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第四節 文化財保護

古器旧物保存方の布告

 明治維新による諸制度の改革・社会の風俗習慣の急激な変革の進展中で、いわゆる文明開化の風潮により、わが国古来の伝統文化を軽視して、美術品や建造物等の文化遺産を容易に滅失・破棄してはばからない傾向が生じてきた。明治元年三月に布告された神仏分離令が直接的原因となり、廃仏毀(き)釈と旧物破壊の嵐が吹き荒れ始めた。そして、古い寺院等に所蔵されている仏像や仏教関係の古文化財が多数廃棄され、あるいは古物商の手に渡っていった。このような文化財の危機に直面し、政府は四年五月、「古器旧物保存方」の太政官布告を発し、古器旧物の目録および所蔵人の詳細なリストの作成・提出を命じた。また、十三年ごろから内務省は全国の主要な古社寺等に対して保存金を交付し、社寺の維持基金に充てさせている。十三年度から二十七年度までに保存金の交付を受けた社寺の数は五三九社寺で、交付金は総額一二万一、〇〇〇円であった。

 「古器旧物保存方」の布告による宝物類の調査の後、十七年ごろから岡倉天心が文部省の委嘱を受けて社寺所蔵の古美術の調査に従事し、また、文部省でも全国の古美術類の調査を実施したが、二十一年九月に宮内省に臨時全国宝物取調局が設置され、本格的な調査が開始された。同取調局は、図書頭九鬼隆一を委員長として、文部省、宮内省等の関係官をもって委員、掛を構成し、古社寺保存法が制定された三十年まで調査を実施したが、同年十月に廃止され、その事務を博物館に引き継いだ。この間、同取調局が鑑査を行なった物件は、古文書一万七、七〇九点、絵画七万四、七三一点、彫刻四万六、五五〇点、美術工芸五万七、四三六点、書跡一万八、六六五点、計二一万五、〇九一点の多数にのぼり、優秀品に対しては鑑査状を発行し、その価値に応じて参考簿等に登録した。

古社寺保存法の制定

 明治二十七・八年の日清戦争を経て民族的自覚が高揚した時期に岡倉天心、伊東忠太等の識者や社寺等の関係者の運動もあって古社寺保存の機運が醸成され、二十八年の第九回帝国議会で貴・衆両院において「古社寺保存会組織ニ関スル決議案」が可決され、内務省に古社寺保存会が設置されることとなった。さらに、翌二十九年の第十回帝国議会には古社寺保存法案が政府から提案され、一部修正のうえ成立し、三十年に公布された。この法律は、古社寺の建造物および宝物類の保存を目的としたもので、古社寺でその建造物および宝物類の維持・修理の困難なものに対して、出願に基づいて内務大臣が古社寺保存会に諮問したうえ補助・保存すべきものを定めることとした。それとともに、同法は「社寺ノ建造物及宝物類ニシテ時ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範トナルヘキモノハ古社寺保存会ニ諮淘シ内務大臣ニ於テ特別保護建造物又ハ国宝ノ資格アルモノト定ムルコトヲ得」とし、これらの物件については処分および差押を禁じ、内務大臣の命令によって、国宝を官立、公立博物館へ出陳する義務を課することとした。これは後の国宝保存法、文化財保護法のように、まず国宝、重要文化財等の指定制度を設け、指定文化財に対して国の補助制度を定める法の体系とは異なっているが、実質的には後の指定制度と同様の意味をもつものであった。なお、同法第十九条(附則)では「名所旧蹟ニ関シテハ社寺ニ属セサルモノト雖乃本法ヲ準用スルコトヲ得」とし、名所旧跡に関してのみ例外的に社寺以外の物件にも保存の対策を講じうるようになっていたが、運用上はほとんど実効がなかったと言われる。

 法施行後の指定は急速に進み、特別保護建造物は、三十年度から四十一年度に至る十二年間には、三十八年度の日露戦争による中断を除いて年間平均六〇棟(とう)にのぼった。四十二年以降の二十年間は年間平均二〇棟となっている。宝物の指定は、三十年から三十六年にかけては年間二〇〇件近い指定が行なわれ、その後増加率が漸減しているが、その内訳は彫刻、絵画が圧倒的に多く、その他の物件は僅少である。

 古社寺保存法は、保存金および国宝出陳補給金として支出する金額を年五万円以上二〇万円以内として法定していたが、実際には、三十年度は五万円、翌三十一年度から大正七年度までは毎年一五万円(明治三十八年度のみ戦争のため一万円)で、大正八年度に二〇万円に増額し、昭和三年まで継続した。また、大正十三年度には関東大震災後の復旧費として一四万円の臨時費を組んだ。

