四 中学校・高等女学校の発展

中学校の普及・拡充

 大正六年から昭和十一年の中学校数は三二九校から五五九校に増加し、約一・六九倍となった。生徒数は一四万七、四六七人から三五万二、三二〇人となり、約二・三八倍の増加を示した。大正十五年には学校数五一八校、生徒数三一万六、七五九人であったから、大正と昭和に二区分してその増勢ぶりをみると、大正期後半学校数で一・五七倍、生徒数で二・一四倍の発展を示し、昭和初年学校数で一・〇七倍、生徒数で一・一一倍となっており、大正期後半の増加率が非常に高かったことがわかる。昭和初年は中学校はむしろ増加が停滞する傾向を示した。実業学校はこの時期学校数で一・四四倍と一・五二倍となり、昭和十一年一、三〇四校を数え、生徒数で二・一八倍と一・八六倍を示し四三万四、三四五人を数えた。これらの数はこの時期の中等学校施策を反映したものである。

 昭和にはいって中学校数の増加は停滞傾向を示すが、十一年の学校数、生徒数を中学校令改正の翌年の明治三十三年の学校数、生徒数と比較すると、それぞれ二・八八倍と五倍の増加を示している。このような背景のもとで、中学校第一種・第二種課程を採用したが、昭和十年現在で両課程設置中学校四五七校、第一種課程のみの中学校九校、第二種課程のみの中学校八七校となっている。第一種課程と第二種課程の生徒数はそれぞれ二万九、三二三人と九万一四八人で生徒総数の二四・五三%と七五・四七%となっている。

高等女学校の発展

 大正六年から昭和十一年の高等女学校(実科高等女学校を含む。)数は三九五校から九八五校となり、約二・四九倍の増加であり、生徒数は一〇万九、八五七人から四三万二、五五三人となり三・九三倍の増加を示している。高等女学校の場合、中学校のように昭和初年にみられた停滞傾向は示さなかったが、大正後半期の伸びが顕著であった。

 昭和十一年の高等女学校数および生徒数を明治三十三年の学校数、生徒数と比較すると、学校数で一八・九倍、生徒数で三六・一八倍の増加となっている。

 以上は実科高等女学校を含めた数であるが、実科高等女学校数だけについてみると、大正六年から昭和十一年に一五七校から一七九校、生徒数は二万三、四二七人から二万九、四七五人となっている。実科高等女学校数は昭和四年が最も多く二一三校となったがそれ以後減少のみちをたどった。

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