ここからサイトの主なメニューです

三 学生思想問題と教学刷新

新人会の成立

 第一次世界大戦以後、わが国の学生思想運動は急激にその成長・発展をみるようになったが、その端緒をなし中心となったものは東大新人会であった。東大新人会は大正七年十二月東大教授吉野作造を顧問とし、赤松克麿・宮崎龍介などが中心となって組織したものであって、その創立当初の綱領に「吾(わが)徒は世界の文化的大勢たる人類解放の新気運に協調しこれが促進に努む。吾徒は現代日本の合理的改造運動に従う。」という規定を掲げて発足した。当時新人会以外に社会問題研究の団体として組織されていた木曜会を併合し、活発な発足ぶりを示した。こうして新人会はしだいにその会員数を増し、研究討議がすすむにつれて、社会主義的学生思想団体として成長をとげていったのである。

 新人会は、また早稲田大学をはじめ東京の各大学・専門学校および各地の官立高等学校の学生・生徒の間にも大きな影響を与えていた。早稲田大学には「民人同盟」(八年二月結成)、民人同盟から分派結成した「建設者同盟」(八年十月発足)があり、法政大学には扶信会・慶応大学には反逆社・明治大学にはオーロラ協会などがあって、これらが新人会と緊密な連絡を保っていたのである。これらの学生団体は新人会の提唱によって連合し、八年十一月「青年文化同盟」を結成するに至った。これは形に現われるほどの活動をしないで自然消滅したが、この時の連合という考え方は、あとになって「学生連合会」(日本学生社会科学連合会、略称、学連またはF・S)の結成(十一年十一月七日)へとつながるのである。

 このような学生の社会主義運動の活発化によって、地方の高等学校・専門学校の生徒の間にも思想団体の組織がうながされてきた。十年代になると、そのような組織が次々に実現していった。

 民主主義の擁護を眼目として起こされた新人会を中心とする学生思想運動が、しだいに社会主義運動へと発展していったのには、一九一七年のロシア革命が影響を与えていると思われるが、それよりもいっそう重要な原因となったものは、日本の社会自体が内にはらんでいた政治的・経済的矛盾であるといえよう。

学生思想運動の発展

 かくして学生団体は労働団体、社会主義各派の連合提携の影響により、学生思想運動のより大きな規模で展開されている社会主義運動の中における位置と役割を明確にし、学生団体の連合組織を成立させるようになった。大正十一年十一月七日、新人会・早大文化会・早大建設者同盟・女子医専・一高社会思想研究会・三高社会問題研究会・五高FR会・七高鶴鳴会など、全国二六校に組織されていた学生思想団体の連合、「学生連合会」が成立した。これがいわゆる「学連」(F・SまたはFederation of Students Social Science)(十三年九月「社会科学連合会」、また十四年七月「全日本学生社会科学連合会」と改称)の成立である。また学連の成立に先だち、すでに思想団体をもっていた七つの高等学校は、十一年九月新人会が行なった講演旅行の際に刺激をうけて横の連絡をもつようになり、その後発展して、十二年一月には「高等学校連盟」(High School League 略称H・S・L)を結成した。このようにして学生の社会主義思想団体の連合が成立すると同時に、学生思想運動は急速に発展し、十五年一月十五日、治安維持法違反のかどで運動の中心をなしていた者が大量に検挙されるまで、活発な運動を続けていたのである。

 学連は結成当初はあまり強固な結束もみられず、その活動もそれほど活発なものではなかったが、十三年六月の東京連合会の成立以後その組織をしだいに確立し、逐次地方連合会の結成を進めていった。十三年九月、学連の第一回大会が東京帝大学生控所で開かれ、全国二二校、七〇余人の学生・生徒が参加した。当日、学連の規約が決定され、その中に「本連合会ハ社会科学ノ研究促進ト普及トヲ目的トス」としたが、実際には研究会として進むのか、実際活動に参加するのかが重要な論点となり、その結果は「学生として可能なる範囲において実際運動に参加することを認める」という点に妥協が成立したのである。学連の会員は第一回大会当日一、六〇〇余人と報告され、東京・京都・東北・北海道の各帝国大学、第一-第八および新潟・松山・水戸・松江・静岡・弘前・山形・甲南・山口・福岡の各高等学校、早稲田・明治・中央・慶応・法政・立教・日本・同志社・立命館の各私立大学、早稲田第一および第二高等学院、東京外語・大阪外語・明治学院・青山学院・京都蚕絲・神戸関西学院等の専門学校、旅順工大など、全国的な範囲にわたる各校にその会員が在学していたのである。学連はしだいにその組織を強化・発展させて、十四年七月、京都帝大学生集会所にその第二回大会を開催するまでには、(この大会で名称を「全日本学生社会科学連合会」と改称)学連所属の研究団体は七〇余、会員二、〇〇〇人に達したといわれる。

