三 産業教育の整備

実業学校令の制定

 明治三十年代の学校制度全般に関する改革は、従来統一した規程をもたなかった実業学校の制度化にも及んだのである。三十二年二月七日には実業学校令を公布し、実業学校制度を整備することとなった。従来中等程度の実業学校は、これを制度として運営するための統一的規定をもっていなかったために、実業学校は商業および農業に関して通則がつくられたにとどまる有様であった。特に工業学校に関してはいかなる制度によって、これを取り扱うかについてさえ明らかにしていなかった。しかるに、三十年前後におけるわが国の産業界のめざましい発展は、実業に従事する者が組織的な学校によって養成され、各種の技能を身につけることを要求するようになった。このために、低い程度の実業教育機関とともに、中等程度の諸種の実業学校を整備することが強く要望されるようになった。ここにおいて、中等程度の実業教育を施す諸学校を中学校制度と並べて確立するために、実業学校令を公布することとなった。

 この実業学校令は、あらゆる実業学校に適用される基本的な規程を掲げただけであって、その詳細にわたってはこれを各学校の規程にまかせることとし、実業学校令公布後、引き続いて諸学校に関する規程を制定している。これらの諸規程を概観すると、当時計画されていた中等程度の実業学校に関する全体をうかがうことができる。実業学校令によれば、修業年限は各学校とも三年をもって本体とし、入学資格は十四歳以上で、修業年限四年の高等小学校卒業程度の学力を有するものとした。これらの点から見れば、中学校を卒業する年齢と実業学校を終わる年齢とは同じであったから、中等教育機関の基本的体制に合致したものであったとみられる。

 実業学校は、工業・農業・商業等の実業に従事する者に対して必要な教育を施す機関であるとし、その種類として、工業学校・農業学校・商業学校・商船学校および実業補習学校の五種類の学校をあげた。なお、蚕業学校・山林学校・獣医学校・水産学校等は農業学校の中に含むこととし、徒弟学校はこれを工業学校の種類とすることと定めた。これらの実業学校は、北海道および府県が設置することを本体としたのであって、公立の中等学校として経営し、各地方の産業の情勢に基づいで学校の編制をする方策であった。

 学科課程の編成は、おのおのの学校によってさまざまの方針が取られたが、修身・読書・作文・数学・物理・化学・図画・体操等の普通学科をその基礎として授けた。そのほかにそれぞれの実業に基づく学科を授けることができることとし、ことに実習を重んじ、産業界の要求にじゅうぶん適応できる者を養成しようと企画した。

 このようにして実業学校の制度はほぼ整備されることとなったが、この制度が成立した時期から、わが国の中等教育機関が高等普通教育を行なう学校と、実業教育を施す学校とに二大別されることとなり、この制度は第二次世界大戦後の学校制度の改革に至るまで存続したのである。この二つの中等学校制度は、その学校の性質が根本的に異なるものであったから、小学校の卒業者に対して二つの異なった門戸を構えることとなった。ことに上級学校進学の便宜を中学校卒業者に与えていることが、実業学校の性質を中学校とは全く異なったものとした。この当時から実業につくことを目的とするものを養成するのが実業学校であるとしたので、その伝統によって長い間、中等学校の二分した形態が成立し、これが教育制度改革上の問題ともなったのである。しかし、わが国の中等教育機関を産業の振興と結びつけて運営する方策は、この実業学校制度の成立によって著しく促進されたのであるから、中等教育の発展史の上において当時の実業学校に対する方策は重要な意味を持っているのである。実際、実業学校令公布以後の実業諸学校の発展はめざましいものがあって、普通教育だけであった中等教育の体制をこれによって一新することとなった。

実業学校の設置状況とその特質

 実業学校令によって実業教育のための諸機関が統一された際の学校数および生徒数は、当時の実業学校がいかなる構成になっていたかを明らかにする資料となる。明治三十八年の文部省年報によって実業学校の概況をみると上の表のとおりである。

表20 実業学校の学校数・生徒数の推移(明治32年~38年)

表20 実業学校の学校数・生徒数の推移(明治32年~38年)

 この統計から、当時の実業教育は農業部面および商業部面において著しい発展をなし、生徒数からみれば商業学校が最も多く、工業学校はまだ低い段階にあったことがわかる。実業学校の制度に関しては、その後大正九年に実業学校令の改正をみるに至るまでは、なんら新しい方策は見られなかった。

