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二 臨時教育会議と教育改善策

学制改革の会議

 わが国の学校制度は明治三十年以後において全体にわたり著しく整備され、まとまった形態となってきた。しかしその間において学校制度の改革に関しては常に論議検討されていたのであって、それらの論議を経てしだいに制度の改革が促されてきた。すなわち、文部省は教育改革のための会議や調査会を設置し、諮問に応じて学制改革問題に関する審議を重ねていた。元来学制改革のために特に官制を設けて会議を行なうことが要望されるに至ったのは明治二十七年ごろからであって、当時は主として高等学校と大学との関連についての諸問題が検討され、その改革が論議されていたのである。このために明治二十九年十二月「高等教育会議規則」が公布されて、高等教育会議が成立した。この教育会議は文部大臣が監督し、教育に関する事項について文部大臣の諮絢に応じ意見を開申し、また自ら意見を文部大臣に具申するものであった。この会議は三十年七月に第一回が開かれ、続いて諸種の問題が取り扱われたが、高等学校・大学については改革案をまとめるに至らないで、ただ専門学校の制度を改革する結論を出したに過ぎなかった。大正二年奥田義人が文部大臣の時、この高等教育会議を廃して教育調査会を設け、学校制度の根本的改革のために調査を進めたが、文部大臣の更迭がしばしばあったので、なんら積極的な調査の結果を出さずに終わってしまった。しかし、大正五年十月岡田良平が文部大臣に就任すると同時に、かねてからの学制改革に着目したのである。すなわち、第一次世界大戦によって与えられた社会の変化に直面し、学校教育を改革して新しい時代に乗り出す意気をもって臨時教育会議を構成し、ここにおいて学校企画の具体案を提出させ、一挙にこれを実施するところまで進めたのである。臨時教育会議は近代学校の発展史に大きな段階を築いた改革の基礎案を提出したのであって、会議をここにまでまとめてきた岡田文相の功績はながく文教史上に残るものである。

臨時教育会議の成立と構成

 臨時教育会議は大正六年九月二十一日「臨時教育会議官制」が公布されて成立した。この会議は内閣直属の諮問機関として設けられたのであって、多年にわたって論議されてきた学制改革のすべての問題がここにおいて改めて検討されることとなった。このように重大な意義をもつ会議であったので、この官制公布の際には特に次の上論が付された。

 「朕中外ノ情勢ニ照シ国家ノ将来ニ稽ヘ内閣ニ委員会ヲ置キ教育ニ関スル制度ヲ審議シ其ノ振興ヲ図ラシムルノ必要ヲ認メ臨時教育会議官制ヲ裁可シ@ニ之ヲ公布セシム」

 この官制によると「臨時教育会議ハ内閣総理大臣ノ監督ニ属シ教育ニ関スル重要ノ事項ヲ調査審議ス」る機関である。すなわち内閣総理大臣の諮絢に応じて意見を開申し、また内閣総理大臣に建議することができる。この会議は総裁一人・副総裁一人・委員四〇人以内をもって組織され、特別の事項を調査審議する必要のある時は臨時委員を置くことができる。この組織に基づいて総裁には平田東助・副総裁には久保田譲・委員には小松原英太郎・一木喜徳郎・山川健次郎・村上格一・阪谷芳郎・有松英義・江木千之・柴田家門・高木兼寛・手島精一・真野文二・荒木寅三郎・北条時敬・木場貞長・井上友一・田所美治・市来乙彦・山梨半造・嘉納治五郎・水野錬太郎・児玉秀雄・湯原元一・瀬戸虎記・水野直・早川千吉郎・大津淳一郎・沢柳政太郎・関直彦・鎌田栄吉・小山健三・桑田熊蔵・山根正次・三土忠造・鵜沢総明・荘田平五郎・成瀬仁蔵の三六人が任命され、牧瀬五一郎・吉田熊次・下条康麿・武部欣一の四人が幹事を仰せ付けられている。この委員会の構成をもって教育策の根本を議し、内閣に直属する機関の議決としてただちにこれを実行しうる力を持たせたのである。

 この会議がどのような使命をもって成立したかについては、六年十月一日臨時教育会議開会の初めに当たって内閣総理大臣寺内正毅の行なった演説がよくこれを表わしている。すなわち、この会議は学制を改革して明治五年以来の教育制度を完成しようとするものであって、十数年来の懸案であった問題をここにおいて解決し、第一次世界大戦以来諸情勢に教育を沿わせようとしたものであると述べたのである。

 臨時教育会議は純然たる学制改革の会議であって、その答申に基づいて改革が断行されることとなった。この会議は対象六年十月から八年三月に至るまでの間に教育制度の全般に関する事項を討議した。この間において次の九つの問題について改善方策が諮問されたのである。その問題は小学教育、男子の高等普通教育、大学教育および専門教育、師範教育、視学制度、女子教育、実業教育、通俗教育、学位制度の九つであった。このおのおのについて改革要綱が答申され、それに理由書が付されたのである。この臨時教育会議は教育制度全般にわたっての討議を終えて、八年五月二十三日に廃止され、その実行についての細案を議するために臨時教育委員会が設けられた。