治安維持法と京大事件

 学連は大正十四年四月二十二日における「治安維持法」の成立に強い反対を示した。九年以来、社会の趨(すう)勢は普通選挙法案の成立を議会に迫り、十三年、十四年の第一次、第二次加藤内閣の時には、その趨勢はもはやくつがえすことのできないものとなってきた。十四年三月、第二次加藤内閣の当時、遂に普通選挙法が成立したが、それは当然、いわゆる当時の下層階級たる労働者や農民たちを地盤とする政党が議席をもつことを予想させるものがあった。これらの無産政党の活動を危険なものと見なした当時の政府は、これらの主義・運動の抑制を図り、治安維持法を制定することとなったのである。

 治安維持法はその成立の翌年一月早々、いわゆる「京大学生事件」として、その最初の発動をみたのである。当時の報告書によれば事件の大要は次のようなものであった。

 「被告三十八名は我が国体及経済組織と相容れざる『マルキシズム』『レーニズム』の社会革命思想を抱懐し・・・・・・わが国の根本組織を変革し無産階級の政治的支配階級たる地位を獲得し、其の独裁政治を施行すると共に凡ゆる生産機関を社会の共有に帰せしめ、以て経済組織の根柢たる私有財産制度を破壊し、共産主義社会を建設せむと企て、其の実行に関して大正十四年六月二十五日より十二月二十五日に至る間に数次にわたる会合を開いていた。その会合では学生社会運動の一般方針、会員の教育方針及教程活動の単位としての班の生活方針、校内運動に関する方針、学生群に対する戦術、無産者教育機関の創設等を協議していた。・・・・・・また同志社高等商業部の某が『狼煙ハアガル兄弟ヨ此戦ニ参加セヨ』と題する軍事教育反対運動のビラを貼っていたことが発覚して取調をうけ、不隠なる謄写版刷書類二十余種をその家宅捜査で押収した。このようなことから学連の一部会員に出版法違反の事実があると推定し家宅捜査を行ない、その際得た材料によりその事実を確認すると共に、学生社会運動の連絡系統関係者及実状等の大体を了知し且治安維持法違反行為あるを認め大正十五年一月十五日全国一斉に検挙が行われた。」としてある。

 京大学生事件およびこれに続く学生思想運動取り締まりの強化は、世間一般に大きな反響を与え、「京大法学部教授一同と、経済学部教授有志(神戸正雄・河上肇・財部静治・河田嗣郎・本庄栄次郎・小島昌太郎)」が連名をもって、1)警察官憲のとった処置は大学教育の自治と目的を防ぐ、2)またその手続きにおいて不法である、旨の意見書を提出し、吉野作造もこれに賛同し、社会主義各団体はいうまでもなく、また、その後の学生思想運動取り締まりの強化には東京・大阪の大新聞もまた反対を唱えるに至った。

 学生団体は、この取り締まりに抵抗を始め、十五年六月には「全日本学生自由擁護同盟」(略称S・L)が学連を母体に結成された。また、同年十一月には松山高校において校長の厳格な学校行政に対する排斥事件・東大社会科学研究会と七生社(右傾学生団体)との衝突事件、昭和二年には東京帝大新人会主催の「赤旗開きの会」、早稲田大学における安部磯雄・大山郁夫両教授留任運動に伴う学生処分事件、明大読書会解散事件、二高学生大会における校長排斥事件、関西学院盟休事件などと、当局との間に厳重なる紛争を生ぜしめたのである。

右翼学生団体の結成

 京大学生事件が学生社会主義思想に与えた打撃はきわめて大きく、ことに昭和三年三月の第二次共産党員大検挙事件以後は、頻(ひん)発した学内抗争事件も、次々と学生思想運動の中心分子に対する激しい処分と、左翼思想団体、自治団体の解散とをもたらし、これに代わって、愛国主義的学生団体および思想運動が盛んになり始めてきた。三年には、九大社会科学研究会・東大新人会・京大社会科学研究会・東北大社会科学研究会等が解散を命じられ、また五高社会科学研究会・戦争反対同盟(東大生を中心とする)、二高社会科学研究会・水高社会科学研究会・高知社会科学研究会等の秘密活動が発覚してすべて禁止され、四年には、東北大の社会科学研究会再組織、山形高・三高・五高の社会科学研究会の再組織が発覚して禁止され、また学連・全日本学生自由擁護連盟・共産青年同盟等が解散を命じられている。

