一 文部省機構の改革

文部大臣の創設と更迭

 明治二十二年の憲法発布、二十三年の帝国議会開会をひかえて、政府は中央・地方の行政機構の再編・整備を行なったが、その準備として、十八年十二月二十二日内閣職権によって、従来の太政官制を廃止して新たに内閣制度を創設し、内閣の一員としての文部大臣が任命された。内閣は内閣総理大臣のほか宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の各大臣によって構成され、これらの各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)する国務大臣であるとともに、それぞれ主管の各省の事務についての行政長官となるものとされた。従来の文部卿が単に行政長官であったのとは異なり、文部大臣は、国務大臣であるとともに「教育学問ニ関スル事務ヲ管理ス」る行政長官となったのである。十八年十二月二十日初代文部大臣には森有礼が就任した。森はかねてから国家の発展と教育政策の関係に注目して教育政策に対し深い関心を示し、十五年、駐英公使の詩、外遊中の伊藤博文の知遇を得て、帰国後十七年五月から内務省勤務兼文部省御用掛に任命されていた。森は二十二年二月、憲法発布の当日に、刺客に襲われ翌日死去した。

 その後、一時、陸軍大臣兼議定官大山巌が文部大臣を兼任したが同年三月、逓信大臣榎本武揚が文部大臣となった。二十三年三月、榎本は枢密顧問官となり、内務次官芳川顕正が後任となった。翌二十四年六月芳川は辞職し、枢密院議長大木喬任がこれに代わった。二十五年八月大木は再び枢密院議長となり、内務大臣兼司法大臣河野敏鎌が文部大臣となった。二十六年三月、河野は願により本官を免ぜられ、枢密顧問官井上毅が文部大臣となった。井上は法制局長官・枢密院書記官長として憲法制定のいっさいの準備にあたり、また、教育勅語の起草にも当たった後、文部大臣として一年半在任し教育制度整備の上に画期的な業績を残した。

 二十七年八月井上は依願免官、司法大臣芳川顕正が臨時に文部大臣を兼任したが、十月枢密顧門官兼賞勲局総裁西園寺公望が文部大臣に就任した。西園寺は二十九年九月まで在任したが、その後、蜂須賀茂韶が三十年十一月まで在任して枢密顧問官となった後、東京帝国大学総長浜尾新が文部大臣となった。三十一年一月西園寺が再びその任についたが、同四月東京帝国大学総長外山正一がこれに代わり、六月尾崎行雄、十月犬養毅、十一月樺山資紀がこれに代わって文部大臣となった。文部大臣の更迭がこのようにたびたび行なわれたことは、わが国の文教史上において他に類例をみないことであった。三十一年十一月に文部大臣になった樺出資紀は三十三年十月に依願免官となり、松田正久がその後任となったが、三十四年六月には松田も依願免官となり、東京帝国大学総長菊池大麓がその後任となった。菊池は二年間在任したが、三十六年七月には菊池に代わって内務大臣兼台湾総督陸軍中将児玉源太郎が文部大臣を兼任し、九月には児玉の兼官がとかれて久保田譲が後任となった。久保田は、二年余在官したが、三十八年十二月内閣総理大臣兼外務大臣陸軍大将桂太郎が後任として兼務となった。三十九年一月、桂は本官ならびに兼官を免ぜられ、内閣総理大臣西園寺公望が文部大臣を兼任したが、三月、特命全権公使牧野伸顕が文部大臣となり、二年余在任した。四十一年七月成立した第二次桂内閣では小松原英太郎が文部大臣となり、三年余在任した。四十四年八月、第二次西園寺内閣の成立とともに長谷場純孝が文部大臣となったが、病により、大正元年十一月農商務大臣牧野伸顕が臨時に兼任した。同年十二月、第三次桂内閣の成立とともに柴田家門が文部大臣となったが、同内閣はわずか二か月で終わり、二年二月、山本内閣が成立した。同内閣では最初奥田義人が文部大臣となったが、三年三月、奥田は司法大臣専任となり、大岡育造が後任となった。同年四月成立した大隈内閣では一木喜徳郎が就任し、八月一木が内務大臣となったので高田早苗が後任となった。五年十月、寺内内閣の成立とともに、岡田良平が文部大臣に就任した。