臨時教育会議の答申

 臨時教育会議においてなされた答申の全般を通じて見られる特質を概観するならば、まず教育制度の外装において最も著しい改革を決定したのは高等学校についてであった。これは従来の学制改革問題がここに集約されていたことからして当然のことであろう。ことにここを高等普通教育の機関であるとし、制度上大学予科の性質を捨てて七年制高等学校の存在を認めたことは注目すべき点である。これに次いでは大学の制度であって、分科大学の制を改めて学部制をとり、総合大学を原則として、官立のほかに財団法人による設立も認めることとし、場合によっては公共団体による設立をも認めるとしたことは大学の新しい制度を要望していたものとみられる。一般に中等教育機関以上は第一次世界大戦を期として著しい拡張の傾向が現われてきていたのであるから、この趨(すう)勢に基づいてしだいに中等教育および高等教育の諸機関を拡張・充実させようとする方策が提出されている。これ以後中等以上の諸学校が急激な増加を見て学校の情勢が著しく異なることとなり、従来のようにきわめて限られた人々だけがこれらの諸学校に進学するものであるという考え方は打破されることとなった。ここにおいて初等教育をもって学校教育は修了したとする国民一般の学校に対する考えが改められ、上級学校進学者が国民各層から現われるようになった。この趨勢が学校の持つ意味を新たにするとともにその構成も改めさせる結果となった。

 このような学校拡張の計画はただちに教員養成についての方針にも検討を加える必要を生じ、師範教育改善についての方策が提出されている。そのうち中等学校教員の養成に関しては、高等師範学校の収容力の増加を図るとともに、帝国大学および官立専門学校の卒業者に対し、無試験で教員免許状を授与するという制度を認めることを答申している。また視学機関の全般的な改革を要望したことも学校教育の著しい拡張に伴っての方策である。

 教育内容に関しては、実科教育の見地から実務生活に役だつようにするということが特に強く考えられたのであって、この点に関する改革の方針は各段階の学校においてこれを認めることができる。実務生活に沿うためには生徒のもっているさまざまな要請を考慮して、それに適切な教育内容を用意しなければならない。この見地から従来画一的になっていて選択を許されない学科構成を改め、生徒の希望によって分化した教育ができるようにする方策がとられた。この方針が以後各学校の学科課程の編成に大きな力を持つことになるのであって、内容の改善はこの視点から進められてきたのである。なお、教科用書は内容の編成に重大な関係をもつことになるので、これをを重視し、その改善充実を求め、中等教育における教科書であっても、文部省で模範教科書を編集し、検定による教科書の改善に対しその方向を与えようと考えたことは、教育内容の改善についての方策を示すものである。

答申に基づく制度の改善

 大正八年以後に見られた教育制度全般にわたっての改善は、すべて臨時教育会議の答申に基づいたものであって、しかもそれが一せいに着手されたことにおいて文教史上注目すべき成果を示している。

 まず学校の基本構造に関する改革として注目しなければならないことは、高等学校と大学とに関することであった。その改革において高等学校は七年制を本体とし、大学予科の性格を捨てて高等普通教育を完成する機関と改めたことはすべて答申における基本方針によるものであった。また、大学については大学令の公布があり、従来官立の帝国大学のみであった制度が改められて、単科大学の制度を認め、公立・私立の大学の設置が認められることとなり、分科大学制は廃止されて学部制が採用され、大学内の組織も著しい変化をとげた。このような学校の基本構成に関する改善は、これらの高等教育機関にとっては真に画期的なものであった。

 答申に基づく改善のうち最も注目しなければならないのは学校の増設・拡張である。これは中等教育以上において著しく現われているのであって、学校数の増加はいうまでもなく、さらに一学校最高定員の規定を改めて収容生徒数の増加を認めたのである。ここにおいて中学校・高等女学校・実業学校の収容生徒数はこれ以後数年間に著しい増加を見せている。中学校・高等女学校に在学するものの性格は従来と異なり、教育上さまざまな要望をもったものがこれらの学校に包含されることとなった。そのため、教育内容の改善に関する問題がこれらの学校においてとりあげられることとなった。

 中等教育機関がこのように拡張をみた結果、その修了者を収容する高等専門の諸学校に関しても大きな改造を施さなければならなくなった。また、大戦中の経済事情によって国民一般の学校進学に対する要望が高まり、子弟を高等教育機関へ入学させ、近代生活に必要な高い学歴と教養を持たせようとした。この要求に応ずるために高等教育を担当していた大学その他諸学校の大拡張が実施されることとなった。