 このように、学生の社会主義的思想運動が禁圧されていくのに代わって、五年ごろからは右翼学生団体の結成が相次いでいる。五年一月には慶応義塾大学に国防研究会、国家主義団体としての日本青年学生革正連盟・明大興国同志会、東京農大桜会の結成がなされている。六年六月には、愛国主義学生団体の連合である「日本学生連合会」が創立され、十月には同種の「愛国学生連盟」の結成、十一月には大阪外語満蒙研究会・東大朱光会・九大満蒙研究会、十二月には大阪愛国学生連盟、京都愛国学生連盟が生まれており、七年ごろからはこれらの国家主義的、愛国主義的学生団体の結成および活動は、いっそう盛んになった。

思想問題対策と教学刷新評議会

 以上述べてきたように、大正末期から昭和初頭にかけて、学生運動が盛んとなり、それに伴う思想問題が続発した。この問題解決のため教学刷新が提唱されることになったのである。文部省はこの問題に関してすでに種々の方策をたててきたのであるが、昭和六年六月二十三日には学生思想問題調査委員会を設けてその対策を審議し、その答申に基づいて七年八月二十三日には国民精神文化研究所を創設し、九年六月には学生部を廃して思想局を設置し、この問題の解決につとめた。特に国民精神文化研究所の創設趣旨は「わが国体・国民精神の原理を闡(せん)明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする有力なる研究機関を設くること。」にあり、それは明らかに当時の思想問題解決に対する重要な機関であったことを示している。さらに文部省は教学刷新問題の根拠を明らかにして解決の基本方針を決定するため、十年十一月十八日「教学刷新評議会官制」を公布して「教育ノ刷新振興ニ関スル重要ナル事項ヲ調査審議ス」とし、会長のほか委員六〇人以内をもってこの会を組織することとなった。その際にこの評議会の設置に関して発表された次の趣意書は、いかなる問題を解決しようとしていたかを明らかにしている。

 現下わが国における学問・教育の実情を見るに、明治以来輸入せられたる西洋の思想文化にして未だ充分咀嚼せられざるものを含み、之がため日本精神の透徹全からざるものあり、近時学問に関する諸種の問題或は教育に関する改善の要望にしてその主たる理由をこの点に置くものの寡からざるは、その所以なしとせざるなり、今之を我が国既往の歴史に徴するに、外来文化は常に我が国体・日本精神の下に醇化せられ以て我が国文運の発展に貢献し来れり今や時勢に鑑み真に国礎を培養し国民を錬成すべき独自の学問・教育の発展を図らんが為めに多年輸入せられたる西洋思想・文化の弊とする所を艾除すると共にその長とする所を摂取し以て日本文化の発展に努むるは正に喫緊の要務と謂はざるべからず、@に有力なる学者、教育家、有識者の集りたる教学刷新評議会に於て国体観念、日本精神を根本として学問、教育刷新の方途を議し、宏大にして中正なる我が国本来の道を闡明し外来文化摂取の精神を明瞭ならしめ、文政上必要なる方針と主なる事項とを決定し以て我が国教学刷新の歩を進めその発展振興を図らんとす。

 右の趣旨に基づいて教学刷新の要項を決定し、十一年にこれを答申したのである。その要項は当時の国家主義的趨勢に則(のっと)って、教育の根本精神およびこれに基づく教育内容改善の基本方針を指示したものであって、各学校における教授の具体的な問題についても刷新の基礎となるものを指示したのである。

教学刷新への着手

 この教学刷新評議会において決定された要項に基づいて教育内容の改善が行なわれることになり、昭和十二年春から各学校における教育内容構成の一般原則を検討し、要目の改正をも行なったものである。しかし、その当時とられた内容改善の方策は応急的のものであって、基本的な改善はこれを短日月の間には実現しえないものとして後に問題を残したのである。ここにおいて教育内容および方法に関する基本的な改革が、さらに強く要望されることとなり、その実現のために具体的な方策を全般的に審議せざるをえなくなった。そのためには単に文部省内における改善委員会のごときものをもってしては、これを処理することができないとして、さらに強力なる審議機関の成立が求められた。十二年十二月に成立した教育審議会は、残された文教刷新の重要問題を引き続き審議することとなった。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --