四 育英制度の充実

育英制度の発達

 明治三年「大学規則」が制定されるに及び、その中の「貢法」の規定により貢進生の制度が置かれた。すなわち太政官から各藩に命じて、有為な青少年を選んで大学南校に貢進生として入学させ、各藩の負担において一か月一〇両以上の学費を支給したのであるが、翌明治四年廃藩置県とともにこの制度は廃止された。次いで明治五年「学制」の頒布に伴い、政府は組織的な国家育英制度を創始した。すなわち「学制」の中に、各学校を通じて、生徒のうち、「学業鋭敏後来大成すべき」もので、学費に困窮するものに対し、その学業成績および貧困の状態を調査し、八大学区に平分して全国に一、五〇〇人を限り、学費を給与または貸与することを規定した。しかし、この制度が実施に至ったかどうかはつまびらかでない。

 右のごとき政府の育英制度に対する関心とともに、このころから民間にも育英事業の萠(ほう)芽があらわれてきた。明治十年ごろから旧大藩の中には育英事業を始め、旧藩士および藩内居住者の子弟に学費を給与または貸与して高等教育を受けさせるものが続出してきた。これらの育英団体の中の有力なものは今日もなお存在している。その後もこの種育英団体は相次いで各地に設けられるとともに、三十年ごろからは、実業界の出資になるものや、各府県の設立するものが現われてきて、四十五年には民間育英団体の総数は約八〇に達した。

 大正年代にはいってその数はますます増加し、従来主として高等教育を受けるものを対象としていたのが、このころから中等学校生徒をも対象とするものも現われてきた。また、大正末期には学校自体または、校友会が育英事業を行なうものが出てきた。このようにして育英団体は、大正十二年には三八二団体を数えるようになった。この育英事業増加の傾向は昭和年代にはいってさらに著しく、昭和十八年文部省の調査によれば、育英団体数六四五、うち地方公共団体の施設九六、学校の施設二四一、その他三〇八、その貸給費生は七、三五一人、うち高等教育諸学校五、二三六人、中等学校二、一一五人となった。

国家育英制度の創設

 前に述べたように、明治年代以来民間育英制度は漸次拡充され、その数は六四五団体を数えるに至ったが、その貸給費を受ける学生・生徒の数は、全国を通じてわずかに七、三五一人に過ぎなかった。また各人に対する貸給費の額も少額であり、かつ高等教育に偏して中等教育に薄く、また採用範囲も多くは設立者の縁故者に限定される等時世の要求に応ずるには足りない状態であった。しかも国家の施設としては、当時陸海軍および教員養成そのほか特殊の教育機関が給費を行なっていた以外には全くなんらの施設もない状態であって、国家育英制度の問題は多年教育上の懸案であった。時たまたま満州事変・日華事変に際会し、当時の国内事情により、軍人遺家族、一般勤労者、企業整備による転廃業者の子弟等が経済上の理由によって進学困難を来たすものがようやく増加してきたので、育英制度拡充の必要はさらに急務となってきた。

 昭和十六年に至り、教育問題に特に関心を有する多数の国会議員が、義務教育に従事する教員の待遇改善と師範学校生徒の給費増額とを政府に要望してその実現に成功したのを機会として、国民教育振興議員連盟を結成するに及び、同連盟は国家育英制度の問題を採り上げ、自ら調査・企画に着手するに至った。このようにして十六年十二月第七十九回議会に建議案として提出・可決された「大東亜教育体制確立に関する建議」の第二項に、「国民教育普遍化に対する方策の樹立ーー興亜育英金庫制度創設」が政府に建議されたのである。この案の要旨は次のとおりである。

 (一)貸費人員は中等学校二〇万人(一人平均年額三〇〇円)『専門学校・高等学校(同六〇〇円)および大学(同八〇〇円)各一万人とする。

 (二)貸費生はすべて生命保険に加入させ、保険料はその学校卒業後兵役義務を終了するまで、育英金庫において代掛し、その後は本人に掛け続けさせ、原則として保険金をもって貸費金を弁済する。

 (三)貸費資金は保険会社から貸与させ、政府は育英金庫を通じて資金の利子を補助する。

 そののち議員連盟では建議の原案をさらに具体的にするため調査・研究を重ね、生命保険の専門家の参画を得て、十八年一月「興亜育英金庫制度創設案要項」を作成、発表した。その修正の要点は次のとおりである。

 (一)原案では最初保険会社が融資することになっているが、これを別個の融資に求め、返還に関しては保険計算による。

 (二)貸費として放出された資金を吸収し、通貸の膨張を防ぐ目的を兼ねて、育英貯蓄・育英信託を併設する。

 (三)国庫負担を能(あた)う限り軽減して独立採算制を期する。

 一方政府においても右の修正案に基づき、さらに行政上の立場から検討して一応の成案を得た。議員連盟案との差異は、採用人員その他の数字を別にすれば、左の二点である。

 (一)貸費を原則とするが特別の場合には給費をも認める。

 (二)育英貯蓄、育英信託は行なわない。

 このようにして議員連盟は十八年二月第八十一回議会の衆議院予算分科会において、1)十八年度から即時実施すべきこと、2)規模は議員連盟案のとおり雄大なるものたることを要望し、文部当局は「国家的育英制度は可及的すみやかに実施するが、昭和十八年度は暫定措置として財団法人とし、法規的なものは十九年度から実施する。」旨言明した。

 政府は右の言明に基づいて、十八年度において、育英制度調査費予算を計上し、また基礎的統計資料の調査を行ない、これを基礎としてさしあたり十八年度事業の原案を作成した。またその所要予算額は第二予備金から支出されることに内定を見た。このようにして同年六月育英制度創設準備協議会が組織され、政府原案「育英制度創設要項」に基づき審議の上、同年十月同案が可決された。

 このようにして万般の準備を終え、十八年十月十八日財団法人大日本育英会を創立して事業を開始、次いで十九年四月十六日「大日本育英会法」が施行されるに及び、この法律による大日本育英会を創立し、財団法人の権利義務を継承して、新たに特殊法人として発足するに至ったのである。その後、二十八年にこれを日本育英会と名称を改めた。

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