一 初期の社会教育

近代社会教育の胎動

 社会教育の制度が学校教育制度とは異なった分野を占めるものとして、組織されるようになったのは、きわめて新しい時代に属することである。しかし、社会教育の施設の中には、明治の初年にまで遡(さかのぼ)ることのできるものも含まれている。欧米の近代的な文物制度を取り入れて、人民の知識を啓蒙しようとする文明開化の方策は、明治政府の重要な施策の一つであった。これによって学校教育制度を急速に確立することに努めたが、それと同時に、学校以外の方法による一般人民の知識の開明についても、政府は大いに注目するところがあった。海外の事情を実際に見聞し、特にアメリカ合衆国の教育状況を、詳細に視察した人々は、当時諸外国において、学校のほかにさまざまな教育施設が成立していることを早くから知り、またそれをわが国に紹介していた。たとえば、『理事功程』・『澳国博覧会報告書』・『文部省雑誌』などの政府関係の刊行物による紹介は、その先駆をなす文献であった。福沢論吉の『西洋事情』の中にも、当時の諸外国における学校以外の教育施設についての紹介があり、この分野の教育の理解に大きな影響を与えた。このようにして、政府が特に目を向けたのが欧米における博物館や図書館施設で、わが国においても、これらを教育制度の一部として運営しなければならないことを、文部省が教育政策としてとりあげるようになった。

書籍館の設立

 文部省は、明治五年四月、書籍館を博物局内に創設して一般に公開した。当時の文部省の主旨は、次の達によって知ることができる。「方今人材教育文化進歩ノ為メ今般東京湯島博物館中ニ於テ書籍館ヲ建設セラレ従来府庫収蔵ノ和漢洋ノ群書ハ申スニ及ハス其他遺漏スル所ノ書ハ追々之ヲ館内ニ蒐集シ普ク衆人ノ此処ニ来テ望ム所ノ書ヲ看読スルヲ差許ス条各其意ヲ体シ有志ノ輩ハ無憚借覧願出可申事」

 このような趣旨で設置された書籍館は、六年三月博覧会事務局に合併され、八年二月にふたたび文部省の所管となった。同年四月に東京書籍館と改称し、翌五月から規則を定め、開館することとなった。文部省がふたたび書籍館を統轄するようになった八年の状況を、文部省第三年報の東京書籍館年報の項で次のごとく述べている。

 「客歳二月本館ノ百事更始ニ係ルニ方リ速ニ内外人民ヲシテ所蔵ノ書籍ヲ覧閲セシメント欲シ先属員ニ命シテ其書目ヲ編纂セシム五月ニ及ヒ粗其業ヲ終ルヲ得タリ是ニ於テ規則ヲ定メテ館ヲ開ク爾来人民項背相望ミ覧閲ヲ乞フ者日ニ増シ月ニ加ハリ其人民ニ益アルヤ尠々ナラス実ニ我邦千古未夕曾テ有サルノ「美挙ト為スヘキナリ是固ヨリ文運隆興ノ日ニ際スルニ由ルト雖モ豈閣下ノ盛意ト属員ノ勉励トニ出ルニ非スヤ夫レ更始未タ久シカラサルニ人民ノ公益ヲ資クル既ニ已ニ此ノ如シ況ヤ木年百事漸ク緒ニ就ケルヲヤ若シ之ヲシテ積年累月勉焉倦マサラシメハ終ニ欧米各国ノ公立書籍院ニ比肩スルニ至ルモ亦甚夕難シトセサルナリ」

 当時の図書館の統計によってみると、職員は館長ほか一一人、蔵書数は三万ニ、九〇七冊、新聞雑報七四種、器械五六種であり、五月から十二月に至る閲覧人員総計は五、三八五人であって、約三、〇〇〇円の経費によって経営されていた。また九年の状況は文部省第四年報第一冊「東京書籍館年報」の中の一節によれば、新収集の書籍は四万一、〇〇〇余冊で、前年の蔵書と合算すると、七万余冊に達することとなり、求覧の人員は二万四、四六八人、一日平均七二人強となって、「本館百事改創以来僅カ二一年有余ニシテ粗書籍館ノ体裁ヲ具有シ大ニ人民ノ公益ヲ資成スルヲ得ル」と述べているほどの発展を示した。