文部省機構の改革

 明治十八年十二月の内閣制度の創設に引き続き、十九年二月二十七日、勅令により「各省官制」が制定され、その一部として文部省官制が定められた。各省に共通の組織・職員などについては各省官制の通則で規定されたが、文部大臣以下秘書官・書記官・参事官・視学官などの職名、文部省各局課の組織および所掌事務などは文部省官制に規定された。文部大臣の職掌は文部省官制により、「文部大臣ハ教育学問ニ関スル事務ヲ管理ス」と規定された。

 すでに各省官制の制定に先だち、十八年十二月、文部大臣の創設とともに文部省機構の改革を行ない、従前の各局を廃して、大臣官房、学務局、編輯局、会計局をおき、その事務章程を定め、また省内に視学部を設置した。十九年二月、各省官制によって、文部省には、各省共通の大臣官房、総務局のほか、学務局・編輯局・会計局の各局が置かれ、また、秘書官・書記官・参事官のほかに視学官をおいて学事視察に当たらせることとした。

 その後、文部省官制はしばしば改正された。視学制度については後に述べることとなるので、ここでは視学に関する機構を除いた文部省機構の主要な改革について記述すると次のようである。まず二十年十月、文部省官制の改正により、学務局を廃止して、専門学務局・普通学務局の両局を設置した。二十三年六月には編輯局を廃して、総務局の中に図書課を置き、従来編輯局が扱っていた教科用図書規定・図書の編集・飜訳などの事務を処理させることとした。二十四年七月には各省官制通則の改正によって総務局が廃止され、また、文部省官制の改正で会計局が廃止されたので、文部省の機構は大臣官房のほか専門学務・普通学務の両局を残すだけとなった。

 次の大きな改革は三十年十月の文部省官制の改正によるもので、専門学務局を廃して高等学務局を置き、新たに実業学務局、図書局を設けて、文部省の機構は大臣官房・高等学務局・普通学務局・実業教育局・図書局となった。しかし、三十一年十月には政府の行政整理の方針によって実業教育局および図書局が廃止され、高等学務局が旧名に復したので、文部省の機構は再び大臣官房のほか専門学務・普通学務の両局のみとなった。

 三十三年三月、文部省官制が改正されて、従来の大臣官房および専門・普通両学務局のほかに、実業学務局が復活した。また、中学校に関する事務の掌理が専門学務局から普通学務局に移された。また、同年四月には、各省官制通則の改正によって、大臣官房のほかに総務局が置かれ、次官は総務長官と改められ、参与官の代わりに官房長が置かれた。しかし、三十六年十二月になって、各省官制通則はまた改正され、総務局は廃されてその事務が大臣官房の所属に移され、総務長官および官房長も廃され再び次官が置かれた。その後、四十四年五月文部省官制が改正されて図書局が置かれたが、大正二年六月には、文部省官制が改正されて、実業学務局・図書局が廃止され、新たに宗教局が設置された。

視学機構

 すでに述べたように、明治十年一月督学局が廃止されて後八年間にわたって、文部省には督学・視学は置かれなかったのであるが、十八年二月、文部省学務二局の処務概則を定め、その際、全国を区画して六地方部を置き、各部に部長一人と属官数人を置いて、もっぱら地方の視学事務に従事させる制度を設けた。同七月、六地方部を五地方部に改めた。次いで十八年十二月視学部を設置し、十九年二月、文部省官制により、視学官五人を置き、全国を五地方部に分けて学事視察を分担させることとなった。翌二十年十月、専門・普通両学務局の設置に伴い、普通学務局に第一ないし第五の五課を置き、全国を五部に分けて分担することとし、各課長を視学官の兼任とした。文部省官制では視学官の職務は、「学事視察ノ事ニ従ハシム」と定められたが、二十三年の改正で「学事ノ視察及学校検閲ノ事ヲ掌ラシム」と改めた。

