三 精神薄弱児その他の教育

精神薄弱児の教育

 精神薄弱児を施設に収容し、生活に必要な基礎的習慣、知識・技能を指導する保護事業は、明治三十九年十一月東京府北豊島郡滝野川村に、石井亮一によって設立された滝野川学園を嚆矢(こうし)とし、その後四十二年七月京都に白川学園、大正五年二月大阪府に桃花塾(じゅく)というように、大正、昭和にかけておもなものでも一〇余校の設立をみた。

 学校教育の中での精薄児教育は、特別な学級を編制して生徒の能カ、特性、必要に応じた教育を施そうとする努カから発達した。すでに明治二十三年四月、長野県松本尋常小学校が能カ別学級編制を行なって、落第生男女二組を設けたが、二十七年三月には廃止された。また二十九年四月には、同じく長野県長野尋常小学校が晩熟生学級を設け、尋常科四年の教科を五年で卒業させる方法を試みた。これらは小学校教育について国民教育としての期待が高められ、その振興策によって就学率の向上をみたが、教育の目的や内容の明確化から、生徒の個人差が大きくなり、学業不振児が多くなる情勢に応じたものであった。群馬県の館林小学校でも、三十三年から劣等児の指導に特別な配慮を行なっている。日露戦争前後から、教育病理学が注目されたり、欧米諸国との交流から、マンハイムシステムや精薄児教育法の研究がわが国にも知られるようになった。こうした背景から三十八年大阪府立天王寺師範附属小学校に、翌三十九年館林小学校に特別学級が実験的に設けられた。また、東京下谷の万年小学校が、同年低能児学級を設けたように、東京や神戸等の大都市の貧困児の多い学校で、特別学級を設けるものも現われた。四十年三月の小学校令の改正で、尋常小学校の修業年限が六年となり、六年制義務教育が実現し、これに伴う小学校教員養成の充実から、師範学校規定を四月、省令第十二号で制定した。同時に文部省訓令第六号で「師範学校規程ノ要旨及施行上ノ注意」を出し、その中で盲人、唖人、心身発育不全の児童のため特別学級を設けて、その教育方法を研究することを奨励した。その結果、岩手師範、姫路師範、福岡女子師範、東京高等師範の附属小学校に特別学級が設けられ、また公立の小学校にもこうした気運が興った。しかし、これらの特別学級は担任教師が得られなかったこと、財政的措置がなかったこと等から、十年を経ないで、東京高師附属小学校を除いて廃止されたが、この期は公立学校における精薄児教育の実質的な播(は)種期とみられている。しかしこれら初期の特別学級の対象には劣等児や学業不振児が多かったようである。第一次世界大戦による民主主義の導入に伴って、個性尊重の教育が盛んになり、それにつれて再び劣等児や精薄児の教育が注目された。

 教育の理論や方法も、従前の精神医学的なものから、知能検査や学力検査等による心理学的な能力分析によるものが多くなった。一方、大正六年内務省地方局に救護課が設置され、児童保護を扱うことになったように、このころから政府や大都市によって児童保護施策が取り上げられることとなり、児童相談所、児童保護委員等が設けられるようになってきた。これらの関係機関や関係者の間において精神薄弱児の保護や鑑別の問題が取り上げられた。たとえば、大正十年の第六回中央社会事業大会では低能児・白痴の保護問題を論じ、十五年の第一回全国児童保護事業会議では、低能児保護と特殊教育令の制定を要望している。

 このような気運から、東京、大阪、京都を始め、神戸や名古屋の大都市で、小学校に特別学級を設置することが進められるようになった。これらの特別学級には長続きしなかったものもあったが、東京や大阪、京都の特別学級は、第二次世界大戦まで継続した。文部省は十三年設置された社会教育課を中心に、精薄、肢体不自由、病・虚弱児等の教育振興に意を用いた。昭和にはいって、三年、学校衛生課に代わって設置された体育課を中心に、養護施設関係の講習会、協議会、研究会を、年を追って多く開催し、これらの児童の教育の向上に努力した。その先駆的なものは、大正九年普通学務局主催の就学児童保護施設講習会であり、翌十年に文部省は低能児教育調査委員会を設け、十一年には低能児教育講習会を開催した。特別学級についても、十二、十三年、衛生課が調査を行なった。

 このようにして大正後期から昭和にかけて特別学級による精薄児教育は、かなりの発展を見たのである。昭和六年文部省の体育課の調査では、全国の特別学級設置校七一、学級数一〇〇、児童数三、〇六三人であった。(ただし劣等児学級も含まれているようである。)また、十年の調査では、補助学級設置校四九、学級数五三、児童数九一二人、職員数五三人となっている。その後十四年二月大阪市が全市の児童について行なった学業調査がきっかけとなって、わが国最初の、しかも戦前唯一の精薄児を収容した学校として、大阪市立思斎学校が、大阪市立児童教育相談所の一部を仮校舎として十五年九月に開校している。これは十八年三月旭区豊里町の新校舎に移転した。なお、前記大都市における特別学級は、戦時中、学童疎開を機に全部閉鎖されてしまった。

