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第五節 宗教

明治初期における宗教行政

 明治四年の廃藩置県まで、維新政府は祭政一致の方針をつらぬくため、明治元年閏四月神祇官を設置し、全国の神社、神主等はすべて神祇(ぎ)官の指揮を受けることにした。政府はまた同年三月、神仏分離の令を出し、これがきっかけとなって、全国に廃仏毀(き)釈の運動が起こり、仏教界に大きな打撃を与えた。

 廃藩置県後、政府は中央集権的体制をかためるためには、単なる神道国教政策だけでは足らないとし、ここに民間に勢力をもつ仏教および神道諸教派の力を利用しようとして、これらをも含めた皇道宣布運動を展開することにした。神祇官は四年八月、神祇省に改められ、五年三月、さらに教部省に改組され、中央に大教院、地方に中教院、小教院を置き、同運動展開の中心とした。そして神職、僧職などにあるものを教導職に任命し、教化運動をすすめた。

 皇道宣布の運動、ことに神仏合同の布教には多くの無理があり、お互いに反発しあう傾向があった。他面、この運動は、いわゆる官製の上から押しつけられた運動であると批判され、信教自由の運動が盛んになるに伴って、ゆきづまりをみせてきた。そこで政府も神仏合同の大教院による布教活動を停止することにし、八年五月、大教院を解散し、これからのちは神仏が各自の教院で布教をするようにした。

 一方、政府は財政を確立するために、地租改正をすすめたが、この改正に当たって、四年一月、社寺領土知令を発した。この上知令は、これまで御朱印や黒印によって保障されていた社寺領は現在の境内地を除くほか、ことごとく返上を命じ、さらに御朱印境内地も必要部分を除いて没収したのであった。そして善後策として、官国幣社を除くほか、社寺禄(ろく)制を定め、一〇か年間逓減支給とした。

文部省宗教局の設置

 明治四年五月、神社は国家の宗祀(し)であることが宣せられた。一方、仏教については国家と分離する方策が取られた。六年二月、キリスト教禁制の高札が撤去され、その宣教は事実上黙認のかたちで行なわれるようになった。

 十年一月、教部省を廃止し、その事務は内務省に移され、内務省には社寺局が新たに設置され、ここで所掌することとなった。しかし教部省は廃止されたが、そのなごりともいうべき教導職の制度がなお存続し、僧尼としての公認資格が教導職試補以上に制限されていた。

 八年十一月、信教の自由保障の口達が発せられ、教導職廃止の運動はしだいに激しくなり、教派独立の気運が強くなった。こうして政教分離への動きが活発になり、神官については十五年一月、その他については十七年八月、それぞれ教導職が廃止された。そして、このとき神仏については、住職の任免、教師の等級・進退などは各派に一人ずつ置かれた管長に委任されることになった。

 二十二年二月、大日本帝国憲法が発布され、その第二十八条により、信教自由の原則が保障されることになった。しかしその自由は国家の安寧秩序を妨げず、および国民たるの義務にそむかない限りにおいての自由であった。

 また、安政年間以来諸外国と結ばれていた諸条約には不平等なものがあり、これを平等の条約に改めることが、政府、国民の要望するところであった。ところでこの条約改正に当たり大きな障害となっていたのが、キリスト教の取り扱いと神社の特別扱いとであった。そこで政府は三十二年五月、キリスト教の宣教を正式に認めるとともに、国・公立の学校における特定宗教の宣布、教授を禁止することにした。この学校教育における宗教の取り扱い方は、終戦の昭和二十年十月まで基本線となっていた。他方、昭和初年ごろから教育における宗教的情操涵養の必要性がいわれるようになり、昭和十年十一月、これについての通牒(ちょう)を出した。

 一方、神社はあくまでも国家の宗祀であり、他の宗教と同一視すべきでないとした。そこでそれらを同じ社寺局で取り扱うべきではないとし、明治三十三年四月、内務省の社寺局を廃して、神社局と宗教局の二つを置くことにした。このようにして神社は一般宗教とは別であるという姿勢がとられるようになった。そして大正二年六月、内務省の宗教局を文部省に移し、昭和十五年十一月、内務省の神社局は神祇院と改められた。

 文部省宗教局の所管事項は、教派、宗派、教会、僧侶、教師その他宗教に関すること、寺院、仏堂に関すること、および古社寺保存に関することであった。これからのち、神社を除く全国の宗教団体はすべて文部省宗教局の管轄下にはいることになった。