 このように当時の実業教育機関のうち工業学校の発達が遅れていたことは、わが国の工業がじゅうぶんに発達していなかったことと深く関連している。わが国において、製糸業・紡績業や、製鉄・造船を中心とする重工業、鉱業および軍事工業等の重要産業がその軌について発展してくるのは、明治二十五、六年を境としてのことであった。この産業の拡充発展の傾向はいよいよ増大してきたために、工業教育を施す学校の必要を唱える者もあらわれた。たとえば手島精一は、三十年十二月に「技芸学校ノ設置ニ就イテ」の意見の中で、「私ノ技芸学校ト申ス此技芸ノ意味ハ範囲ガ狭イノデゴザイマス農業或ハ商業トカ云フ技芸ハ含ンデハ居リマセヌ、単ニ工業上ノ技芸ヲ申スノデゴザイマス、左レバ今日我国二行ハレツ丶アル工業学校トカ又職業学校トカ又ハ徒弟学校トカ云フモノデアリマストカ、又ハ実業補習学校ノ設置ニ附テト申シタ方ガ却ツテ分リ易ウゴザイマス。又・・・・・・技芸学校ヲ全国ニ設ケテ此技芸教育ヲ十分ニ施シクイト欲スルコトニ就イテノ意見デゴザイマス。」と述べている。

 この意見を見ても明らかなとおり、諸種実業学校の中でも立ち遅れている工業学校の拡充が考えられてきたのであって、この考えは三十年代になるといよいよ強められたのである。しかし、工業教育に関してはわずかに東京職工学校の施設しかなかった十年代に、農業教育に関しては札幌農学校・駒場農学校が先鞭をつけ、また各地方においては府県の農事試験場等に講習所が設けられ、やがて農学校となる基礎を作ったなど実業教育の施設が数多く存在したこと、また商業教育に関しても八年東京の商法講習所をはじめとして、神戸・岡山・横浜・新潟などに同様の施設が見られたことなどを考え合わせるならば、わが国の工業学校の発達が他の実業の部門に比して著しく低度のものであったことが、特質の一つとしてあげられる。

実業補習学校の設置状況

 実業学校令によって実業補習学校も実業教育機関のなかに位置づけられることになったのであるが、この当時の設置状況をみると、次ページの表に示すとおりである。これによって、実業補習学校のうちでも農業補習学校の発展が著しく、これに比べて工業方面と商業方面の発達が遅れていることが目につく。工業方面の状況に関しては、明治三十年十二月の各府県における工業補習学校数が公立一七校、私立一校、計一八校にすぎず、長野・群馬のような主要な製糸業地や大阪・東京のような紡績業の盛んな土地においてさえ、この種の学校がまだ全く設立されていなかったことから、きわめて低い発達の段階にあったことが推測できる。

 実業教育中に含まれている実業補習学校は、初等教育を修了した人々を入学させているのではあるが、現に職業に従事している人々に対する教育機関であるという意味において、他の実業諸学校とはその性格を異にしている。これが農村に多く設立されたという事情は、農業が初めから必ずしも一定の専門技術や知識を必要としないで行なわれること、および農村が初等教育を修了した者をただちに労働力として必要とし、農家が子弟に上級学校の教育を受けさせる余裕を持たなかったことから、農業につくかたわら、教育を施すこの機関が農村につごうのよいものとして受け入れられたからであった。

実業専門学校の発展

 明治三十年代の後半になると、中等教育の発達に伴って専門学校への進学者も多くなり、三十六年三月二十七日に専門学校令が公布された。この専門学校令の制定とともに実業学校令が改正され、程度の高い実業学校を実業専門学校とし、この種の学校は専門学校令の規定によることにした。この制度のもとに実業専門学校となった学校は、札幌農学校、盛岡高等農林学校、東京高等商業学校(東京商科大学の前身)、神戸高等商業学校(神戸商業大学の前身)、東京高等工業学校(東京工業大学の前身)、大阪高等工業学校(大阪工業大学の前身)および京都高等工芸学校であった。その後実業専門学校の数はしだいに増加し、四十三年ごろには、工業関係ではすでに述べたもののほかに、名古屋・熊本・仙台・米沢の各高等工業学校、秋田鉱山専門学校を設置し、私立では明治専門学校が認可された。また農業関係では、鹿児島高等農林学校・千葉県立園芸専門学校のほか私立の東京高等農学校があり、商業関係では山口・長崎・小樽の各高等商業学校を設立した。その後実業専門学校は時代の要請によってしだいに発展し、大正五年における状況では、官立一八校、公立二校、私立三校合わせて二三校に達している。

表21 実業補習学校の学校数・生徒数の推移

表21 実業補習学校の学校数・生徒数の推移

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