一 実業学校教育の改編

実業学校の新しい位置づけ

 昭和十年代にはいってからは時代の傾向と国家の新しい情勢に対応して実業学校は重要な改編をする時期に当面することとなった。この時期の教育政策全般を方向づけたものは教育審議会であったが、中等教育に関する政策の具体的なあらわれは十八年に公布された「中等学校令」であった。これによって実業学校は中学校、高等女学校とともに新しい中等学校制度のなかに統一されることとなった。このように新しく位置づけられた実業学校については、同年に公布された「実業学校規程」によってその種類は、農業学校・工業学校・商業学校・商船学校・水産学校・拓殖学校その他実業教育を施す学校とした。また修業年限は国民学校初等科卒業程度を入学資格とするものは四年、高等科卒業程度を入学資格とするものは三年とし、夜間の課程にあっては高等科卒業程度を入学資格として、その修業年限は男子四年、女子三年と定めた。この夜間の課程についての措置は卒業後専門学校その他に進学する道を考慮したものであった。

 なお、この際の改革において実業学校と中学校および高等女学校との間の生徒の転学について相互に便宜を図るべきことを規定した。これはもちろん教育審議会の答申に基づいたものであるが、従来全く切り離されて構成されていた普通教育と実業教育とを結びつけようとする方策を示したものであった。このことは、明治三十年代における学校制度の基本方策において、中学校の性格を高等普通教育を施す場所として規定し、そのなかから実科教育の思想を排除していた。それ以来、長い間の伝統によって分離していたことに対して、一つの新しい問題を提供したものとして注目される。このようにして実業学校は発足以来の一つの新しい時期に到達したわけであるが、このころにおける実業学校の状況を数字によってみると、右の表に示すとおりである。十八年当時において実業学校の学校数は一、九九一校、生徒数七九万四、二一七人に達していた。

表27 実業学校の学校数・生徒数の推移(昭和12二年~20年)

表27 実業学校の学校数・生徒数の推移(昭和12二年~20年)

 新しく位置づけられた実業学校の目的に関しては、中学校規程に定められた中学校の教育の要旨とほぼ同様であるが、特に実業学校の特質として、皇国産業の重要性の自覚、産業に従事する皇国民たるための教育などの点をあわせて強調した。教科は国民科・実業科・理数科・体練科および芸能科とし、女子には家政科を加えた。これらの各教科を構成する科目についても、中学校および高等女学校と同様であるが、実業科の科目は、それぞれの専攻学科についてくわしく規定した。

 なお、実業学校規程においては、実業学校に卒業生のための専攻科(一年、二年または三年)、国民学校高等科卒業程度の者のための専修科(二年以内)を置くことができると定めた。専攻科は二種に分け、第一種専攻科は実業学校卒業のものを、第二種専攻科は中学校または高等女学校卒業のものを入学させることとした。

戦時体制下の実業学校

 以上の新しい実業学校の位置づけは昭和十八年四月から実施されたが、このころから時局の緊迫に伴い実業学校を戦時教育体制のなかに組み込むこととなった。最初に実施したのは修業年限短縮の措置であって、実業学校も高等専門学校と同様に十七年三月卒業予定の者を十六年十二月に卒業させることとした。中等教育ではあるが実業学校については、このように卒業期の繰り上げをせざるを得ない事態に到達していたのである。

 さらに時局下のきびしい要請にこたえるため十八年十月に閣議決定をみた「教育に関する戦時非常措置方策」によって、一般学生の徴兵猶予の停止とともに学校・学科・教員・学生の転換・整理・統合が断行されたが、この際に男子商業学校を工業学校等へ転換する方策を実施した。すなわち、十九年度において工業学校、農業学校、女子商業学校に転換するものを除いて、男子商業学校を整理縮小するという措置を定めた。これによって全国の四五〇校のうち四八校を除いてそれぞれ転換、あるいは廃校と決定した。すなわち、工業学校に転換したもの二七四校、農業学校に転換したもの三九校、女子商業学校に転換したもの五三校で、廃校したものは三六校という状況であった。

 十九年以後は戦時体制のいっそうの強化に伴って、実業学校もほかの学校と同様に学徒勤労動員の体制にはいり、その後、日が進むにつれて全くの非常事態におかれることとなったのである。

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