのである。

 戦後教育史の第二期は二十七年四月平和条約の発効により、わが国が独立を回復して以来今日までの期間であるが、この期間も教育発展の経過からみると前後二つの段階に分けられる。第一の段階においては、占領期においてほぼ骨組みのできあがった教育改革、すなわち新教育制度に、数年にわたる実施の経験と独立後の自主的立場からわが国の実情に即した手直しが加えられた。同時に、わが国の経済もほぼ三十年を境に戦後復興期を終わり新たな発展段階にはいるに伴い、新教育制度は全般的に実質的な裏付けの措置がなされるようになった。その意味では戦後の教育改革はこの時期まで及んだとみることができる。独立後の第二の段階は、いわゆる六〇年代の経済の高度成長期にあたる。この時期は、戦後ベビーブームの波がようやく高等学校および大学の段階に押し寄せる一方、技術革新と経済成長に基づく教育への社会的需要が増大し、この二つの要因が相まって教育の著しい規模拡大がとげられた。教育のこのような量的拡大は実はうちに質的変貌(ぼう)を内包しつつ進んだのであって、四十三年から翌年にかけての激しい大規模な大学紛争は、もちろん多くの要因が深くからんでいたとはいえ、この変貌の実態に対し教育の制度と運営が適応しがたくなった状態を示す象徴的な事件であった。教育の量的拡大とともにその質的向上が改めてひろく認識され、七〇年代にはいるとともに、わが国の教育も戦後二十五年にして再び大きな改革に当面していることが強く意識されるに至った。

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