五 学校建設

明治初年の学校建築

 日本の学校建築は、大別して二つの系統から発展していると考えられる。

 その一つは従来の寺子屋式とも称すべきもので、寺院や神社、民家や、有力者の住宅・能舞台などを借り受け、または改造して造ったもの、他の一つは西洋式ともいうべきもので、洋学の移入に伴って輸入されてきた校舎の形式である。

 学制発布直後における小学校が、従来の寺子屋・私塾を改造して新装を整えたものであることは、さまざまの点から考察することができる。明治八年文部省第三年報付録に載せられた二万六九二の小学校が、いかなる建物を標準としていたかを調査してみると、そのうち実に八、二五七校すなわち約四割は寺院を借用したもので、それに次いで六、七九四校すなわち総数の約三分の一は民家を使用して小学校としたものであった。このように寺院・民家を借用したものが七割以上を占めていたことは、当時の小学校がその建物から見て江戸時代以来の寺子屋から相隔たることあまり遠くない事実を示しているのであろう。また、生徒数・教員数の上から見ても、当時の小学校の実情をうかがいうるのであって、八年の全国公立小学校一覧表によると、一小学校の生徒数は平均約六〇人であって、教員は一学校一教員のものが一万二、五五一校で総数の五割八分を占めている。一学校一教員から三教員までのものが全体の九割までであったことを見ると、大部分のものが一教員あるいは二教員で、生徒数四○、五〇人の小学校であったということは、これらが寺子屋とほとんど異ならない構成であったことを示すものである。このような全国の事情を概観すると、寺子屋とほとんど異ならない構成のものを新制度の小学校と称したのである。その後になってしだいに小学校校舎の新築が進められ、就学する生徒の数も増加し、各地に設けられた小学校教員伝習所が整備されるにつれて、教員の資質も改良され、近代化された初等教育施設へと進展していったのである。十年以後になると寺子屋時代の教育がしだいに改められ、いわゆる小学校教育への移行が著しく進められたことを認めうるのである。当時は製材機械や、製釘(てい)機械がないため、木材はのこぎり、かんななどでそろえた模様で、くぎはかじ屋のつくった鉄くぎで、丸くぎではなかった。しかし、学校建築は当時の大事業の一つで、一〇〇年に近いこれらの学校建物の現存するものを見ると、工法はまことに頑(がん)丈で、五寸角または六寸角の栗(くり)材または檜(ひのき)材を用い、なかなかりっぱなものがある。

設備規則による建築の類型化

 寺子屋式と西洋式との学校建築はしだいに折衷され、西洋式の中廊下式はわが国の気候・風土に適せず、だんだん片廊下式となり、寺子屋式の暗いへいや、明るい窓をもった校舎に改良されてきたが、教室の形としては、生徒数によって三間×四間、三間半×四間、四間×四間半あるいは四間×五間等の種々の形のものがあった。

 この間小学校設備準則(明治二十四年四月八日)・尋常中学校設備規則(二十四年十二月十五日)・尋常師範学校設備規則(二十五年七月十一日)を相次いで公布し、学校建築は大いに推進された。その結果しだいに類型化してきた学校建築は、教育制度の整備に伴って、建築衛生的な面からの考慮を払うようになった。

 ことに片側教室の廊下が南面すべきか、北面すべきかについて活発な議論がなされた。校舎の半分は南廊下、半分は北廊下として実験的に建てられたものもある。この議論はだいたい本州北方地域から漸次北側廊下、南側教室論にかたまってきたが、四国・九州では議論が沸騰し、三島通良の「校舎衛生上ノ利害調査報告」が官報(三十四年四月八日第五三二五号)に公示されたのは注目に値する。この報告は南面教室を推賞したもので、ますます学校建築の類型化を促進し、教室の形もほとんど四間×五間の普通の形のものとなった。

学校建築の新段階

 明治初期に建築された学校がようやく老朽化してきたことに加えて、大正末期から昭和の初期にかけては、相次いで次の災害が起こって、学校建築に大きな被害を及ぼした。

表災害年表

表災害年表

 そのため学校建築の構造に対する関心は急激に高まり、新築する場合の建物の構造のみならず、既存建物の補強・改造に大いに注意が払われることとなった。右の災害のうち、特に大正十二年の関東大震災と昭和九年の室戸台風は、その規模が非常に大きく、被害も莫(ばく)大に上ったため、その復旧には相当な費用と時日を要した。大正十二年の関東大震災には東京帝国大学などのれんが造りの建物は倒壊し、木造の学校は大火のために炎上してしまい、耐震耐火建築として、鉄筋コンクリート造りが目だって優秀なことが立証され、東京市などの市街地の中心地区に建つ学校が、次々と鉄筋コンクリート造りで復旧された。これは当時の東京市長後藤新平の遠大な理想と、東京市復興局長佐野利器をはじめ、当局者の異常な努力によったこととはいえ、その活眼は敬服に値する。三階建ての鉄筋コンクリート造り校舎は、屋上を運動場として使用することにより、市街地の人口増加に対して、校地の拡張を行なわずに収容力の増加を図ることができた。この鉄筋コンクリート造り校舎が、のちに太平洋戦争の空襲時において、避難・救護等に著しい役割を果たしたことはいうまでもない。

 昭和九年九月室戸岬(みさき)に上陸し、四国・阪神地区を襲った台風は、幾多の教師と児童の生命をも犠牲としたため、危険校舎をもつ教育関係者はりつ然として、学校建築の防災に対する関心が急激に高まった。これに対し、九年十二月学校営繕ならびに保全に関する訓令を発した。これは木造校舎の新築の場合の注意と、既設のものに対する注意とを述べたもので、階段の箇所数や蹴(け)上げ踏面(ふみづら)の寸法などの避難に対する設計上の規定と、筋違(すじかい)・方杖(ほうづえ)・ひうち・控柱など斜材の使用等の構造上の詳細を規定したもので、これからのちの学校建築の構造に一大変革を来たしたのである。なお、この訓令には工法を示す図面をのせており、訓令としては図示のある珍しいもので、指導徹底に対しては大いに効果があった。

 同年の年末、地方学校営繕職員制が制定されて、これらの技術職員が、学校営繕ならびに保全に関する訓令の趣旨を体して、その普及と徹底に努め、大いに学校建築の防災指導をすることとなった。また、市街地建築物法を母法として、十一年九月に特殊建築物規則が公布され、その一部に前記訓令の要旨が組み入れられて、ますます技術指導が徹底して行なわれた。一方建築衛生上、近視眼予防の視力保健の問題がとりあげられ、適当な明るさが学習活動にも大いに影響することが明らかとなり、夜間学校等において、机上面照度などを規定する次官通牒(ちょう)を発した。視力保健の研究は単に明るさの問題ばかりでなく、学習時の正しい姿勢を保持させるため、いわゆる座高三角形の理論から児童・生徒の体格に応じて、適当な形状寸法をもつ机・いすの規格が提案された。かくて、学校営繕技師の制度もようやく軌道にのり、その連絡会議である全国学校営繕技師協議会が中心となって、学校営繕行政を確立することとなった。

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