 まず、大正八年に諸学校令の改正を行ない、それと同時に高等教育機関拡張六か年計画が立案されるに至った。この計画は八年以降六か年間に高等教育機関全般にわたっての大拡張を行ない、従来約一万三、〇〇〇人を収容していた高等教育機関を拡大し、この計画完成の暁においては約二万人を収容しうる推算を立てた。増設する学校としては高等学校一〇校・高等工業学校六校・高等農業学校四校・高等商業学校七校・外国語学校一校・薬学専門学校一校、合わせて二九校が官立学校として新設される計画であった。高等学校の増設は大学の拡張を必要とし、各帝国大学の学部増設または拡張をもたらし、医学専門学校・高等商業学校・高等工業学校を大学に昇格させることとなり、新しい大学令によって大学の形が改められるようになった。この高等専門学校の拡張とともに教官を養成する必要に迫られ、このために特に四四一人の在外研究員を派遣し、一方教官となろうとする者を奨励するために、大学院学生および各学部学生四〇〇人に学資を支給するの制を定めるに至った。これらの高等教育拡張のため、七年十二月御内帑(ど)金一、〇〇〇万円が下賜されたのである。

 高等教育の拡張は単に官立だけでなく、私立の大学・高等専門教育の著しい拡張を促したのであって、これ以後新制度による私立の大学およびその他の高等教育機関の数は著しく増加した。

 これら男子の官公私立高等教育機関の拡張が実現されるとともに、女子の高等教育機関が設置されるようになったことは注目しなければならない。すなわち、女子の専門学校が設置されて、高等女学校を卒業した女子を入学させ、これに専門の教育を授けることとなった。また、高等女学校の専攻科と高等科も女子に高等教育を授ける制度であって、これは九年七月の高等女学校令の改正をもって実施されるようになった。女子の高等教育機関がこのように著しい拡張をみたことは、女子教育史上画期的な事実である。

 以上のように、学校の構成に関してさまざまな改善を実施するとともに、その教育内容について改革の諸方針を実現することとなった。すなわち、小学校においては八年二月小学校令および同施行規則の改正を行なった際に、その学科課程に関し、土地の事情によって教科目にさまざまな特質を持たせることができるように規定して、答申における方針を実施した。また、理科を尊重して科学教育を改善し、地理および日本歴史の時間を増加して国民精神の涵(かん)養に力を注いだのである。中学校・高等女学校その他における教育内容の改善もほぼ右の方策に準じている。

 答申に基づく制度の諸改善は、各学校について詳細な考察を加えることにより、これを明らかにすることができるのであるが、その一般的な傾向を概観しただけでも注目すべき改善の結果が現われていることを知るのである。われわれは臨時教育会議とその後引き続いて行なわれた改善を見て、近代学校制度の整備・充実がどのように促進されたかを明らかにすることができる。特に、中等以上の諸学校の拡張は学校の体制を一新させる結果となった。しかも、ただこれら学校教育制度を改善しただけでなく、社会教育に対する関心をも著しく高め、通俗教育についての従来の方策を転換させることとなったのである。

文政審議会の成立

 臨時教育会議は大正八年に終わり、その後は十年に教育評議会、十三年には文政審議会が設けられて教育方針の審議に当たった。たまたま十一、二年の帝国議会において東京および広島の両文理科大学設置に関し論議が行なわれ、その際貴族院の同案決議に附帯して江木千之の主張に基づき、文政に関することは内閣の更迭にかかわらず、恒久的な審議機関を設け、それの調査・審議を経て決定するようにされたいという希望条項が附せられた。ところが十三年一月その主張者である江木千之が文部大臣となり、同年四月審議機関としての文政審議会の設立をみるに至ったのである。

 すなわち、同年四月十五日「文政審議会官制」が公布されたが、その第一条には「文政審議会ハ内閣総理大臣ノ監督ニ属シ其ノ諮絢ニ応シテ国民精神ノ作興、教育ノ方針其ノ他文教ニ関スル重要ノ事項ヲ調査審議ス」と述べてある。また文政審議会は前項の事項につき内閣総理大臣に建議することを得るものとしている。総理大臣を総裁とし、副総裁二人、これには文部大臣および委員の一人が当たり、実業界・政界・学界・教育界および政府各方面からの委員五〇人以内をもって組織された。また特別の事項を調査・審議するため、必要あるときは臨時委員を置くことを得るものとした。総裁は内閣総理大臣清浦奎吾、副総裁は文部大臣江木千之と一木喜徳郎、幹事長には松浦鎮次郎を任じて文政審議会が発足したのである。

 この文政審議会が十三年五月以後昭和十年一月までの間に取り扱った諮絢事項をあげてみると、小学校令改正の件、中等教育改善の為中等教科書の標準編纂の件、師範教育の改善・充実に関する件、学校における教練の振作に関する件、幼稚園令制定の件、高等小学校制度の改善に関する件、青年訓練に関する件、大学令改正に関する件、師範教育制度改正に関する件、学位令改正に関する件、中学校教育改善に関する件、師範教育改善に関する件、大阪帝国大学創設に関する件、青年学校制度制定に関する件の一四件である。文政審議会は教育施策に関するこれらの重要事項を調査審議し、また建議する所の当時における最高の教育審議機関であった。

 なお、文政審議会は内閣審議会の設立とともに昭和十年十二月二十九日廃止された。

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