 文部省が率先して書籍館を開設したことは、このようなすぐれた施設によって新知識を得ようとする一般の気運をもりあげた。その他民間の手によって五年に京都集書院が開設され、新聞縦覧所が各地に開かれるなど、後の図書館施設の発展の基礎をつくった。

博物館の設立

 博物館は図書館とともに文部省が創置当初から管轄していた施設であって、社会教育史の初頭を飾っている。明治三年より政府は、物産局仮事務所を設けて物産を収集させ、博物館の基礎を置いていたが、四年九月文部省が設置された直後博物局に引き継がれた。これを、五年三月十月海外諸国の博覧会にならって、わが国でも博覧会として公開したのであった。

 「博覧会ノ旨趣ハ天造人工ノ別ナク宇内ノ産物ヲ蒐集シテ其名称ヲ正シ其用法ヲ弁シ人ノ知見ヲ広ムルニ在り就中古器苗物ニ至テハ時世ノ推遵制度ノ沿革ヲ追徴ス可キ要物ナルニ因リ嚮者御布告ノ意ニ原ツキ周ク之ヲ羅列シテ世人ノ放観ニ供セント欲ス然モ其各地ヨリ徴集スルノ期ニ至テハ之ヲ異日ニ待タサルヲ得スシテ現今存在ノ旧器ハ社寺ニ遺伝スル什物ノ外其用ニ充ツ可キ物少ナク加フルニ皇国従来博覧会ノ挙アラサルニ因リ珍品奇物ノ官庫ニ貯フル所亦若干許ニ過キス因テ古代ノ器物天造ノ奇品漢洋舶載新造創製等ヲ論セス之ヲ蔵スル者ハ博物館ニ出シテ此会ノ欠ヲ補ヒ以テ世俗ノ陋見ヲ啓キ且古今ノ同異ヲ知ラシムルノ資助ト為スヲ請フ」

 これが、当時の達文であって、多くの人々に産業文化に関する啓もうを行なうのがその趣旨であった。この博物館の経営には、当時文部省において文教の首脳であり、また海外諸国の教育制度の実情に詳しかった田中不ニ麻呂が熱心にこれに当たった。田中阿歌麻呂は父の業績を追想して、「父は明治初期の図書館博物館等の事業に対しても貢献するところがあったと思われる。すなわち書籍館あるいは教育博物館の創設にも尽力したのである。これらの施設は湯島聖堂のかたわらに置かれていたのであるが、それを明治十年一月上野に移して新営したのである。父は特に教育博物館には多大の関心をもっていたようであって、上野に移ってからは時々私を連れて行って観覧させた。その際にこれが国民教育上重要な意義をもつものであるとか、またここの方法はカナダの教育博物館の経営を参考としているのだなどわたくしに話してくれたことを記憶しているのである。これらによって父は学校制度の改善に努めたとともに、すでに欧米巡覧中から社会教育や学芸に関する行政方策、さらにそのための施設等にも着眼していたことを知るのである。」と述べている。この経緯によって、一時博覧会事務局に合併されていた博物館を再び文部省に移管し、八年四月八日東京博物館と改称し、恒久化した社会教育施設の一つとしたのである。

 九年六月上野山内西四軒寺跡および養育院の地所を合わせた地に、新しく学術博物館を建築する計画がたてられ、十二月に落成するに及んで、東京博物館は、十年一月にここに移転することとなった。そして、教育博物館とその名称を改めた。

