一 戦時期における教育の動向

教育改革の方策

 昭和六年の満州事変以後、わが国の教育は戦争の影響を受けるようになってきていたが、十二年の日華事変を契機として、さらに著しい変化をするようになり、文教行政の上にも戦時下教育という考え方が強く示されるようになった。十六年十二月からの太平洋戦争は、急速に戦時の教育体制をとることを要請したので、情勢は変わってきた。さらに十八年からは決戦体制をとることが必須(す)であると見られたので、教育全般が非常時に備えるものとなり、戦争の激しさが本土の近くに迫るとともに、戦時教育令が公布され、学校の教育はほとんど停止されるという措置をとらなければならないまでになった。

 十六年に至るまでの教育に大きな力となり、改善の中心になる考えを立てていたのは教育審議会である。これは十二年十二月に設けられ、日華事変後におけるわが国の諸要請を教育の上に反映させたことにおいて、きわめて重要な役割を果たしたものである。この教育審議会で決定された改革の諸方策が、そののち順次教育制度の上に実現されたのである。その役割から見て、第一次世界大戦後に設けられた臨時教育会議と比べて類似したところのものを認めることができる。教育審議会も初等教育から高等教育に至るまでの全体制を検討して、その一つ一つに改革の方策を指示して答申としたのである。しかし教育審議会が改革の焦点としたところは、教育内容および方法についてであって、学校教育制度を組み替えるということは特にとりあげていない。当時の学制の基本構成はそのままにして、これらの制度の中で、皇国民を育成する教育の精神とその実態を、どのように確立するかということを審議して、その結論を答申としてまとめ教育改革を進めその成果をあげようとしたのであった。

学校教育における改革

 この期間の教育改革で最も大きな変化が現われ、それが全般の改革に対して基本となる性格を決定したのは初等教育であった。小学校が皇国民育成の目標から国民学校と改められたことは、審議会による教育改革の性格を確認させるのに役だった。この国民学校を初等科六年・高等科二年とし、八か年を義務教育とすることに決定されたが、義務年限の延長についてはその実施を延期したために、遂に実現できなかった。したがって学校の制度・体制にはなんらの改変も見なかったのである。しかし国民学校における教科の編成については、今までに見られなかった大きな改革がなされたのである。すなわちその教科は国民科・理数科・体練科・芸能科・実業科であって、各学科として従来立てられていたものが、これらの教科に総合されることとなったのである。この学科編成の基本方針は、そののち中等学校へも適用されたのであるから、内容編成の新しい方針は、国民学校から出発しているということができる。

 中等教育を担当する諸学校は、長い間の制度として、中学校・高等女学校・実業学校に三分されていたが、これをまとめて中等学校令で取り扱うこととなった。しかし全般的な制度改革が行なわれたわけではない。中等教育の改革は主として学科内容に向けられた。これらの学校における教育の目標は皇国民の育成にあるので、その考え方で内容の再編成を要求した。中等学校の教育内容は昭和十二年にも教学刷新の目標から再編成されてきたが、それがさらに戦時下教育の方向へ進められることとなった。武道は国民学校から教えられたが、中学校においてこれを重く見たことはもちろん、配属将校による軍事教練の強化、勤労作業をもってなす錬成などが注目される。さらに中等学校にとって教育内容の統制に一時期を画したのは、十八年から実施された中等教科書国定のことであった。これによって中等学校も初等教育の学校と同様に、教材は国定教科書の一種類に限られたばかりでなく、それが戦時教材として編集されたことはいうまでもない。特に戦時下の中等学校として注目すべきことは、戦時生産の要請によって、実業学校の性格に再編を加え、工業生産に即応させて転換させたことである。さらに生産の増強によって学徒を工場そのほかの戦時生産に動員し、学校工場を設けるようになった。これらの方策は十八年から翌年にかけて強化された。

