一 学術

明治期における学術の発展

 わが国における近代科学の歴史はきわめて浅い。幕末開国の前後から蘭(らん)学を主とする洋学が盛んとなったが、それは、近代科学移入の前段階ともいうべきものである。本格的には明治政府が「富国強兵・殖産興業」の大方針の下に、海外文物を精力的に導入した時期をもって近代科学の初めとみる。また、それは、緊迫した国際環境下に、わが国が封建国家から近代国家として存立・発展するために、政府自ら先進諸国の科学技術を急速に輸入・移植し、強力に国内産業を開発して、国防を強化することが切実な課題とされた時代でもあった。すなわち、明治の初期、政府は、大量の外人教師・外人技師を招致するとともに多数の留学生を海外に派遣し、近代科学は東京大学を中心に、近代技術は工部省が中心となって移植・導入されたのである。このようにして、東京大学は、わが国の近代科学の発展に指導的役割を演ずることになった。鉄道、通信、鉱山、造船等の技術は工部省自らが輸入し、その後も各省の保護政策により育成された。特に製鉄、造船、火薬等の技術は、軍事技術として国家により強力に推進され、これによってわが国工業発展の基礎が築かれた。こうして、科学と技術とが相互に内的関連性なしに、各個別々に摂取、育成された歴史は、わが国の科学技術のその後の発展にも長く尾を引き、科学と技術、基礎と開発の分離という性格をも生み出した。

 このような事情を背景に、わが国において、近代科学は、明治初期の導入移植の時期を経過してしだいに発展し、明治二十年代にはいるとようやく定着して、自主的な発展への第一段階を迎えたとみられる。その例証として次のような事例をあげることができる。

 第一に、大学における研究の責任が、外人教師から日本人の学者へ引き渡された。すなわち、明治十年、東京大学の創設期における理学部の教員組織をみると、一五人の教授のうち日本人の教授は員外教授を含めて四人であって、他の一二人は、外人教師によって占められていた。やがて海外留学を経験した新進気鋭の日本人科学者に外国人の地位は譲られ、十九年東京大学理学部が理科大学に改組された際には一三人の教授中、外人教師は二人を数えるだけとなった。さらに二十六年、一七講座が置かれた時には、講座担当者には一人の外人も加わっていなかった。

 第二に、学会の整備と研究発表体制が確立されたことである。わが国における専門学会は、十年に創立された東京数学会社をはじめとして、化学会、東京生物学会(十一年)、東京地学協会、日本工学会(十二年)、日本地震学会(十三年)、東京薬学会(十四年)、東京植物学会、東京気象学会(十五年)、人類学会(十七年)、農学会、東京医学会(二十年)と逐年、相次いで設立され、二十年代には自然科学の各分野の代表的な学会がほとんど発足するようになった。このことは、わが国の研究者に研究成果の発表の場が確立されたことを意味する。特に、これらの学会が中心となって、近代科学の訳語を制定し、学術用語の統一と普及が行なわれたことは、二十年にわが国の研究論文を海外に積極的に紹介するため、帝国大学紀要がはじめて欧文で刊行されたことと相まって、学術の発達に大きな基盤か形成されたのであった。

 第三に、先進諸国の制度・組織にならって、近代国家が必要とする科学に関する諸機関の設置が行なわれたことである。すなわち、十八年、内閣制度が発足するまでに、すでに水路部(七年)、東京衛生試験所、東京気象台(八年)、地質調査所(十一年)、統計院、陸地測量部(十七年)等の国家機関が設けられ、続いて、東京天文台(二十一年)、電気試験所(二十四年)、伝染病研究所(二十五年)等、国家機能を保全・強化するに必要な調査・研究機関が次々に設置され、これらの機関を中心に、各専門の研究も進展した。

 第四に、学術に関する組織・制度が確立したことである。十九年、帝国大学令を公布して、帝国大学が成立し、大学院を置き、二十年、学位令を公布して、学術に関する制度が整備された。また、のちの帝国学士院の前身である東京学士会院は、すでに早く十二年に「教育ノ事ヲ議シ学術技芸ヲ討論スル所」として設けられていたが、二十三年、東京学士会院規程が公布され拡充された。

 第五に、二十年代に、気象学における北尾次郎、物理学における長岡半太郎、細菌学における北里柴三郎の業績をはじめ、いくつかの国際的水準の研究成果が発表され始めた。

 このように明治の中葉には、近代科学は国家機能の充実・拡充とともに、わが国においてようやく定着・確立をみたのであるが、その後、日清・日露両戦争を契機とする急速な工業化を背景としてさらに発展を続けた。すなわち、明治の後半期には、政府所轄の試験研究機関もしだいに増加し、また、京都帝国大学(三十年)、東北帝国大学(四十年)および九州帝国大学(四十三年)が創設され、東北帝国大学に理科大学が、九州帝国大学に工科大学が開設(四十四年)された。これらの大学は、最高の教育機関として各方面に新しい科学者、技術者を供給するとともに、それ自身、科学研究の中心機関としての役割をになうものであった。

大正期以降における学術の発展

 大正年間、特に第一次世界大戦前後から、新しい発展段階にはいった。まず、数多くの充実した国立研究所が新設された。そのなかには、東北帝国大学鉄鋼研究所(大正八年設置、のち十一年に金属材料研究所となる。)東京帝国大学附置航空研究所(十年)、地震研究所(十四年)のごとき、帝国大学に附置された有力な研究所があるが、国立以外にも財団法人理化学研究所(六年)をはじめとして、民間企業においても試験研究機関を設立する気運が高まった。

 次に、研究者に対する研究助成事業が開始された。文部省は科学研究奨励金制度を創設(七年)したが、政府以外にも東照宮三百年祭記念会(四年)、哲明会(二年)、原田積善会(九年)、斉藤報恩会(十二年)等、有力な民間の学術奨励団体が生まれたのもこの時代の特色であろう。

 また、学術の国際交流が本格化したのもこの時代からであった。学術研究会議の創立(九年)は、まさにそのような国際化時代を象徴するものであり、第三回汎(はん)太平洋学術会議(十五年)は、わが国ではじめて開催された大規模な国際学術会議であった。

 以上のように、明治・大正を通じて、政府は、自ら試験研究機関を設置・運営して、必要な試験研究を行ない、また大学等を通じて研究者の養成を図り、あるいは研究費を支給して研究活動を助成する等の施策を講じた。大正末期にはその成果もしだいに現われてきたのであるが、その間に必ずしも統一した科学政策が存在したとは言いがたいのである。国家が科学研究に積極的・意識的に関与する傾向が強くなったのは、昭和六年満州事変のころからであり、国カの急速な増強が緊急な要請となった。 そのためにはますます社会的機能を増大した科学を振興することが、根本的な方策であることが改めて認識されたからである。十二年、日華事変を機として総力戦体制の進行に伴い、科学を国家目的、戦争遂行のために集中・動員することが至上命令となって、ここに学術行政ないし科学技術行政の強化が総合的に行なわれるに至るのである。

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