 当時の博物館の状況は、九年文部省年報において東京博物館長補 手島精一が次のように述べているところから、その一端をうかがうことができる。

 「伏テ惟ルニ世ニ博物館ノ設ケ多クシテ其或ハ博物美術医学教育等ノ名称ヲ冠スルモ之ヲ要スルニ各学科上親シク実物ニ就テ学ハサレハ隔靴掻痒ノ歎ヲ免レサルカ故ナリ故ニ学術ノ高尚ニ赴クニ随ヒ人愈此歎ナキ能ハサレハ国愈文明ニ進歩スルニ随ヒ博物館ノ設多キ所以ニシテ国ノ文不文ハ博物館ノ多少ヲ以テトスルニ足レリ我文部省モ夙ニ此ニ見ル所アリテ明治八年ヲ以テ東京博物館ヲ再設セリト雖モ如何セン物品ヲ羅列シ庶人ヲシテ来観セシムヘキ廈屋アラサリシカ故ニ既ニ蒐集セシ物品モ空シク蓄積スルノミナリシカ明治九年六月ヲ以テ文部省新築ノ業ヲ創メ今既ニ造営ノ功成リ開館ノ期近キニ有ルヘシ今ヤ本邦教育ノ進歩セル前日ノ比ニアラサレハ我博物館ニ来観スル者衆多ニシテ且之ヲ益スルノ多キ敢テ疑ハサル所ナレハ之ニ排列スヘキ物品ハ金額ノ許多ナルヲ顧ミス人力ノ許多ナルヲ厭ハス一時ニ之ヲ蒐集センカ日ク然ラス夫レ世界ノ濶キ各国ノ多キ博ク教育学術ニ関スルノ物品ヲ蒐集セントセハ巨万ノ金ヲ傾ルト雖モ一朝ニ能ク得テ之ヲ為ス可カラサルノミナラス金額ト人力トニ比セハ其益果シテ幾何ソヤ然ハ則チ物品ヲ蒐集スル急ナラサルカ日ク否本邦古ヨリ教育ノ道行ハレ教科ニ亘ルノ物件実ニ鮮カラス宜シク先ツ本邦教育ノ物品ヲ集メ之力部類ヲ分ツテ排列シ又博物ノ如キモ本邦禽獣草木金石ニ富メリ須ク先ツ本邦ノ動植鉱物ヲ蒐集シ之ニ学術上ノ名称ヲ付シ之カ類ヲ正シ而テ後教育博物学ニ係ルノ諸品有余ヲ以テ外国ノ物品ト交換セハ金額ト人力トヲ費サスシテ有無相補ヒ彼我相益シ博ク各国ノ物品ヲ集ムルモ亦難キニアラサルヘシ本館ノ目途タル斯ノ如ク夫レ有無相交換セント欲スルニ在レハ数年ニシテ之カ大成ヲ見ルコト能ハサルモ数十年ヲ出スシテ我博物館ヲシテ東洋中ノ一大博物館タラシムルモ亦期スヘキナリ」

 このようなさかんな抱負をもって東京の教育博物館を経営した一方、大阪・京都・金沢・秋田の諸地方にも府県立の博物館が創立されるようになった。

書籍館の法的規定

 以上のように、書籍館および博物館は明治初年における文明開化の産物であり、最初の社会教育施設の試みであったが、これを教育規程の中に掲げることはなかった。明治五年学制の中には社会教育に関する規程は載せられていない。しかし、文部省は、実際には社会教育施設を持っていたのであって、十二年教育令の中において、はじめて図書館は学校とともに文部卿の管轄下に置かれる方針が確立された。

 十二年に公布された教育令は、田中不二麻呂が中心となって立案したものであって、あらゆる教育機関に関する基本的な条項を確定しようとする方針のもとに、起草されたものであるが、その条文の中には、書籍館の名称が掲げられている。すなわち、幼稚園・学校と並べて、書籍館は公・私立の別なく、みな、文部卿の監督中にあるべきことが、第一条において定められている。この規程は、書籍館の名称が教育に関する条文の中に掲げられた最初のものであり、また、書籍館を教育制度の一部として取り扱う方針を明確にしたものである。これは、文部省が、学校のほかに社会教育の施設を合わせて統轄しようとした意図を、明りょうに示すものであって、広い教育政策をとっていたことが認められる。博物館は教育令起草の際には書籍館とともにその名称が掲げられ、同じ規程が設けられるはずであったが、草案修正の際に削除されて、教育令の条章には「書籍館等」としるすにとどまった。

