第七節 特殊教育

国民学校令と特殊教育

 昭和にはいって数学刷新と学制全般の改革に対する要望が、ますます朝野に高まっていく過程にあって、特殊教育の諸分野でも国の強い教育振興施策を要望する運動が進められて行った。すでに、盲学校および聾唖(ろうあ)学校令をもって学校教育の体制を整えていた盲・聾教育界でも、学校令で取り残された就学義務制の実現を中心に運動が進められた。たとえば、帝国議会の議事録について見ても、昭和八年二月貴族院、三月衆議院(第六十国回帝国議会)、九年三月衆議院(第六十五回帝国議会)、十年三月衆議院(第七十回帝国議会)、十三年三月衆議院(第七十三回帝国議会)と盲・聾唖学校の就学義務制制定に関する請願や建議を扱っている。精神薄弱関係についても、特に九年日本精神薄弱者愛護協会が発足して以来、この協会を中心に、社会事業関係者の大会、心理学会等幅広く精神薄弱の保護法の制定実現運動が進められた。精薄児教育関係でも、たとえば十四年三月、第七十四回帝国議会の衆議院で低劣児教育指導に関する請願に対する意見書が採択されている。肢(し)体不自由児教育関係では、光明学校の設置後、関係者によって、盲学校および聾唖学校令にならって、肢体不自由児教育令の制定獲得運動が高まり、文教当局や議会に請願を重ねた。九年第三回全国児童保護会議でも、不具者教育令の制定が要望された。十年三月第六十七回帝国議会の衆議院で、かかる教育令制定に関する建議が可決され、十三年三月第七十二面帝国議会の衆議院でも、こうした請願に関する意見書が採択されている。

 このような障害各分野の教育・保護関係者からの教育振興に関する要望が反映して、十三年十二月の教育審議会の「国民学校師範学校及幼稚園ニ関スル件」の答申の「国民学校ニ関スル要綱」第十四項で「精神又は身体の故障ある児童には、特別の教育施設並にこれが助成方法を講ずるよう考慮し、特に盲・聾唖教育は国民学校に準じて速かに之を義務教育とすること。」と答申された。この答申は盲・聾教育の義務制、そのほかの特殊教育の振興をようやく公議に上らしたもので、これによって文部省は、国民学校令を起草した時、盲・聾教育の義務制のため予算計上をしたが、日華事変の進行と内閣の更迭によって実現できなかった。しかし、精神または身体の故障ある児童の特別な教育施設については、十六年三月公布された省令第四号、国民学校令施行規則第五節編制の第五十三条で、国民学校では身体虚弱、精神薄弱、その他心身に異常ある児童で特別養護の必要あると認められる者のために、特に学級または学校を編制できるとし、それに関する規程は別に定めるとした。

 これを受けて同年五月省令第五十五号で、これらの学級または学校は養護学級、養護学校と称し(第一条)、なるべく身体虚弱、弱視、難聴、吃(きつ)音、肢体不自由等の別に学級または学校を編制することとした。(第三条)この国民学校令による養護学級、養護学校との関連で、十八年三月の省令第二号中学校規程第二十七条、省令第三号高等女学校規程第二十八条で、同様の養護学級を中学校、高等女学校においても編制できるとし、その細則は、十九年国月省令第二十六号「中学校及高等女学校ノ養護学級ノ編成ニ関スル規程」、文部省訓令第十五号、「中学校及高等女学校ノ養護学級経営要項」で定めたのである。

 以上によって文部省は、積極的に養護学級の編制を奨励したので、十九年にはこの種学級は二、四八六にも達した。しかし、戦時下にあってそのねらいは主として身体虚弱の養護教育を意図したものであった。中学校における養護学級で、肢体不自由児を対象としたものは、十九年四月、東京の九段中学校に設けられている。また、東京市立光明学校は、国民学校令施行規則第五十三条を適用して、十七年四月、東京市立光明国民学校となった。なお、養護学級については、十九年夏から始まり、翌二十年にかけて強化された学童疎開等の戦時非常対策によって急速に閉鎖され、二十年にはいると五一七学級、(国民学校四六二、中学校四四、高等女学校一一)収容児童・生徒数一万八、二〇一人となった。

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