肢体不自由児の教育

 肢体不自由児が孤児院や育児院に保護された例は早くから見られるが、いわゆる療護施設として最初のものは、柏倉松蔵によって大正十年五月東京に開設された柏学園である。これには、明治三十年代の終わりごろから、わが国でも整形外科学が発足して、肢体不自由者の療育事業の発達を導いてきたことが関係している。特に、この事業の組織的な発達を実質的に指導したのは、東京大学教授の高木憲次で、彼はすでに大正七年ごろ、肢体不自由児が治療を受けながら教育を受ける「夢の楽園教療所」の設置を唱導した。さらに十二年ドイツ留学後、ドイツのクリュぺルハイムのごとき施設の設置を文部省や内務省、東京市等に運動をしたが実現に至らなかった。彼の構想が世に認められてくるのは昭和九年ごろからで、それが一応実を結んだのは、十七年五月東京板橋の根上町に開設した整肢療護園である。学校教育としての肢体不自由児教育では、すでに大正末期から昭和にかけて増設されていった虚弱児の学級に、今日でいえば肢体不自由児と思われるものが編入された例がかなりあったようである。つまり、当時は虚弱児の概念・分類が明確でなく、筋骨薄弱、麻痺(まひ)胸等が加えられたのである。しかし、肢体不自由児のための学校としては、七年四月、小学校に類する各種学校として認可された、東京麻布の東京市立光明学校が最初である。また関東大震災後の東京復興に関連して、市教育関係者が、従来手薄であった特殊教育、特に精薄、肢体不自由、病・虚弱等障害児の特別な教育施設の設置に関心をもった背景とか、柏学園の療育事業もその刺激となった。柏学園は東京市教育局長の藤井利誉、東大医学部の整形外科学講座の創始者で柏学園設立運営の指導者、当時の市議田代義徳等の努力によったものである。

 光明学校に続く肢体不自由児の学校は、戦前には設置されなかったが、この学校の設置は他の府県にも関心を引き起こし、いくつかの府県で小学校の特別学級の形で、肢体不自由児の教育が進められるに至った。たとえば茨城県ではこの種のものが二学級設けられ、大阪、熊本、三重の府県では、虚弱児や精薄児の学級と併設するものがあった。これらを合わせると戦前には一四学級の肢体不自由児学級で、一〇〇人前後の児童を収容していたとみられている。なお、文部省関係の肢体不自由児教育講習会としては、前記大正九年十月の就学児童保護施設講習会でわずかにこの教育にふれたが、昭和十五年九月の全国視学講習会の中に、肢体不自由児教育を含めたのが最初であるといわれる。

身体虚弱・病弱児教育

 わが国の身体虚弱・病弱児養護教育は、日清・日露戦争を経て、国の発展の基礎として国民体位の向上が官民の間で要請される情勢に応じて、児童の保健の立場で取り上げられるようになった。とりわけ結核の問題は、大正の初めから国民保健の最重要課題となり、その対策が急がれるようになったのを反映して、虚弱・病弱児の養護教育施設が結核の予防処置を中心に興されてきた。学校衛生行政も明治二十年代の終わりごろから漸次整備の過程をたどり、身体検査、学校医の職務、資格、学校伝染病予防、消毒法等に関する規程を年を追って制定、改正、整備した。特に、大正九年二月、省令第七号、「学校医ノ資格及職務二関スル規程」では、第三条に虚弱者、精神薄弱者の処置を定めた。また、翌年復活した文部省の学校衛生課の分掌事務に、身体虚弱、精神薄弱児童・生徒の監督・養護に関することを加えた。

 一方、前記のような第一次世界大戦後の心身障害児の保護、教育に対する社会的関心から、林間学校とか海浜学校等の名前で呼ばれる養護学校が大正中期から、また開放学級とか戸外学級等の名前で呼ばれる養護学級が大正末期から、設けられ始めてきた。このほかの施設形態として休暇集落がある。その最も早い例は、明治三十八年の夏期、東京神田の精華小学校が妙義山ろくに施設したもの、時事新聞社が鮫ケ橋小学校の児童を夏期転地させたものがあげられる。特に、日本赤十字社が、大正三年以来結核予防の目的で各地支所に設営させた夏期保養所は、年を追って増設され、多数の児童を収容している。常設養護施設として最初のものは、明治四十三年四月に開設した東京市養育院安房分院である。養護学校組織として最初のものは、大正六年八月、社団法人白十字会によって神奈川県茅ケ崎に設置された林間学校であった。その後昭和にかけて、第二次世界大戦までこの種施設がおもなもので二四、五を数えた。養護学級として早く知られたものは、大正十五年春開設の東京牛込の鶴巻小学校、昭和二年開設の同じく麹町小学校のものであり、このように大正末から東京、大阪、神戸、岡山、福岡等の大都市の小学校に、この種学級が逐年増設されることとなった。昭和二年全国で一八校二七学級、七年八七学級、九年一四六学級、収容児童八、〇二八人に達した。

 文部省においては、昭和四年十月訓令第二十一号で学校看護婦に関する件を定め、幼稚園、小学校等に学校看護婦を置くことを奨励し、六年から養護施設講習会を年を追って開催する等、満州事変後の時局の進展に伴って養護教育を強化推進した。

 なお、大正十五年東京深川の八名川小学校に設けられた吃(きつ)音学級、昭和八年十二月東京麻布の南山小学校に設けられた視力保護学級、翌九年九月同じく東京小石川の礫川小学校に設けられた難聴学級は、それぞれ小学校における言語障害児、弱視児、難聴児のための特別学級の先駆となったものである。

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