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三 戦時教育体制の進行

修業年限の短縮

 日華事変の進展、国際情勢の緊迫に伴い、戦時体制はしだいに強化されて国防上ならびに労務動員上、多くの要員を必要とするようになった。昭和十三年の国家総動員法、十四年の国民徴用令の制定も、学校における集団勤労作業の実施も、この国家的要請に基づくものであった。しかし、時局がますます急迫するに及んで、遂に学校の修業年限を短縮する非常措置がとられることとなった。

 修業年限の短縮は、まず臨時措置として、十六年度から実施されたが、その法的措置として、十六年十月十六日勅令が公布されて、「大学学部ノ在学年限又ハ大学予科、高等学校高等科、専門学校若ハ実業専門学校ノ修業年限ハ当分ノ内夫々六月以内之ヲ短縮スルコトヲ得」と定められ、大学・高等学校・専門学校の修業年限が短縮されることとなったのである。

 文部省はこの勅令に基づき、同日省令をもって「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件」を公布して、大学・専門学校・実業専門学校の修業年限を三か月短縮し、十七年三月卒業予定の者を十六年十二月に卒業させることとし、また高等師範学校・実業学校・実業学校教員養成所も同様に短縮すべきこととした。

 中学校・高等女学校については修業年限を短縮することをせず、のちに述べるような措置をとり、また師範学校については、義務教育年限延長に応ずるため、年限の短縮を行なわないこととした。

 十七年度からは、以上の学校のほか、高等学校高等科・大学予科等もこの措置により、六か月短縮して九月に卒業させることとし、以後毎年度臨時短縮に関する省令を公布して実施した。

 修業年限の短縮は以上のような臨時措置として毎年度行なわれるとともに、高等学校高等科・大学予科および中等学校については、十七年八月の閣議決定に基づき、学制を改めて制度上からその修業年限を短縮する措置をとることとした。すなわち、十八年に高等学校高等科・大学予科の修業年限三年を二年に、中等学校の修業年限五年を四年に改め、それぞれ一年を短縮することとして、十八年四月入学の生徒からこれを施行した。

 修業年限短縮の措置は十九年度まで実施されたが、二十年度は別に述べたように学校の授業が停止され、さらに終戦となったので、この措置は実施できなかった。そして終戦とともにこれは廃止され、また高等学校高等科・大学予科および中等学校の修業年限は二十一年、それぞれ三年および五年と元のように改められた。

学徒動員

 昭和十年代にはいって、いわゆる「国防国家体制」が進められていく情勢のもとにおいて、文部省は十三年六月、「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通牒(ちょう)した。作業の実施期間は、夏季休暇の始期終期その他適当な時期において、中等学校低学年は三日、その他は五日を標準とし、その対象としては農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡易な作業を選んだ。これは当時の実践的な勤労教育の考え方に基づいたものであった。翌十四年三月、文部省は中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時だけでなく随時これを行ない、正課に準じて取り扱うことを指示した。この時期における勤労作業の対象は、主として、木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等であった。十六年二月の「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において、文部省はこの運動を「国策ニ協カセシムル実践的教育」であるとし、「一年ヲ通ジ三十日以内ノ日数ハ授業ヲ廃シ」て作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認めた。さらに同年八月には文部省の指示によりって全国の諸学校において学校報国隊が結成された。

 学徒の動員体制はしだいに進められ、軍要員と軍需生産要員の充足に応ずるため、前述のごとくこの年の十月には大学・高等専門学校の在学または修業年限が六か月短縮されることとなった。十二月八日、遂に日本は太平洋戦争に突入したが、戦局がしだいに進むにつれて、軍動員の増加に伴う、産業界の労務給源は減少する一方となり、学徒の労働力が注目されるようになった。そこで十八年六月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定をみることとなった。この決定は学徒の戦時動員体制を確立して、「有事即応ノ態勢」に置くこと、および「勤労動員ヲ強化」することがねらいであった。「有事即応ノ態勢」とは、軍事能力の増強と「直接国土防衛」への期待をこめて、学校報国隊の待機的姿勢を強化し、戦技訓練・特技訓練・防空訓練の徹底を図ること、女子については戦時救護の訓練を実施することであった。

