二 実業専門学校の改編

実業専門学校の増設

 昭和十年代にはいってからは時局の進展につれて実業専門学校も高等教育制度の一分野としてそれなりの改編を受けることとなった。戦時下における実業専門学校に対する方針は、全体として、高等工業教育および高等農業教育の重視にあったといえる。これは高度国防国家の体制のもとにおける工業生産力の増強ならびに国内における農産資源の開発・増産がしだいに急務とされるようになったからである。そして、これとは相対的に統制経済政策の進行とも相まって高等商業教育の地位はしだいに低くみられるようになった。いま十年代における実業専門学校の状況を学校数および生徒数によってみると上の表に示すとおりである。すなわち、実業専門学校は五年当時より約二〇校もふえて十五年には国・公・私立あわせて七二校となり、生徒数も倍加して四万人をこえるに至っていた。ところで、このような実業専門学校の増加傾向のなかで国立の学校の増加はもっぱら工業専門学校の新設によるものであった。それは十四年に室蘭・盛岡・多賀・大阪・宇部・新居浜・久留米の七つの官立高等工業学校が新設されたことである。このほか翌十五年には公立の高等工業学校が東京府に設置された。これによって工業方面における専門学校教育はにわかに拡大されることとなった。工業方面以外では、十三年に私立の日本高等獣医学校が、十五年には周じく私立の甲陽高等商業学校が設立・認可されている。これらのことから、この時期における実業専門学校の増設は著しく工業に比重がかけられていたとみられる。

表28 実業専門学校の学校数・生徒数の推移

表28 実業専門学校の学校数・生徒数の推移

戦時体制下の実業専門学校

 時局の急激な進展とともに実業専門学校も、戦時教育体制のなかに必然的に組み込まれることとなった。その具体的な措置の最初のあらわれは昭和十六年に実施された修業年限の短縮であった。すなわち、十六年十月十六日の勅令に基づいて、修業年限短縮の措置を決定したのであって、実業専門学校もほかの高等諸学校と同様に、十七年三月卒業予定の者を十六年十二月に繰り上げて卒業させることとなった。このようにして実業専門学校を含む高等教育機関全体の修業年限短縮という臨時措置を制度化するとともに、教育審議会の答申を反映した総合的な高等教育の改革を進めることを意図していた。この線に沿って十八年には専門学校令の改正が行なわれ、この機会に従来から存在した実業専門学校と専門学校の区別を廃止した。

 その後十八年には学徒戦時動員体制確立要綱その他の緊急措置を行なったが、戦争の逼迫はますます戦時教育体制の強化を余儀なくした。きびしい要請にこたえて一般学生の徴兵猶予の停止、学校・学科・教員・学生の転換・整理・統合を断行することとなった。そしてこの緊急方策によって、文科系大学および専門学校はこれを転換・整理・統合し、理工科系大学および専門学校は整備・拡充することとなった。そこで、これ以後高等商業学校の工業専門学校への転換が実際に行なわれることとなったのである。すなわち、十九年には官立の高等商業学校一一校のうち、三校が工業専門学校に、三校が工業経営専門学校に転換し、そのほか五校が経済専門学校と名称を変更している。これは、専門学校の工業転換の必要性とともに商業という名称をさえ忌避した当時の状況を反映した措置であったということができる。一方、いよいよ決戦体制に突入していくに伴って専門学校生徒の勤労動員さらに学徒出陣が行なわれたことは、ほかの高等教育機関の場合と全く同様である。

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