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二 大学令の制定と大学の拡張

大学令の制定

 前述のごとき臨時教育会議の答申を基本としてただちに大学制度の改善に着手することとなり、大正七年十二月六日に「大学令」を制定した。したがって従来存在していた帝国大学令は、大学令のもとにおいて帝国大学のみに適用される規程となった。この大学令においては第一条に大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定し、その構成に関しては大学には数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の八学部をあげた。大学は数個の学部をもって編制されることを原則としていたから、これら八学部のうち幾つかをもって構成されるのを制度の本体とした。ただし、特別の必要のある場合には一個の学部を置くことができるとして、単科大学の成立をも認めたのである。また、特別の必要ある場合には、その実質および規模からして一学部を構成しうるとされるときには、学部を分合することもできることとした。学部には研究科を設置することとし、数個の学部を置く大学では研究科間の連絡・協調のために、これを総合して大学院を設置する制度としたが、従来とは違って研究科および大学院は学部と密接に結びついたものとなったのである。これらが大学の構成の基本をなすのであって、分科大学という名称は大学が各独立した分科大学の総合体にすぎないような感を与えるおそれがあり、幾多専門の部門に分かれていてもこれを総合する大学は渾然として一体をなすべきものであるという考えから、この大学令においては分科大学の名称を学部と改変することとなった。これもだいたいは臨時教育会議の答申を基礎として制定されたものである。

 このほか、従来官制上帝国大学の各分科大学職員として位置づけられていた教官の身分を、大学そのものに所属させることとしたが、これも大学の総合制へむけての改革点といえるであろう。また、必要ある場合は予科を設けることができるとし、その年限は二年または三年とも定めた。

 大学入学の資格に関しては、1)当該大学予科を修了したもの、2)高等学校高等科を終わったもの、3)文部大臣の定めるところにより高等学校高等科卒業と同等以上の学力があると認められたものと規定し、大学の学部に三か年以上在学し、一定の試験に合格した者は学士と称することができると定めた。

 大学令はこのように、大学一般についての規定をしたものであるから、帝国大学に関しては別に大正八年二月七日「帝国大学令」を改定・公布し、同年三月二十九日に「大学規程」を定めたのである。このようにして大学制度は一応完成し、今次終戦後学制全般に対して大改革が行なわれるまでこの形で存続したのである。この七年の新大学令は大学制度を著しく変貌させたものであり、明治初年以来のわが国大学制度において特筆すべきことである。

 以上述べたように新大学令においては官立のほか公立および私立の大学をも認めることとしたのであるが、公立の大学に関しては元来わが国における学校経営と、国家および地方自治体との関係において、地方自治体をして専門教育を経営させるのは例外であり、今回公立大学を認めるのも例外中の例外であるから、大学令においては特別の必要ある場合には上級自治体たる北海道および府県に限りこれを許すこととした。私立の大学に関しては適当な経営者に対しては広くこれを許すこととしたのであるが、大学の設立・維持については最もその基礎が確実であることが必要であったから、大学令においでは、私立大学は財団法人としで経営される場合、もしくは学校経営のみを目的とする財団法人がその事業の一つとして大学を設立する場合に限って、これを許可することとした。そしてその財団法人は大学に必要な設備を現に備えることができるか、またはその設備をなすに足りる資金を有することが必要で、少なくとも大学を維持するに足りる収入を生ずる基本財産を有することを要件とし、その基本財産は現金または国債証券その他文部大臣の定める有価証券としてこれを供託すべきものとした。公立および私立の大学設置には認可を要し、その認可は文部大臣において勅裁を請う規程とした。

官立単科大学の成立

 大学令は、一個の学部をもつ大学の設置を認めたので、それまで帝国大学という形態においてだけ許されていた官立大学の様相は大きく変わることとなった。

 大学令を定めてから大正九年、まず、東京商科大学の設置が認可された。同校の母胎である東京高等商業学校では、すでに明治三十年代から、大学における商業教育の実現を求めて、大学昇格運動を行なっていたのである。大正期にはいってからは、一時東京帝国大学への合併が議されたこともあったが、それは見送られ、大学令の制定により初の官立単科大学として昇格を決定した。商業関係では、昭和三年に大阪高等商業学校を大阪商科大学として、四年神戸高等商業学校を神戸商業大学として、それぞれ設置することとした。工業関係では、四年、東京高等工業学校を東京工業大学に、大阪高等工業学校を大阪工業大学に、それぞれ設置することとした。

 昇格の比較的早かったのは医学系専門学校である。大正十一年、官立医学専門学校のうち、新潟・岡山がまず医科大学に昇格、翌十二年には千葉・金沢・長崎の各医学専門学校も昇格した。昭和にはいると、四年熊本医科大学さらに愛知医科大学が、それぞれ公立から移管された。