 十八年九月、戦局の不利な状況に対応して、政府は「現状勢下における国政運営要綱」を閣議決定し、これに基づいて十月には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が決定された。これによって、学校の修業年限の抑制と学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等の措置が決定された。すなわち、勤労動員を「教育実践ノ一環」として、「在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間」実施することとなった。十六年二月勤労作業の期間を三十日とした基準はこれによって破られた。この秋多数の学徒が出陣し大学は非常時の編制となった。十九年一月、政府は激増の見込まれた労務需要に応じるため、「緊急国民勤労動員方策要綱」を閣議決定し、またこれと同時に「緊急学徒勤労動員方策要綱」を決定した。この決定は学徒動員を「勤労即教育ノ本旨ニ徹シ」て強化し、「動員期間ハ一年ニ付概ネ四カ月ヲ標準トシ且継続シテ」行なう建て前とした。これは前年十月決定した「教育ニ関スル戦時非常措置方策」の線と同一であったが、その動員期間が断続するものでなく「継続」するものであり、動員の性格が従来の「教育実践ノ一環トシテ」の勤労動員から「勤労即教育」と見なければならなくなった点は著しい相違であった。

 十九年二月戦局はいよいよ不利となり、政府は、同月二十五日閣議において「決戦非常措置要綱」を決定し、国民生活の各分野にわたって当面の非常措置を定めた。これによって前月の閣議決定は根本的に修正され、中等学校程度以上の学徒は「今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常勤務ニ出動セシメ得ル組織体制ニ置キ必要ニ応ジ」動員することに決定した。三月「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、動員の基準を明らかにした。この中において、1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理などが強調された。文部省はこの決定に基づいて詳細な学校別動員基準を決定し、三月末指令した。全国の学徒は四月半ばころから、通いなれた校舎に訣(けつ)別して続々と軍需工場へ動員されていった。四月文部省は「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」を指令した。これは作業場を「行学一体ノ道場」たらしめ、学徒の「奉公精神、教養規律ニヨリ、作業揚ヲ純真且明朗ナラシムルコト」を要請し、教職員の「率先垂範陣頭指揮」を強調したものであった。さらに五月文部省は、「勤務時間中軍事教育、教授訓育等ノタメ一週六時間ヲ原則トスル時間ヲ設ク」べきことを指示した。当時アメリカによる本土爆撃はようやく熾(し)烈となり、わが空軍の劣勢は明白となってきた。政府は、七月「航空機緊急増産ニ関スル非常措置ノ件」を閣議決定し、学徒動員の、強化をそのための一措置として決定した。これに基づいて文部省は同月「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、1)一週六時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課する 5)出動後二か月たたない学徒にも深夜業を課することなどを指令した。

 十九年八月、「学徒勤労令」が「女子挺身隊勤労令」と同日に公布され、学徒動員の法令上の措置が決定した。一方動員は徹底的に強化され、十一月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令された。また、十二月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年三月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとした。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は十二月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置された。

 二十年戦局はいよいよ苛(か)烈となるに及んで、三月政府は「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。さらに五月二十二日「戦時教育令」が公布された。この勅令には特に上諭が付せられたが、上諭は「教育勅語」を引用し、「一且緩急ノ際ハ義勇奉公ノ節ヲ効サンコトヲ論シ給へり」と前提し、「今ヤ戦局ノ危急ニ臨ミ朕ハ忠誠純真ナル青少年学徒ノ奮起ヲ嘉シ」とあり、学徒に対し最後の奉公を求めたものであった。

 同年八月十四日わが国は無条件降伏を通告したが、それぞれの職場において終戦の詔勅を聞いた動員学徒の数は三四○万人をこえたといわれる。そして、学徒動員による死亡者は一万九六六人、傷病者は九、七八九人であった。

