四 義務教育費国庫負担法

 昭和十五年において地方財政は全面的に改正されたが、これに伴って、従来の市町村義務教育費国庫負担法も改正されて、新たに「義務教育費国庫負担法」が十五年三月二十九日に公布された。すなわち、この年度において、中央・地方を通ずる税財政制度の改革が行なわれ、特に、従来の臨時地方財政調整補給金を組織的に制度化した地方分与税(配付税・還付税)制度の創設によって、恒常的な地方財政調整制度がつくられ、それに伴って、これまで義務教育費に対する国庫負担・補助制度が部分的に果たしてきた地方財政調整の役割は配付税が果たすこととなった。

 義務教育費国庫負担制度の改正は、十五年三月二十九日公布の義務教育費国庫負担法と「市町村立小学校教員俸給及旅費ノ負担二関スル件」(勅令)により行なわれた。この勅令により、「市町村立小学校教員(代用教員ヲ含ム)俸給及赴任ノ揚合ニ支給スル旅費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス」と規定され、負担法によって、「市町村立尋常小学校ノ教員(代用教員ヲ含ム)ノ俸給ノ為北海道地方費及府県ニ於テ要スル経費ノ半額ハ国庫之ヲ負担ス」と規定された。すなわち、第一に義務教育教員の給与費は、従来の市町村の負担から道府県の負担に移され、第二に従来定額であった国庫負担が実績による二分の一の定率負担に改められたのである。

 義務教育教員の給与費の負担を財政力の貧弱な市町村から、財政上の弾力性の大きな道府県に移したことは、市町村財政に対する教育費の重圧を除くとともに教員給与の水準を全国的に適正にするみちを開くものであった。また、従来の予算上の定額負担を、実績に対する定率負担に改めたことは、義務教育費に対する国と地方の負担区分を明確にした点で画期的な意義をもつ改革であった。なお、道府県の負担する他の半額については、地方財政調整機能をもつ配付税により財源調整が行なわれた。

 その後、十八年三月六日、義務教育費国庫負担法の全面的改正が行なわれ、教員の俸給のうち、年功加俸・特別加俸・賞与・死亡賜金および赴任旅費がいずれも市町村から道府県の支弁に移されるとともに、新たに国庫負担の対象に加えられた。これに伴い、明治以来年功加俸・特別加俸について国庫補助の根拠になっていた小学校(当時は国民学校)教育費国庫補助金が廃止された。

 なお、青年学校については、昭和十年の青年学校の創設当時から、「公立学校職員年功加俸国庫補助法」による国庫補助の対象に含められていたが、十四年度から青年学校が義務制となるに伴い、同年三月「青年学校教育費国庫補助法」が制定され、市町村立青年学校の教員の俸給、手当に充てるため、市町村に対して、毎年、予算による定額の国庫補助がなされることとなった。その後十九年二月の青年学校教育費国庫補助法の改正によって義務教育費国庫負担法の場合と同様に、市町村立青年学校の教員の俸給・年功加俸・賞与・死亡賜金・赴任旅費が道府県の支弁に移されるとともに、その二分の一が国庫から道府県に補助されることとなった。

学校建築および施設

 満州事変を契機として、経済界は戦争目的のみに統制され、相次いで公布された資金統制および資材統制関係の法令は学校建築に重大な影響を及ぼし、このため遂に学校営繕は一時ほとんど停止の状態に立ち至った。すなわち、臨時資金調整法(昭和十二年九月)の事業資金調整標準に定められた甲・乙・丙三区分のうち、学校建築は乙種のロ号の事業に指定されたため、資金調整の実際の運営ではほとんど甲種事業だけに限定された結果、学校建築の実施は資金的に非常に困難となった。次いで鉄鋼工作物築造許可規則(十二年十月)、用材生産統制規則(十四年九月)などの資材統制関係の規則が公布され、学校の改築や増築に充てるために準備された学校林も軍需資材の欠乏に伴って供出を命じられて学校営繕にまわる余裕がなく、学校建築はほとんど停頓するに至った。

 しかしながら、軍関係等の人口増の著しい地域では、不正常授業がはなはだしく、これらの特別な場合に建築する国民学校などに資材を極力節約して設計した教室の影として五・五メートル×一〇メートルの国民学校規格が制定された。(十九年一月)当時内務省所管の軍都整傭事業の施行に当たって、軍都の横須賀・佐世保・大村・舞鶴・光・多賀城などの地元の要望によって、軍工員集中地域の児童・生徒の増加に対して国民学校建設事業が整備事業の一環として行なわれた。しかし、戦争末期においては、この事業もほとんど進行しなかったのである。

 反対に、既存の学校校舎を学校工場化して、生活必需品や軍需部品などの生産工場とし、あるいは学生・生徒を工場や農場に動員したあとは軍隊の兵営等に充てられた。これらの学校工場に転換した校舎は中等学校以上のほとんど全部といつでもよく、学童の疎開したあとの国民学校は軍施設や、学校工場に転換したものが多い。

 空襲が熾(し)烈となるに従って、人手のない大規模な木造校舎は、焼夷(い)弾には無防備で、空襲ごとに校舎の被害は大きく、防空上の必要から天井板をとりはずすなど、校舎は補修することなくいためつけられたまま放置された。学童疎開に対しての施設は、新しく設けられたものでなく、既設の旅館・住宅などがこれに充てられ、衛生上必ずしも良好でない例もあったが、当時の逼(ひつ)迫した情勢下にあってはやむを得なかった。

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