 二十四年八月、文部省分課規程の改正により、視学部に視学官のほか、新たに視学委員を置くこととなった。二十六年一月には「視学規程」を定め、視学官・視学委員の職掌を規定したが、同年十月、行政整理のため、視学官を廃して参事官が学事視察をつかさどることとなり、一時専任の視学官がなくなった。三十年十月、ふたたび文部省に専任視学官七人を置き、学事視察をつかさどるとともに、便宜各局課の事務をも助けた。三十一年十月行政整理に際して、視学官は五人に減じられ、若干の兼任視学官を置いた。三十二年六月「視学官及視学特別任用令」を公布したが、その中で文部省視学官は次の資格の一を有するものの中から任用することができるものと定めた。1)二年以上文部省直轄学校の学校長または奏任教官の職にあったもの、2)五年以上師範学校・官公立中学校・高等女学校・実業学校の校長の職にあったもの、3)三年以上前号の職にあったもので一年以上道庁府県視学官の職にあったもの。以上のような経過を経て、文部省視学官・視学委員の制度は確立し、四十一年には視学官を一一人に増員した。同年九月の「文部省視学官及文部省視学委員職務規程」によれば、視学官の学事視察のため全国を七地方部に分け、各部担任の視学官は定時および臨時に、主としてその部内の普通教育および甲種程度以下の実業教育を視察すべきものとされ、また、地方部を担任しない視学官は、全国を通じて専門教育および実業教育を観察し、または特命による学事視察に従事すべきものとした。他方、視学委員は、文部大臣の命を受け、主として特に指示された学事を視察すべきものとした。大正二年六月、文部省官制の改正により、従来の視学官を廃止して、督学官を置くこととなった。督学官は、当初は定員七人で、専門学務局または普通学務局に属してその事務を掌り、兼ねて学事の視察・監督を掌るものとした。二年六月に定めた「文部省督学官特別任用規定」によれば、文部省督学官は、1)二年以上帝国大学の奏任教官、または文部省直轄諸学校の学校長もしくは奏任教官の職にあった者、2)五年以上奏任文官たる学校長もしくは教官、または奏任文官と同一の待遇を受ける学校長もしくは教員の職にあった者の中から、文官高等試験委員の銓衡(せんこう)を得て特にこれを任用することができるものとした。また、三年四月に定めた「文部省督学官及文部省視学委員視察規程」によれば、文部省督学官が学事視察を命ぜられたときは、1)教育行政の状況、2)学校教育の状況、3)学校衛生の状況、4)学校経営の状況、5)学事関係職員執務の状況、6)通俗教育その他教育学芸に関する諸施設の状況、7)その他特に指命を受けた事項について視察することとし、また、文部省視学委員は、文部大臣の命を受けて特に指命された学事を視察するものとした。

教科書行政とその機構

 明治十九年から大正五年に至る期間において文部省が行なった教科書に関する行政とその機構についてみると次のようである。

 十九年の小学校令には「小学校ノ教科書ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ルヘシ」と定めたが、同年五月「教科用図書検定条例」を定め、二十年五月にはこれを改正して「教科用図書検定規則」を定め、その後はそれに基づいて教科書の検定制度を実施した。文部省は検定制度を実施するとともに、編輯局において教科書の編集も行なった。

 小学校教科書の採択については、二十年三月、「公私立小学校教科用図書検定方法」を定め、地方長官が教科用図書審査委員を任命して検定済み教科書の中から府県単位に採択することとしたが、二十三年の小学校令には教科書の審査採択に関する規定を設け、これに基づいて二十四年には「小学校教科用図書審査等ニ関スル規則」を定めた。その後、三十三年の小学校令・同施行規則においても審査採定についての詳細な規定を設けるなど、採択方法の適正に努力したのである。三十五年、いわゆる教科書事件が発生し、これが直接の契機になって、小学校教科書の国定制度を実施することとなった。三十六年四月、小学校令を改正して、「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」と規定したのである。

 この間における文部省の教科書行政担当の機構の変遷をみると、まず二十三年六月に編輯局を廃止して総務局に図書課を置いた。二十四年七月には総務局を廃止し、教科書に関する事務は大臣官房図書課に移した。次いで三十年十月には図書局を設置し図書審査官を置いたが、三十一年十月に図書局を廃止して大臣官房に図書課を置いた。その後、三十三年省内に修身教科書調査委員会をおいて小学校修身教科書の編集準備に着手し、三十五年には図書課に小学読本の編集着手を命じていたが国定制度実施に伴い、三十七年五月には、文部省に専任編修官四人を置いて国定教科書の編集に当たり、四十一年には教科用図書調査委員会を設置した。その後四十四年五月には再び図書局を設置したが、大正二年六月には図書局が廃止されて教科書関係の事務は普通学務局第二課に移した。しかし、五年六月には大臣官房に図書課を設け、図書事務官・図書監査官・図書官を置くこととなった。

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