 四年の東京・広島の両文理科大学の設置は、高等師範学校の昇格というわけではなかったが、中等学校教員養成の発展と充実にとって重要な意義をもつものであった。なおこれより先き大正十一年、満洲医科大学、旅順工科大学が設置された。

 官立として大学令以後設置されたのは単科大学だけではなかった。大学令以前に東京・京都・東北・九州・北海道の各帝国大学が設置されていたが、これらは大学令後それぞれ学部が増設された。昭和六年に大阪帝国大学が、さらに十四年には名古屋帝国大学が新設され、文部省所管の帝国大学は計七校となった。なお、大正十四年に京城帝国大学(法文学部・医学部)、昭和三年には台北帝国大学(文政学部・理農学部)が設置された。前者は朝鮮総督府、後者は台湾総督府の所管であったが、いずれも大学令・帝国大学令の適用を受けた。

 このようにして、大正・昭和にかけて官立大学の昇格・新設が進んだ。大学令前の大正七年には帝国大学だけで五校、学生・生徒数約九、〇〇〇人であったが、昭和十五年には帝国大学七校、医科大学六校、文理科大学二校、商科(商業)大学二校、工業大学一校、ほかに神宮皇学館大学一校で計一九校、学生・生徒数は約三万人を数えるに至ったのである。

公立大学の成立

 大学令の眼目は、地方公共団体および私人に大学設立を認めることにあった。最初に公立大学としての設置が認可されたのは大正八年十一月、大阪医科大学であった。同校は明治二年文部省直轄病院仮病院として開設以来の長い歴史をもつ医学系高等教育機関であり、明治三十六年には大阪府立高等医学校として専門学校令により認可され、明治末から大正にかけて予科年限を次々に延長し、大正四年からは、府立大阪医科大学と称していたものである。これが大学令による初の公立大学として認可された。なお、同校はのち大阪帝国大学の設置の母胎として、同大学医学部となった。翌九年、愛知医科大学も県立大学として認可され、以後、京都府立医科大学(十年)、熊本県立医科大学(十一年)と次々に旧医学専門学校の昇格が決定した。このうち、愛知医科大学はのちに名古屋医科大学を経て名古屋帝国大学医学部となり、熊本医科大学は昭和四年、官立に移管された。公立大学のうち、昭和三年に設けられた大阪商科大学は市立大阪高等商業学校の昇格した大学であったが、設立主体が市であるという点で異色のものであった。明治十四年大阪商業講習所として設けられた時以来の同校の歴史を考慮し、また市当局の財政事情が大学を設立・維持しうるとの判断にたって、市立大学としての設置が認可されたのである。この問題については大正十五年十二月、文政審議会に諮詢第八号として諮詢され、その議決を経たのち、越えて昭和二年暮れ、枢密院本会議で大学令第五条の改正案が決議され、翌三年一月十九日勅令第七号「帝国大学令中改正ノ件」として公布され、これに基づいて三月二十三日、大阪商科大学の正式認可となったものである。大学令の改正は、七年の公布正文で「公立大学ハ特別ノ必要アル揚合二於テ北海道及府県二限リ之ヲ設立スルコトヲ得」(第五条)という規定中の「北海道及府県」を「北海道、府県及市」と改めたものである。文政審議会においては、市に大学設立を許すべきか否かの論議に際して、しばしば臨時教育会議での審議状況や大学令の立法趣旨が顧みられ、結局、北海道と府県に限った右の箇条は、大学を設立、維持するに足る財政基盤についての配慮に出るものであることが確認され、大阪市のような場合は義務教育の施設状況等から判断してなんらさしつかえがないとの見地から、設立認可が議決されて右の勅令改正に至ったものであった。

私立大学の発足

 財政基盤に関する条件は、私立学校の昇格認可の際特に強く要求された。かねてから大学昇格を要望していた私学は、大学令公布後続々と昇格申請を行なったが、その条件として先述のように私学の設立者である財団法人は「大学二必要ナル設備又ハ之二要スル資金」と「少クトモ大学ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基木財産」をもつことが必要であり、その基本財産は「現金又ハ国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券」を国庫に供託することを要求していた。(大学令第七条)この供託金は単科大学で五〇万円、それに一学部を加えるごとに一〇万円を加える定めであった。それに設備の充実に要する金額も膨大なものであった。

 このようなきびしい条件にもかかわらず、各私立学校は、寄付金募集等の努力によって次々に要件を満たし、大正九年二月慶応義塾大学・早稲田大学の昇格を皮切りに、同年四月明治・法政・中央・日本・国学院・同志社の各大学がそれぞれ昇格、以後東京慈恵会医科・龍谷・大谷・専修・立教・立命館・関西・東洋協会(のちの拓殖)・立正・駒沢・東京農業・日本医科・高野山・大正と大正年間だけでも総計二二大学が昇格を認可された。早く昇格したのは主として私立法律学校の系譜をひく諸学校であり、それに宗教系の学校が続いていた。

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