二 盲・聾唖学校令

盲学校・聾唖学校令公布の運動

 前記のごとく明治三十年代にはいってからの急速な学校増設に伴い、三十九年十月全国聾唖教育大会が開催された機に、盲・聾教育界も全国的な大会開催の気運に向かい、四十年五月教員大会が開催され、以後年を追ってこの種大会が重ねられた。この会は四十四年七月の第三回大会から全国盲唖教育大会と称した。これらの大会では、教育方法上の諸問題を討議研究するとともに政府当局に建議を重ねて、盲・聾教育への施策を要望した。すでに全国聾唖大会の直後、東京、京都、大阪の三盲唖学校長が、小学校令に準拠する不利を説いて、盲唖教育令の制定を文部大臣に要望したのである。その起草案には、就学義務制、府県の学校設置義務、国庫補助、盲聾教育の分離等、当時の盲唖教育界がかかえていた重要懸案をほとんどもうらした。

 このように学校数は急速に増加しても、ほとんどが設立関係者や篤志家の寄付によった基礎の貧弱な小規模私立学校であった。したがって、経営者は当初から経費の切り盛りに腐心しなければならなかった。物価の値上がり、生徒数の増加によって年々その窮乏を加えた。しかも、いつまでも盲唖学校が小学校に類するごとき位置づけで処理されていることは、盲唖学校の社会的地位を低め、公的な補助や諸施策を引き出すのに不利であった。

 そのため就学率の向上、学科課程の整備、教育内容や教材、環境設備の整備、中等教育への発展、教員の地位・待遇の向上等が阻害された。そこで、こうした諸困難を打開するため、独立の学校令によって、盲・聾教育の義務制化、公教育化、国庫補助の獲得を目ざして運動を続けた。この運動は大正九年十一月の第七回全国盲唖教育大会で、教育令発布期成会を結成して以来ますます激しくなり、第一次世界大戦後の民主的思潮の背景もあって、文部省は十一年六月から盲唖教育の国庫補助と学校令の制定の準備にかかった。このようにして、十五、六年間にわたる盲・聾教育関係者の請願運動と、文部省関係者の努力によって、十二年八月勅令第三百七十五号をもって、「盲学校及聾唖学校令」の制定をみた。またその細則を定めた「公立私立盲学校及聾唖学校規程」は、同月省令第三十四号をもって制定し、いずれも翌年四月より実施した。

盲学校・聾唖学校令、規程

 学校令においては盲学校と聾唖学校を分け、盲人、聾唖者に普通教育を施し、その生活に須要な特殊な知識・技能を授けることを目的とし、特に国民道徳の涵養(かん)に力むべきものとし、学校の目的を明らかにした。このほか、北海道および府県に盲学校および聾唖学校の設置義務を課し、公立学校の経費は道府県の負担とし、盲学校、聾唖学校には初等部、中等部を置くこと、予科、研究科、別科も置きうること、公立の盲学校、聾唖学校の初等部およびその予科では授業料、入学料を徴収し得ないこと等を規定した。省令の学校規程では、修業年限、入学資格、中等部の学科、初等部・中等部の学科目、毎週教授時数、教員資格等を規定した。このようにわが国の盲・聾教育は、この学校令、学校規程を得て、学校教育としての体制を確立し、従前の慈善事業への大きな依存を脱し、公教育の方向に急速に発展するようになった。すなわち、道府県の学校設置義務と相まって、公立学校の設置とともに、私立学校が逐年公立に移管され、大正十三年に盲学校国立一、公立二一、私立五〇、計七二校であったものが、昭和十四年に国立一、公立五一、私立二六、計七八校、聾唖学校は、国立一、公立一七、私立二〇、計三八校から国立一、公立四七、私立一五、計六三校になった。

 私立盲唖学校に対する助成金の交付は、従前内務省より行なわれたが、大正十一年文部省の所管となり、十二年度の予算に七万四、○○○円が盲唖教育奨励費として組み込まれ、このほか教員養成費、教科書編纂出版費も加えることとなった。この教育奨励費はその後増額し、昭和八年度より一〇万円、これに臨時補助費一〇万円を加え、年間二〇万円で戦前まで至ったが、第二次世界大戦期にはいってこれを廃止した。なお、貧困盲・聾児の就学奨励国庫補助も、昭和三年十月、省令第十六号、「学齢児童就学奨励規程」で緒につき、十五年度から予算を独立計上することとなった。このほかの施策としては、学校給食を盲・聾唖学校にも及ぼしたこと、盲・聾唖学校用教科書を編纂・刊行したこと等があげられる。

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