 田中不二麻呂が、教育令の条文中に書籍館の規定を設けた意図が如何なるものであったかは、次に掲げる「公立書籍館ノ設置ヲ要ス」(明治十年十二月)という文部省第四年報中の一文に明らかである。それは、公立学校と公立書籍館の発展とが相まって、初めて近代教育の進展を期することかできるとしたもので、近代的な社会教育施策に関するすぐれた見解を示したものであった。文部省第四年報には「公立書籍館ノ設置ヲ要ス」として次のゾごとく記している。「公立学校ヲ設置シ人民ノ智識ヲ闡発スルニ至リテハ各地方教育者ノ嘗テ殫思スル所ニシテ夙ニ吾儕ノ素願ヲ満タシムルニ足ルモノアリ而シテ此他尚目下ニ施行スヘキ緊切ノ件アリ即公立書籍館ノ設置ヲ要スル是ナリ夫レ学校ノ事業ハ尋常普通欠ク可ラサルモノト雖男女各為スヘキノ職務アリ或ハ己ヲ得サルノ障碍ニ会シ半途ニシテ其志ヲ遂ケス徒ニ前功ヲ放棄スル者比々然リトス公立書籍館ノ設置ハ此輩ヲシテ啻ニ嚢時ノ修習スル所ヲ操繹セシムルノミナラス更ニ其学緒ヲ続成シ終ニ大美帛ヲ織出スヘキ良機場ヲ開クモノナリ(中略)今ヤ公立学校ノ設置稍多キヲ加フルノ秋ニ際シ独リ公立書籍館ノ設置纂夕少ナキハ教育上ノ缺憾ト謂ハサルヲ得ス吾儕ハ切ニ望ム各地方教育者ノ公文書籍館ノ特ニ有益ナル理由ヲ認知シ都鄙各其便宜ヲ計リ逐次設置ヲ図ルノ佳挙ニ注意アランコトヲ(中略)公立書籍館ノ設置踵ヲ各地方ニ接シ漸ク著効ヲ見ルヘキノ日ニ及ヒテハ政府モ亦費額ノ幾分ヲ補給スルハ敢テ不当ニ非サルヲ信ズ」

 十二年公布の教育令の中に、書籍館が公私立の別なく学校・幼稚園と並んで文部卿の監督中にあるべきことを規定した方針は、翌十三年の改正教育令の中においても、そのまま承認せられることとなった。また、その設置および廃止に関しても規程を設けて、公立の学校、幼稚園と同様に府県立のものは、文部卿の許可を必要とし、町村立および私立のものは府県知事・県令の許可を経なければならないこととした。これは図書館行政を公立・私立の学校と同様に実施しようとしたものであって、注目される方針であった。これを契機に、地方でもしだいに書籍館を設けるようになった。それらの中では、大阪府立の書籍館が著名であり、十五年には、諸県に公立一六館・私立一館、合わせて一七館の書籍館が開かれたのである。当時の状況は、十五年文部省第十年報の中に次のごとくに述べているので、これを明らかにすることができる。

 「古今ノ図籍幾万巻ナルヲ知ラス皆官私ノ庫中ニ存シテ未タ公衆ノ縦覧ヲ許スモノナシ其之ヲ許スモノハ東京書籍館ヲ以テ嚆矢トス顧フニ該館ハ明治五年ノ創立ニシテ爾後規計若シクハ所轄ノ変更等アリタレトモ現今ニ及ヒテハ諸般ノ事項頗ル整頓シ其ノ書籍ノ閲覧ニ充ツ可キモノハ和漢書二万一百二十二部洋書四千五百四部其他重複ノ和漢書及ヒ洋書ノ尚ホ精査ヲ経サルモノ数千部アリ而シテ其閲覧人員ハ八万八百五十名アリテ之ヲ開館日数ニ除スレハ一日ノ平均二百五十七名ニ該リ一名ノ閲覧書ハ五冊弱ニ当レリ地方所管ノ書籍館ハ大阪府ニ府立一箇、新潟・埼玉・栃木・愛知・静岡・滋賀・宮城・秋田・島根・徳島・高知・福岡ノ一十二県ニ県立各一箇青森ニ町村立三箇私立一箇計一十七箇アリ其内書籍及ヒ閲覧者ノ最モ多キモノハ大阪・宮城・秋田・ 知ノ書籍館ニシテ其他愛知・徳島等ノ書籍館ハ蔵書頗ル富メリト雖モ閲覧者ノ数猶ホ未タ多カラス@ニ各館所蔵ノ書籍ヲ総計スレハ和漢書四万一千一十六部洋書七千二百九十七部計四万八千三百一十三部ニシテ其閲覧者ハ五万三千八百七名トシ之ヲ開館日数ニ除スレハ一日ノ平均僅カニ一十四名ニ過キス然レトモ之ヲ前年ニ比較スレハ書籍ハ六千四百九部閲覧者ハ一万六百名ヲ増加シテ亦頗ル開進ノ帰向アルカ如シ」

 これによって各地の図書館運営が、着々と行なわれるようになってきたことが知られる。

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