学童疎開

 昭和十九年戦局いよいよ不利となった六月の末、政府は「一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外特ニ国民学校初等科児童ノ疎開ヲ強度ニ促進スル」ことを閣議決定した。この決定においては、学童疎開は縁故先への疎開をまず勧奨し、縁故先のない者に対し集団疎開の方法をとることとした。これと同時に疎開の具体的方法として、「帝都学童集団疎開実施要領」を決定した。対象となったのは、国民学校初等科三年以上六年までの児童で、保護者の申請によって疎開させることとした。学童疎開を行なう都市は、当初東京都区部を対象としたが、七月の文部省通牒で、疎開都市として東京都区部・横浜・川崎・横須賀・大阪・神戸・尼ケ崎・名古屋・門司・小倉・戸畑・若松・八幡の一三都市を指定し、受け入れ先としてそれぞれの近接県が選ばれた。計画当初における疎開児童は四○万人と推計された。

 実施に当たっては、防空上最も重要な八都市の児童をまず疎開させた。東京都の児童約二〇万人が都下および近接一四県へ、横浜・川崎・横須賀市の児童三万四、〇〇〇人が神奈川県下に、名古屋市の児童三万五、〇〇〇人が愛知・岐阜・三重の各県へ、大阪市の児童七万人が大阪府下および近接一一県へ、神戸・尼ケ崎の児童二万一、〇〇〇人が兵庫・鳥取・岡山の各県へ、以上約三五万人の児童が、三四都府県の旅館、寺院その他七、〇〇〇余か所へ集団疎開を行なった。福岡県下の各都市は、縁故疎開をする者が多いという理由で集団疎開を行なわなかった。

 翌二十年三月、政府は「学童集団疎開強化要綱」を閣議決定し、低学年児童も父兄の希望により参加を許し、四月には京都・舞鶴・広島・呉の各都市が追加され、疎開学童は約四五万と推計された。上記のほか、沖縄県の児童約七、○○○人が熊本・宮崎・大分各県へ、種子島の児童約五、五〇〇人が鹿児島県へ、小笠原島の児童約三〇〇人を長野県へ疎開させた。

 疎開地における児童の生活は一般に貧しかった。食費は当初一人月二〇円、土地建物借受料一人当たり月五円であったが、十九年九月文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一か月二五円、そのほかは二三円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとした。保護者は生活費の一部として月一〇円を負担した。児童は常時、食糧や薪炭の調達に使役され、教職員は生活物資の収集に日夜東奔西走した。

 疎開における教育施設は、疎開地の国民学校、中等学校等の教室、または公会堂・寺院・寮舎・農舎などが利用され、それらは疎開側の学校の分教場として取り扱われた。児童の教育には、疎開側学校の教職員が当たり、疎開側と受け入れ側の両方の教職員が相互に相手学校を兼務する建て前であった。児童数は一宿舎一〇〇人を単位とし、二学級に編制し、訓導二人、寮母四人(内一人は看護婦)、作業員三人、寮務嘱託三人、嘱託医一人が配属された。疎開児童の保健衛生については、文部省は十九年八月「疎開学童ノ保健衛生ニ関スル件」を指令し、受け入れ側の婦人団体・医師会・歯科医師会等が協力した。さらに同年九月政府は「疎開学童ニ関スル措置要領」を閣議決定し、学童疎開の再確認、疎開計画の不拡大と疎開地施設の改善とを決定したが、引き続き「学童集団疎開対策協議会設置」を決定し、文部大臣を委員長とし関係各庁の関係官を委員とする協議会を設け、対策を審議させることとした。この審議に基づき、冬季対策や食糧衣料対策の改善の方途を講じ、また配属職員の増員および待遇改善が行なわれた。皇后は十二月二十三日皇太子誕生の日に、疎開学童に対し菓子と御歌を賜い激励された。

 集団疎開に要する経費は、保護者の負担を除いた純負担額に対し八割、受入諸費に対し全額を国庫が負担した。昭和十九年度の国庫補助予算は約一億一〇〇万円、昭和二十年度は約一億四、○○○万円であった。

 二十年一月、政府は集団疎開の継続を閣議決定したが、その年八月疎開児童たちはそれぞれの疎開先で終戦の日を迎えた。

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