国宝保存法の制定

 古社寺保存法は、国による制度的な保護を古社寺の所有する建造物と宝物に限定し、国、地方公共団体または私人の所有する物件に対しては保存措置を講ずることがなかった。これは明治維新以後の社会情勢に照らして古社寺の保存が緊急の課題となっていたからであった。しかし、城郭建築や旧大名家の所有宝物類等社寺以外の文化財で保存措置を要するものも多く、時代の推移とともにその必要性が高まり、昭和四年に国宝保存法を公布することとなった。同法は、第一条で「建造物、宝物ソノ他ノ物件ニシテ特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範ト為ルヘキモノハ主務大臣国宝保存会ニ諮問シ之ヲ国宝トシテ指定スルコトヲ得」と定め、社寺所有以外の物件を広く指定の対象とするとともに、建造物、宝物その他の重要な文化財をすべて国宝として指定するように改めた。また、同法で新たに国宝の輸出または移出を許可制とし、その現状変更についても許可制をとることとした。現状変更の許可制は、これより先に史跡名勝天然記念物保存法によって地方長官による許可制がとられていたのであるが、国宝についてもこの方針を採用し、主務大臣による許可を要することとした。これによって、修理に伴う復原まで許可を要することとなり、国宝保存のための規制は飛躍的に強化された。なお、古社寺保存法により特別保護建造物または国宝として定められた物件は、国宝保存法による国宝として指定されたものとみなされた。

 国宝保存法施行時において国宝とみなされた物件は、宝物類三、七〇四件(絵画七五四件、彫刻一、八五六件、書跡四七九件、工芸三四七件、刀剣二六八件)、建造物八四五件、一、〇八一棟であった。国宝保存法によって指定、保護の対象範囲が拡大された結果、国宝指定件数は一時的に飛躍的な増加を示した。建造物について見ると、昭和五、六両年度で新たに二〇〇棟の指定が行なわれたが、この中には、姫路城、名古屋城等の国有、地方公共団体有の城郭建築、徳川家所有の上野および芝の霊廟(びょう)などがあった。

 国宝保存法においても、国庫から支出する補助金、補給金の年額は古社寺保存法同様一五万円以上二〇万円以下としたが、特に必要があるときは別途予算の定めるところにより臨時の補助金等を支出できることとした。これによって、四年以降終戦時に至るまで、年々約三〇万円ないし王国、五万円前後(災害対策費を除く。)の補助が行なわれた。補助事業で特に大規模なものとしては、姫路城の修理があるが、この事業は十年二月に着工して以来戦前・戦後にわたって記録的な長期の事業となった。法隆寺の修理については既定予算で対処することが困難であったため、文部省内に法隆寺国宝保存事業部を設置し、修理事業に当たった。このように特記すべき事業も見られたが、全般的には前記のような経費のすえ置きに制約されて、保存事業の充実は困難であった。

重要美術品等の保存に関する法律の制定

 昭和六年の満州事変、翌七年の上海事変等の勃(ぼつ)発、金輸出禁止、金兌免換停止等を経てわが国の経済状態は不安定となり、円価が下落するにつれ、未指定の古美術品等の海外流出が続出した。このような情勢に対処するため、八年三月、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が制定され、同年四月に公布施行された。これによって歴史上または美術上特に重要な価値がある未指定物件で主務大臣が認定したものの輸出または移出は主務大臣の許可を要することとなった。認定の基準は準国宝級とし、円替為安等の一時的危機に対処する臨時の措置が立法の趣旨であるとされていたが、実際には、戦時中の一時的な事務の停止の期間を除いて、二十五年の文化財保護法制定まで継続し、同年に法律が廃止されたときには、認定物件数は八、二八二件に達していた。

史跡名勝天然記念物保存法の制定

 明治四十四年三月、第二十七回帝国議会の貴族院で「史蹟及天然記念物保存ニ関スル建議案」が可決されたが、これは提案理由にもあるように、「国勢ノ発展ニ伴ヒ土地ノ開拓道路ノ新設鉄道ノ開通市区ノ改正工場ノ設置」等国土開発の進展に対処するためであった。このような保存の気運の高まりによって、大正八年の第四十一回帝国議会に「史跡名勝天然記念物保存法」が提案され、成立を見、同年六月一日から施行された。同法では史跡等について主務大臣による指定制度をとったほか、必要があるときは地方長官が仮指定の措置をとることができることとした。第一回の指定は九年七月に天然記念物(植物)一〇件について、第二回の指定は翌十年太宰府跡等史跡等について、第三回の指定は翌十一年兼六園等の名勝等について行なった。

 現状変更または保存に影響を及ぼす行為は地方長官の許可事項とし、奈良公園内の道路開発等多くの観光関係開発事業等に規制が加えられていったのである。他方、指定物件の管理に関しては地方公共団体を指定して管理に当たらせることができることとし、国はその管理費の一部を補助できることとしたが、運用上はむしろ地方公共団体による管理が原則となっていた。また、管理費の補助として、標識、囲柵(さく)等の保存施設、物件の修理、鳥類の飼養等の補助を行なった。これらの補助事業のほかにも、太宰府都府楼跡、武蔵国分寺の金堂跡等の国費買い上げや地元から国に寄附された平城宮跡朝堂院堆区一二二アール(約三万七、〇〇〇坪)の整備および発掘調査も行なった。

 すでに大正二年に宗教局が内務省から文部省に移され、古社寺保存法に基づく保存行政が文部省の所管となっていたが、記念物行政は法律施行時に内務省所管となり、昭和三年十二月に文部省に移管されて宗教局保存課が処理することとなった。この時以降文化財行政は文部省で一体的に処理することとなり、今日に及んでいるのである。

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