三 学術・文化の国際交流

 明治維新後、わが国民の眼は国際社会に向けられ、国際文化交流の門戸が広く開かれたことは画期的なことであった。わが国の国際交流は、史実に現われたところを見ただけでも遠く七世紀の遣唐使派遣に始まり、爾後わずかながらこの極東の離れ島が海外と交流を続けてきたことは疑いない事実であるが、明治以後は全く様相を一変して、教育・学術・文化の国際交流が一大飛躍を見たことは注目に値しよう。

学術の国際交流

 学術研究がそれ自身、国際的な性格を有していることはいうまでもない。したがって、わが国の科学が発達するにつれて、おのずから学術的な国際社会との関係が深まり、国際的な連絡協力が進展していくのは当然である。そして、学問の性質上、国境を越えての研究が必須の天文学・地球物理学等の分野において、まず第一に国際協力が開始されたのも当然のことであった。

 その端緒として、緯度観測事業と測地事業が着手された。すなわち、明治十九年、ベルリンで開かれた欧州経緯度測定会議において、万国測地学協会を拡大して未加盟国に加盟を呼びかけることになり、わが国にも通報され、これに応じて二十二年、わが国も同協会国際条約に加盟した。その後、万国測地学協会では、緯度変化の国際共同観測を行なうため二十七年、具体案を提出し、わが国もこれを応諾して、三十二年、万国測地学協会との条約に基づいて、北緯三十九度八分七秒の線上の世界の他の五か所とともに岩手県水沢に臨時緯度観測所が創設されるに至った。この国際的な緯度変化の観測事業は以来、戦時、戦後の混乱のうちにも中断することなく、今日に至るまで実に七〇有余年にわたって継続しているのである。なお、この間、明治三十五年、観測所長木村栄博士の歴史的な「Z項の発見」の発表があり、国際的に高い評価を受け、のちに大正十一年、水沢は国際共同緯度観測所の中央局に発展していくのである。

 この臨時緯度観測所の設置を機として、明治三十一年、測地学委員会が発足した。その官制によれば「測地学委員会ハ文部大臣ノ監督ニ属シ万国測地学協会ニ関スル事務ヲ掌理シ及測堆学ニ関スル事項ヲ攻究ス」とあり、委員会は、創立以来重力測定を全国的に行なうとともに、海外諸地域との比較観測とを結合し、また大正十三年、東京天文台構内に三鷹国際報時所を設けて国際無線報時の受信と時刻の国際共同研究事業に参加する等、単なる審議会ではなく、それ自身、国際的な地球物理学的研究業務の中心機関としての役割を果たした。

 以上のような天文・測地の国際事業のほかに、科学情報についても国際的活動が行なわれた。わが国は万国理学文書目録委員会に参加した。すなわち、明治三十三年文部大臣の監督に属する理学文書目録委員会が設けられ、万国理学文書目録編さんの事業に協力した。この事業はイギリスの王立協会の首唱によって開始されたもので、数学・物理学・化学等の一七の分野の著書・論文の世界的な目録を作成して研究者の用に供することを目的とするものであった。本委員会の各委員は、わが国において出版した上記の分野の文献について、分担して目録材料に供する「スリップ」を調製して、ロンドンの中央局に送付し、明治時代その数は年間約一、〇〇〇枚であったが、大正十年ごろには四、○○○枚を越えた。これに対し、中央局からは毎年万国理学文書目録の送付があり、各帝国大学および帝国図書館に配布した。この事業は、第一次世界大戦を契機として大正十年に中央局からの目録送付が中絶して休止するまで継続したのである。以上は、わが国学術の国際的活動の端緒をなす代表的な事例である。

 明治三十九年には帝国学士院が「万国学士院聯合会」に加盟し、さらに大正九年学術研究会議が成立して「万国学術研究会議」に加入して、前述のようにわが国学界の国際交流の中枢機関となった。昭和六年万国学術研究会議は改組されて、「国際学術連合会議」(ICSU)となり、所属の学術連合の自律性を増し、またその分野も増加したがこれに伴い、学術研究会議をはじめわが国の重要な学術団体は、それぞれ対応する国際組織に加入する等学術の国際交流の波は、時とともに拡大していったのである。

文化の国際交流

 明治の維新政府が、欧米文化を摂取するに当たり、特に力を注いだのは高級指導者の海外派遣、留学生の派遣、外国人の雇傭、学術書の翻訳ということであったといえよう。そして、これらの方策は、明治・大正年間を経て昭和の中期までも一貫して持続され、しかも、それらが一体となって、わが国文化の進展に大きな寄与をしてきたものである。

 明治政府樹立以前から、幕末の情勢に応じ学術研究のため、欧米に留学する者が多かったが、明治新政府となってからは、さらに積極的な奨励の結果、海外留学生の数は著しく増加し、明治元年から五年にわたる間に、アメリカ合衆国に留学した者だけでも五〇〇人に達したといわれる。しかし、はじめ留学生派遣のことも、制度としてはあまり整ってはいなかったが、明治四年に文部省が設置されてからは逐次整備され、八年には、文部省貸費留学生制度として一応の完成を見るに至った。その後、幾多の変遷を見たものの、この制度は、昭和十六年の太平洋戦争勃発前まで続いている。

 明治以降、これらの留学生が派遣された主な国は、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ等であり、その専攻分野は、法学、経済学、物理学、化学、工学、医学等が主であったが、明治八年以降昭和十五年までの派遣留学生総数は、三、〇〇〇人を越えたのである。

 これらの留学生は、将来、外国人教師に代わって高等教育機関の教員その他各界の指導者とするため、政府によって派遣されたものであるだけに、そしてまた留学生自身も、特に明治初期の留学生には新しい国づくりの中核たらんとする若き俊秀が多かったので、近代国家建設の上に果たした彼らの役割は大きかった。

 また、他方明治五年三月発行の「御雇外国人一覧」によれば、当時、広く政府機関等に雇われていた外国人の数は二一四人にのぼっているが、それを国籍別にみると、イギリス一一九、フランス五〇、アメリカ合衆国一六、清(しん)国九、ドイツ八、マレー四、オランダニ、インドニ、イタリー一、ベルギー一、ポルトガル一、デンマーク一となっている。文部省雇外国人の数は、明治八年には、七二人にのぼっているが、彼らが、実際教育面、教育行政面に果たした功績は顕著なものであった。これら雇外国人は、海外留学生が相次いで帰国するに及んで、一時減少したが、明治中期以降再び増加するに至っている。

 このような海外留学生の派遣、外国人の政府機関、大学等への採用によって、欧米学術書の輸入はいよいよ広く行なわれ、文部省もその翻訳に大いに力を致し、明治七年には早くも五一部一三二冊の翻訳書類を編集刊行しているほどである。しかも、明治初期の翻訳は単なる翻訳ではなくて、哲学、法学、経済学、心理学、物理学、化学というような幾千万語の学術語の創造・統一をも含むのであった。この学術書の翻訳が教育・科学・文化の進展にあずかって力があったことはいうまでもない。

表30 文部省在外研究員の年度別派遣状況

表30 文部省在外研究員の年度別派遣状況

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