三 実業補習学校

実業補習教育の量的発展

 実業補習教育は明治後期に著しい量的発展をとげ、明治四十三年には学校数六、一一一、生徒数二六万二、九七八人に達していた。そして、大正元年には学校数七、三八六校、生徒数三四万六、七六七人となったが、その増加の傾向は大正半ばまで続き、次ページの表に示すように、九年には学校数一万四、二三二、生徒数九九万六、〇九〇人となった。しかしながら各種の実業補習学校のうち農業補習学校は著しい発達をとげてきているが、工業補習学校は依然としてじゅうぶんな成長を示していない。また男女の生徒数の比率は、大正九年の状況によると男子四に対して女子一の割合であるが、この比率の差はその後しだいに小さくなり、昭和九年には二対一に近くなっている。これらのことから実業補習学校は農村の男子青少年に対して最もよくその教育の機会を提供してきたとみられる。

 このように明治末年以来大正年代にはいってしだいに成長してきた実業補習学校も、大正九年ごろをもってようやく限界に達し、その後はあまり発展を示していない。

 臨時教育会議においては補習教育の改善に関する答申がなされ、その内容改善や普及・発達について述べたが、補習教育の義務制に関しては種々な理由から時期尚早と決定していた。ところが、その後数年にして大正十四年の第五十回議会に実業補習教育振興の建議が提出された。その趣旨説明のなかに、尋常および高等小学校を卒業した者のなかで実業補習学校へ入学すべき者が年々九五万人以上いるのに対し、実際に入学する者は四二万人を出ないという実状が述べられている。そして翌十五年第五十一回議会に同じ建議が再び提出され、実業補習教育義務制の実施が要望された。

表26 実習補習学校の学校数・教員数・生徒数の推移(大正4年~昭和10年)

表26 実習補習学校の学校数・教員数・生徒数の推移(大正4年~昭和10年)

実業補習教育の内容整備

 第一次世界大戦後の社会の情勢は、実業補習教育制度の改革を必要とし、大正九年実業学校令および実業補習学校規程を改正するようになった。実業学校令の改正によって実業補習学校の設置主体の範囲を広げ、また職員の名称・待遇を中等学校に準ずることとした。実業補習学校規程の改正においては、その第一条に「実業補習学校ハ小学校ノ教科ヲ卒へ職業二従事スル者二対シテ職業二関スル知識技能ヲ授クルト共二国民生活二須要ナル教育ヲナス」とその目的を明示し、従来の「補習」から「職業教育」と「公民教育」との二つに重点を置き換えている。それに伴って従来の簡略な規程を改め、その内容について施設上準拠すべき所を示した。すなわち、前期(二年)、後期(二~三年)の課程に分け、そのおのおのの重点とすべき学科内容を明らかにし、教授時数の標準を定めた。また、女子に関する規程、高等の実業補習学校の設置、卒業後の学習等に関する規程を設けた。

 これらの内容の充実とともに専任教員の確保とその養成を図るために、九年「実業補習学校教員養成所令」を公布し、その設置者・入学資格・学科目・教員の資格・待遇を定めた。また、同年専任教員の増置を図るため実業教育費国庫補助法を改正し、年額三〇万円を教員給与補助のため実業補習教育へ交付することになった。さらに十年には「実業補習教育主事規程」を制定し、実業学務局に五人の専任実業補習教育主事を置き、この方面の教育の研究と全国における実業補習教育の指導の任に当たらせた。

 実業補習学校教育内容の充実に関しては、大正十一年に「実業補習学校標準学科課程」を制定し、これを各府県に示した。これは各種の実業補習学校における学科課程や各学科目の教程およびその教授時数等についての標準を示したものであった。その後多くの府県はこれに基づいて管下の実業補習学校の学科課程を編成するようになった。また、十一年に設けられた公民教育調査委員会の審議に基づいて、十三年には「実業補習学校公民科教授要綱並其ノ教授要旨」を公布し、公民教育を担当する教科の内容を定めた。これによって、職業教育と公民教育とを二大眼目とする実業補習教育の性格がいよいよ明確になった。このころをもって実業補習教育には一時期が画されたのであって、内容についてもようやく整備され、この教育に対して国家の要望する所も明瞭となったのである。

 十五年に十六歳から二十歳までの男子青年に対して軍事訓練を行なうために「青年訓練所令」が制定されたが、この青年訓練所は実業補習学校とほぼ同じ青少年層を対象とする所から、両者の関係について問題が生じた。昭和四年文部省に社会教育局が新設され、実業補習教育は勤労青少年を対象とするものであるという理由で従来の実業学務局から離し、青年訓練とともに社会教育局青年教育課の主管するところとなった。

 ところで、実業補習学校と青年訓練所とはしだいに教員や設備の点で重複することが多くなり、両者の並存はいたずらに制度を複雑にして、地方財政の負担を重くし、社会の実情に即さない、という世論が高まってきた。そこで昭和九年新しい青年学校制度案を立案し、文政審議会の議を経て十年、青年学校令を公布することができた。このようにして勤労青少年の教育機関としての実業補習学校の性格はこれ以後新しい青年学校に受け継がれることとなった。

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