宗教団体法の制定

 この間、社寺、教会、講社などに対する行政上の取り扱いについては、教部省、内務省社寺局の時代にしだいに整えられ、神社は別として、その他はおおむね社寺取扱概則の制定、社寺の明細帳、総代、財産の保護、取り締まりに関することなど共通の法規でまかなわれていた。しかしこれらの法規は、性質ならびに内容上、はなはだ繁雑であった。ここに宗教法案が必要とされたのであった。ただこの法案の草稿には神社は除外されていた。

 明治三十二年十二月、第二次山県有朋内閣のとき、はじめて宗教法案が貴族院に提出されたが、主として仏教側からの強い反対に合い成立しなかった。これ以後、文部省に宗教局が移管されるまで、宗教法案が再び提出されることがなかった。しかし、文部省に移されてから再びその制定について議されることになった。

 大正十五年五月の「宗教制度調査会官制」公布により、文部省に宗教制度調査会が設置された。この調査会は文部大臣の諮問に応じて宗教制度に関する重要事項を調査審議し、また宗教制度に関する重要事項について建議する機関であった。おもな仕事は宗教法案、のちには宗教団体法案について、文部大臣の諮問に応じ調査審議することであった。同年六月から八月にわたり、宗教局において立案された宗教法案の原案を調査会において審議し、一部修正して、昭和二年一月、貴族院に提出した。しかし反対の声が多く審議未了となった。四年これを宗教団体法案の名称で調査会の審議を経て、同年二月、貴族院に提出したが成立をみるに至らなかった。十年にまた宗教団体法草案を審議し、議会に提出しようとしたが、それまでの運びに至らなかった。こうして明治三十二年以来三回にわたって議会に提案されたにもかかわらず、否決または審議未了に終わったが、ようやく昭和十四年四月、宗教団体法が公布されるに至った。

 宗教団体法は従前の案に比べると、できるだけ簡約化されたもので、その意図するところはおよそ次の三点に要約することができよう。第一は現行法規の整備である。宗教に関する当時の法令は明治初年以来随時発布された布告、布達、省令、訓令など三〇〇有余の断片からなり、しかもその間に連絡を欠くものが多く紛然としていた。そこでこれらの整備・統一を図ろうとした。第二は宗教法規の確立である。単に形式的だけでなく内容的にも拡充・確立しようとした。第三は宗教団体に対する保護と監督の強化である。

 これまで神道の教派と仏教の宗派については、根本法として明治十七年八月の太政官布達第十九号が存していたのに、キリスト教を奉ずる包括団体にあっては宗教法規の外に置かれていた。しかも法規上、これまでキリスト教を「神仏道以外ノ宗教」という漠(ばく)然とした言葉で表現していた。それをこの団体法では明瞭に「基督教」という文字を用い、それを奉ずる包括団体を「教団」として、従来の「教派」、「宗派」と肩を並べて根本法のなかに収めた。また従前宗教団体と法人との関係については法規上不明な点があったのを、この団体法では宗教法人に関する多くの規定を新たに設け、宗教団体の法律上の人格と宗教法人の行くべき道を確立した。

 宗教団体法は公布の翌十五年四月から同法施行令および同法施行規則とともに施行された。この施行の際、現に存していた、いわゆる公認の神道教派は一三、仏教宗派は五六であった。これら六九の教派・宗派は、そのまま団体法により文部大臣の認可を受けたのち教派・宗派とみなされた。しかし「教団」は団体法によってはじめて生まれた制度であるから、施行の際現に存する教団というものはなかった。この団体法によって教団の認可を得たものは、カトリックの日本天主公教とプロテスタントの日本基督教団の二つにすぎなかった。ここにキリスト教がはじめて日本国法上の宗教団体として、しかも法人たる教団として公認されたわけである。

 すでにふれたように、従前の教派・宗派は団体法による教派・宗派とみなされたのであるが、その内部規則は文部大臣の認可を必要とした。そしてその規則認可の期限を前にして教派・宗派に対し合同の促進が行なわれたが、神道教派間には合同は行なわれず、仏教宗派では従来の五六派が二八派になった。またキリスト教関係では、プロテスタント系約三〇の包括団体が合同して日本基督教団を樹立した。

 なお、宗教団体法公布と同時に、社寺領土知以来無償貸し付けの形になっていた国有境内地は宗教活動に必要な部分に限ってこれを寺院に無償譲与する法律が公布された。また文部省における宗教事務は、昭和十七年十一月、宗教務課から教化局宗務課に、二十年十月社会教育局宗務課において所管された。

 宗教界においては、新興教団は終戦の宗教団体法廃止まで行政上、類似宗教と称されていた。類似宗教については、大正年間から終戦までの天理研究会、大本、ひとのみち、燈台社などの事件が注意すべきものであろう。

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