三 高等学校および専門学校の改革と拡充

高等学校令の改定

 高等学校改善についての答申に基づいて大正七年十二月六日「高等学校令」を公布し、旧高等学校令は廃止した。この新しい高等学校令は、臨時教育会議の改善に関する答申をほとんどその要綱のままに実現したものである。高等学校の性格については「男子ノ高等普通教育ヲ完成スルヲ以テ目的トシ特二国民道徳ノ充実二カムへキモノトス」としたのである。ここにおいて大学予科としての性格は制度として明確に改められ、高等普通教育機関の一つとなった。そして大学と同様、官立のほか公立・私立の高等学校を認め、公立高等学校を設立しうるのは府県および北海道、私立は財団法人でなければならないとし、設備資金のほか少なくとも五〇万円の基本財産が必要であるとした。

 学校の構成については高等学校の修業年限を七か年とし、これを高等科三年、尋常科四年に分ける制度を本体として、高等科のみを設置することができるとし、高等科のみを置く三年の高等学校はこれを特別な形としたのである。高等科はこれを分けて文科・理科とし、高等科への入学資格を中学校第四学年修了としたのも答申のとおりである。卒業者のためには一か年の専攻科を置き、ここを修了したものには得業士の称号が与えられる制度となった。なお高等学校の教育を徹底させるため、生徒の数について特に考慮を払い、高等科四八〇人以内、尋常科三二〇人以内、高等科のみの高等学校は専攻科を除き六〇〇人以内と定め、一学級の生徒数は四○人以内としたのである。八年三月二十九日に「高等学校規程」が定められて、高等学校令に基づく施行上の詳細な規定をなし、学科課程その他運営についての諸種の方策を示した。

高等学校の増設と七年制高校

 臨時教育会議の答申においては、高等学校を増設するという趣旨は述べられていなかったが、高等学校令制定後の高等教育機関拡張計画によって、新制度の高等学校が多数設置された。大正七年までには第一から第八までの官立高等学校だけが存在していたが、高等学校令後、八年新潟・松本・山口・松山の各官立高校の設置を皮切りに、全国各地に増設し、十二年までに官立の新設校は計七校に達した。公立高等学校も富山(のち官立に移管)・浪速(大阪府)・府立(東京府)の三校、私立高校は武蔵・甲南・成蹊・成城の四校を数えた。このような高等学校の新設は、昭和四年設立の府立高等学校を除いてすべて大正八年から十五年までの間に行なわれたのである。

 新制度に基づいて、旧来の高等学校に当たる課程は高等学校高等科と呼ぶこととした。この下に四年制の尋常科を置くものがいわゆる七年制高等学校であり、この形をとるものは官立では東京高等学校一校だけであったが、公立高校・私立高校はすべて尋常科を付設した形をとった。

 旧来の高等学校以外の官公立新設のいわゆる「地方高校」の激増と、七年制高校の出現とは、旧制の高等学校の社会的性格と教育の質に大きな変化をもたらした。帝国大学の予備教育機関というエリート教育の場としての性格から、開かれた高等普通教育機関へ、バーバリズム一色にいろどられた校風から都会的な校風へといった変化が現われてきた。生徒数は、大正七年の六、七九二人から昭和十一年には一万七、〇〇〇人に達し、三倍近い増加をみせた。

専門学校の拡充

 臨時教育会議の答申において、専門学校に関してだけは現行制度変更の必要なしとされた。実際の法規定の上でも、専門学校についてだけはなんらの根本的改正は加えられなかった。ただし、昭和三年一月になってから、専門学校令第一条に「専門学校二於テハ人格ノ陶冶及国体観念ノ養成二留意スヘキモノトス」という文言が加えられた。同様の目的規定は大正期の大学令・高等学校令等にも加えていたのであるが、専門学校令については制度改正の必要がないとして旧法を踏襲していたものである。昭和初期の学生思想問題などに応ずるため、この時改めて加えた字句である。また、文部大臣は公立・私立専門学校に報告を徴し、検閲を行なうほか監督上必要な命令をすることができるという箇条をこの時に加えた。

 大正期から昭和期にかけての専門学校の変化の最も大きな点は、その数的拡充であった。それは、いうまでもなく高等教育機関拡張計画によるものである。特に実業専門学校としての高等工業学校、高等農業学校、高等商業学校などが拡大の主要対象であった。(「第六節産業教育」参照)

 しかし、普通の専門学校の増加はさらに大きかった。大正八年から昭和十五年までの間に官立専門学校としては大阪外国語専門学校、富山と熊本の薬学専門学校、気象技術官養成所、東京高等歯科医学校の五校を設置した。公立専門学校は、この期間の新設は八校であるが、うち六校が福岡・大阪・宮城・京都・広島・長野の府県立女子専門学校であって、専門学校が女子高等教育の機関として果たした役割の大きさを認めることができる。私立専門学校も、この間五七校設置された。その内訳をみると最も多いのが文学・宗教系の三一校、次いで薬学系の一一校、医・歯学系の九校、経済系・芸術系の各二校、体育系・家政系の各一校である。女子専門学校の占める比重もきわめて高く、五七校中二八校が女子専門学校であった。

 このように、実業専門学校以外の専門学校はこの期に大幅に増加した。大正九年に校数七四校、生徒数二万二、○○○人であったものが昭和十五年には校数一二一校(一・六倍)、生徒数約八万八、〇〇〇人(四倍)に増加した。うち女子生徒の数は一、六七七人から一万九、九〇〇人へと実に一二倍近く増加した。それは私学の生徒数の著しい伸び(一万七、五〇〇人から八万二、六〇〇人へ)とともに、注目されるものであった。

 なお、当時、専門学校と同様の法的取り扱いをうけていたものに「専門部」があった。これは旧制大学に付設されていたもので、官立では大正元年から東北帝国大学に設けられた医学専門部・工学専門部、あるいは北海道帝国大学の附属水産専門部・土木専門部(いずれも大正七年)、さらに東京商科大学の商業専門部(大正十年)などが著名であった。しかし、専門部の主流は、大学令によって昇格した私立大学の専門部であり、第二次世界大戦後には二一校に及んでいた。また、昭和十四年には軍医養成の必要から各帝国大学医学部および官立医科大学に臨時付属医学専門部を設けた。

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