 高等教育機関については、ここにも皇国民育成の目標を織りこんだことは同様であるが、理科系統の教育を急速に拡充して、戦時態勢に即応させようとした。そのため文科系統の専門学校を理科系統の学校に改造し、大学においても理科系統を拡充して、多数の学生をこの分野に進学させる方策をとったのである。さらに戦時下の教育方策として、在学年限の短縮を計画して、早く学窓を離れて生産に従事するよう求めた。これは中等教育から短縮された学校の教育計画としては、教育内容を再編するためにさまざまな問題をもつこととなった。高等教育機関は十八年から戦時編制を受け、ほとんど学校としての機能を停止するような実情になった。それらの方策の中で特に重大な結果をもたらしたのは、学徒動員であった。大部分の学生は学業を中断して戦場へ向かった。残った学生は工場などへ勤労動員としてはいったので、学校にはほとんど学生の姿を見ることがなくなった。研究の機能もまた戦時下の体制をとったので、戦争の目的にかなう研究へと動員されたのである。

社会教育における改革

 戦時下の学校の中で、特殊な任務を果たすものとして最も早く再編されたのは青年学校であるが、これは社会教育局の所管であるため、社会教育として取り扱われていた。これは昭和十四年から義務制となり、年を追って低学年から就学の義務を要求した。男子青年に対して五年の課程を設けた青年学校は、十九歳までの学校教育を男子青年大衆に義務として要求したのである。このために国民学校高等科はこれを義務制とはしなかったが、青年学校本科への進学は、国民学校高等科修了程度とされていたので、事実において初等教育六か年の義務を終わったものが、さらに七年にわたる学校教育を受けるようになった。

 社会教育は国民全層をその対象としていることにおいて、学校とは異なった戦時体制をとった。十二年八月に実施要項を定めてその運動を展開した国民精神総動員は、文部省もこれに深い関係をもち、施策するところがあった。この総動員運動とともに、常会をもってしだいに戦時下国民編制を行なう計画をたてた。これは社会教育活動の一面をもつと見られたので、そのための施策をたて、これらを通して教育を進展させた。戦時下の事態に応じてさまざまな社会教育機関が利用されたが、特に新しい体制をとったのは、社会教育の諸団体である。まず最も力強い活動をする団体として注目されたのは青年団であって、十五年にこれが大日本青少年団として編成され、学校の生徒をも包含した大きな団体となった。これが戦時下の生産そのほかの仕事に対していかに大きな役割を果たしたかということは、その後終戦に至るまでの活動によって明らかにされている。社会教育の団体活動としては、それまで全国的な組織をもっていなかった婦人団体が、急速にまとまった活動を展開するようになったことが注目される。都会および農山漁村の婦人を非常時の意識のもとで組織ある活動をさせたことは、戦時下の教育体制の一つである。十七年大日本婦人会によってそれまでの婦人団体が統一されて、社会教育の重要な一部面を担当するものとなった。

教育行政の機構

 従来学生の思想問題を主として取り扱っていた思想局が、昭和十二年に教学局となって新しい体制をとった。これは皇国の大道による教学の本旨を明らかにするという目標で、学問思想の分野において活動することを任務とした。このため諸学振興の学会の開催、全国の大学・高等専門学校における文化講義の実施、府県の思想問題研究会の設置のほか、『国体の本義』、『臣民の道』、『国史概説』などの刊行を行なって、教学の刷新に努めた。

 戦時下において科学の研究を振興して、これを戦力の基礎となるように動員する計画が、内閣とともに文部省内においても行なわれた。十五年に科学課を新設したが、十七年には科学局を設け、科学行政を全面的に展開することとなった。特に科学の戦時体制を推進させるために、科学研究会議を改組して、これに戦時科学動員本部としての役割を果たさせることとした。

 これらのほかに体育行政としては、十四年から体力検定を行なうことによって、体育の目標を青少年に示し、翌年には「国民体力法」を公布した。

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