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一 国民学校令の公布

小学校から国民学校へ

 昭和十六年三月一日、教育審議会の「国民学校、師範学校及幼椎園ニ関スル件」の答申に基づいて小学校令を改正して「国民学校令」を公布し、次いで同月十四日、小学校令施行規則を改正して国民学校令施行規則を公布し、いずれも同年四月一日から実施することとなった。ただし、改正の義務就学期間の適用については、国民学校令附則第四十六条の規定により、十九年度から実施することとなっていた。

 初等普通教育機関としての従来の小学校が国民学校に改められた基本理念については、時の文部大臣橋田邦彦から道府県に当てた文部省訓令第九号「国民学校令並ニ国民学校令施行規則制定ノ要旨」によって明らかにされている。それによれば、特に「未曽有ノ世局ニ際会シ庶政ヲ一新シテ国家ノ総カノ発揮ヲ必要トスルノ秋ニ当り教育ノ内容及制度ヲ検討シテ其ノ体制ヲ新ナラシメ国本ヲ不抜ニ」つちかう必要から、「我ガ国独自ノ教育体制ヲ確立センコトヲ期シ茲ニ国民全体ニ対スル基礎教育ヲ拡充整備シテ名実共ニ国民教育ノ面目ヲ一新シ克ク皇国ノ負荷ニ任ズベキ国民ノ基礎的錬成ヲ完ウシ将来ニ於ケル学制ノ根抵タラシメン」としたことが明示されている

 およそ七〇年間、人々に親しまれた「小学校」という名称が「国民学校」に改められるについては、当時、一部にはかなりの反対もあったが、結局、国民学校の教育は国民全部に対して行なわれるものであるということと、今回の改正により、わが国固有の教育方針と内容が確立されたのを機会に、「名実共に国民教育の面目を一新せんことを期する。」という趣旨によって断行されたのである。しかし、当時の有力な教育学者の中には、国民学校は小学校の根本的改革ではなく、従来の教育の改善ないしは徹底と見るべきだと主張した人もあった。

国民学校の目的

 国民学校の目的は、国民学校令第一条の「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」という四○字に要約されている。「皇国ノ道」とは、教育勅語に示された「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」をさし、「端的にいえば皇運扶翼の道」と解したのである。すなわち国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」させることを目ざしたのである。なお、「初等普通教育」とは国民学校の内容を示し、「基礎的錬成」とは、教育の方法を示したものであるとした。

制度上の改革

 前述のように、小学校を国民学校に改め、教育目的に国家主義的色彩が濃厚に加味されたが、制度上の改革点として注目すべきものが五つある。それは次のとおりである。1)義務教育年限が八年に延長されたこと、2)国民学校の課程を初等科六年・高等科二年としたこと、3)国民学校高等科第二学年を修了したもののために、修業年限一年の特修科を置くことができること、4)就学義務の徹底を図ったこと、すなわち、保護者の貧困による児童就学義務の免除または猶予の制度を廃する一面、心身異常児童のための特別の養護施設を講じ、また、家庭で義務教育を行ないうる旧制を廃したこと、5)国民学校職員の組織・待遇を改善したこと、すなわち、新たに教頭と養護訓導を置きうることとなり、かつ、校長と教頭は奏任待遇とすることができるようになったことである。

 なお右のうち、昭和十九年度から実施されることとなっていた八年の義務教育は、戦時非常措置により、延期されたまま終戦となった。なお初等科第六学年を修了すれば中等学校に入学できるようになっており、これらの生徒は八年の義務教育を、中等学校の二年修了をもってすませるようになっていた。

内容上の改革

 国民学校の本旨とする皇国の道にのっとる国民の基礎的錬成は、教科を通しての教育によって行なわれるべきものとの建て前から、従来の小学校の教科を、根本的に再編成することになったのである。そして、皇国民としての基礎的錬成の資質内容が、次の五つに大別された。1)国民精神を体認し、国体に対する確固たる信念を有し、皇国の使命に対する自覚を有していること、2)透徹せる理知的能力を有し、合理創造の精神を体得し、もって国運の進展に貢献しうること、3)かっ達剛健な心身と献身奉公の実践力とを有していること、4)高雅な情操と芸術的、技能的な表現力を有し、国民生活を充実する力を有すること、5)産業の国家的意義を明らかにし、勤労を愛好し、職業報国の実践力を有していること。

 このような資質を錬成するための教育内容の大分節が教科で、右の五資質のそれぞれに応じて国民科・理数科・体練科・芸能科および実業科(高等科)という五教科が分節して設定された。そして、右の各教科の含む多種多様な内容を、その性質と目的とに応じて組織し、教科の部分目的を達成させようとする小分節が科目である。つまり科目は、教科の有機的分節として観念されたのである。そしてすべての教科は「国民錬成の一途に帰せしめ」られたのである。これを図示すれば下の図のとおりである。

図2 国民学校の教科の構成

図2 国民学校の教科の構成

 前述のように、国民学校では、従来の教科目が一度解体され、「皇国民の錬成」という最高目標から、つまり「上から」、教育の内容が再編成されたものと説明されたけれども、一般にはむしろ、従来の教科目を単に「下から」くくったにすぎないとの批評もあった。方法上の改革

 この初等教育改革の顕著な特色は、その具体的な方法の上に多く現われた。国民学校教育の方法は「錬成」であって、「錬成」とは「錬磨(ま)育成」を意味し、「児童の陶冶(や)性を出発点として皇国の道に則り児童の内面よりの力の限り即ち全能力を正しい目標に集中せしめて錬磨し、国民的性格を育成することである。」と定義された。国民学校の発足した年の十二月に太平洋戦争が起こり、錬成の教育はいやが上にも強化された。

 また「基礎的」とは「錬成の程度を指すものであって、国民学校の教育はそれ自身完成教育でありながら同時に将来の教育の基礎であり生涯(がい)持続さるべき自己修養の根幹である。」と説明された。

 なお、国民学校の教育方法として刷新強化されたおもな点は、次のようなものであった。

 (一)主知的教授を排し、心身一体として教育し、教授・訓練・養護の分離を避け、国民としての統一的人格の育成を期すること。

 (二)儀式・学校行事の教育的意義を重んじ、これを教科とあわせて一体とし、全校をあげて「国民錬成の道場」たらしめようとしたこと。

 (三)学校と家庭および社会との連絡を緊密にし、児童の教育を全うしようとしたこと。

 けだし、「錬成」、「道場」、「型」、「行」、「団体訓練」というようなことばは、国民学校の教育方法として最もしばしば用いられたものである。そして、自由主義・個人主義というようなことばは、非国民的用語として極端に排撃された。当時は、一年生はおろか幼稚園児までも、朝の宮城遙(よう)拝につぐ団体行進や、かけあし訓練がしいられ、「勝つまでは」ということが絶対の制約として「必勝の信念」と「堅忍持久」の精神がたたきこまれた。

 また「国民錬成の道場」としての学校環境をつくるため、多くの学校では、武道場に改装された体育館はもとより、各教室にまで神だなが設けられた。教室には、このほか「青少年学徒に賜りたる勅語」や軍神の写真などが飾られていた。

 また礼法とか礼節が強調され、一五度とか三〇度の礼のしかたを正確にするため、大きな定規を作って、いちいち児童のからだに当てて指導した学校もあった。また有力な学者のなかにも誤った「道場教育」に警告を発した人もあったが、大勢のおもむくところはいかんともなし得なかった。しかし、ごく少数ではあるが、進歩的教育法の伝統をかろうじて維持してきた学校もあった。これらの学校は、終戦後において新教育の先駆となって指導的役割を果たした。

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