三 専門学校の制度化と拡充

専門学校令の公布

 明治三十年代までは専門学校に対する統一的な方策はなく、必要に応じてその設置を認可してきた。しかし中等教育が発達し専門学校への進学者も多くなり、高等教育機関を整備するために専門学校を統一的な規程によって取り扱わなければならなくなった。そこで三十六年三月二十七日に「専門学校令」を公布して、はじめて専門学校を制度化して運営することとなった。

 しかし、専門学校はその種類が多様であったので、これを統轄する規程はすべてに通ずる基本的な条章を掲げるにとどまらざるを得なかった。各学校についてのそれ以上の詳細な規定はそれぞれの学校において定め、文部大臣の認可を経ることとした。専門学校の一般的性質に関しては「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と規定しただけであって、それ以外にこの学校の性質を明らかにする詳細な条文はつくられていない。修業年限は三年以上とし、入学資格は中学校卒業者もしくは修業年限四年以上の高等女学校卒業者とし、音楽美術に関する専門学校は別に入学の規定を定めることとした。また専門学校には予科・研究科・別科を設置できることとした。官立専門学校の修業年限、学科目およびその程度は文部大臣の定めるところとし、公私立の専門学校は文部大臣の認可によってこれを定めることとした。ここにおいて同年三月三十一日公私立専門学校規程を公布して、これらの学校の統轄に関する詳細な事項を定めた。また同日、専門学校入学者検定規程を定め、男子は満十七年以上、女子は満十六年以上の者に受験の資格を与えた。これは独学者に専門学校入学の機会を与えるための制度であった。従前設立維持されてきた諸種の専門学校はこの専門学校令によって統轄されることとなり、その全般に関する改革が行なわれた。

 また、専門学校令の公布とともに、実業学校令を改正し、「実業学校ニシテ高等ノ教育ヲ為スモノヲ実業専門学校トス実業専門学校ニ関シテハ専門学校令ノ定ムル所ニ依ル」という規定が加わり、ここに実業専門学校という制度類型を高等教育に加えることとなった。高等工学校・高等農林学校・高等商業学校などの名称で呼ばれた諸学校がそれである。しかし、専門学校も実業専門学校も、専門学校令の規定の適用をうける点では変わりはなく、中学校卒業者に分科した専門教育を施すという性格においても変わりはなかった。

 専門学校令の施行とともに、三十四年高等学校医学部から独立していた千葉・仙台・岡山・金沢・長崎の五医学専門学校を専門学校令による学校とし、また東京外国語学校・東京美術学校・東京音楽学校も専門学校とした。この他、公私立の専門教育機関のうち、専門学校令によって認めたものを専門分野別にみると、医薬学五校、法律学一一校、文学一〇校、宗教一〇〇校に達した。実業専門学校も次々に認可されあるいは新設されていった。後年これらが急速に発展して膨大な高等教育の諸学校となったが、その基本構造は三十六年以後の数年間につくりあげられた。

専門学校と私立学校

 専門学校令によって認可した専門学校には医学・法律・経済・商科関係のものが多くみられるが、それは従来高等の学術技芸を教授していたすべての学校がこれに含まれるようになったからである。官立の専門学校は従来の制度をこの専門学校令によって明確にしただけであったが、私立専門学校はその後著しい変革をした。すなわち、専門学校令に基づいた私立の学校であって大学の名称をとるものが多数見られるようになったことである。当時大学は帝国大学以外に存在しなかったので、専門学校は大学と制度上明確に区別されていた。そのために私立大学の設立を制度上認めることができなかったので、文部省は三十六年、一年半程度の予科をもつ専門学校に対しては「大学」という名称をつけることを正式に認可することとした。この措置によって、すでに二十年代はじめから「大学部」を設けていた慶応義塾のほか早稲田・東京法学院(中央)・同志社などの有力な私立の専門学校は次々に大学と改称した。もちろん大学とは称しても専門学校令に基づいたものであるから、制度上帝国大学と同程度のものと見ることはできないが、そこには専門学校以上の高等教育機関としての体制を備えようとする要望を明らかに認めることができる。その後大正八年に新たに大学令が設けられて私立大学を認めることとなったのも、これらの私立諸大学がしだいに専門学校よりも程度の高い学校としての実質を備えるようになってきていたことがもととなっている。

 専門学校令により認可された私立専門学校には、法律・経済等を授けるものとして東京法学院大学・明治大学・法政大学・京都法政専門学校・関西法律学校・専修学校・慶応義塾大学・日本大学・早稲田大学などがあり、そのほか哲学館大学・明治学院・青山学院・日本女子大学・東北学院・同志社専門学校等が文学あるいは宗教に関係ある専門学校として、また天台宗大学・真宗大学・仏教大学・曹洞宗大学林・日蓮宗大学林等が宗教の専門学校として明治三十六年以後相次いで設置を認可されている。これらの私立大学、専門学校が新しい学校令によって統轄され、専門学校制度はその面目を一新したのである。

専門学校の発展

 専門学校令が実施された後、明治四十年代から大正初年にかけてこの規定のもとになお多数の専門学校が設置された。また従来設立を認可されたものであってもその内容を拡充した学校もある。特に医学専門学校はその数が相当に多かったため、明治四十年四月十日に官立医学専門学校規程を公布して、詳細な規定を設けた。すなわち、医学専門学校を医学科・薬学科の二つに分け、修業年限は前者を四年、後者を三年と定め、それぞれの学科目およびその程度を規定している。これによってただちに官立の医学専門学校ばかりでなく、私立の学校に対しても一つの基準を与えることとなった。官立新潟医学専門学校をはじめ、いくつかの公私立医学専門学校・薬学専門学校がこの時期に新しく設立されている。また、特に注目すべきものは日本女子大学校・津田英学塾・東京女子医学専門学校など女子専門学校が設立されるに至ったことである。これは女子中等教育の拡充に伴い、さらに高等教育を受けようとする女生徒が増加したためであって、この傾向は大正八年以後さらに著しくなっている。また明治時代後期には、植民地経営の必要に応ずるものとして、旅順工科学堂・京城専修学校・台湾協会学校・東亜同文書院等の官公立専門学校が設けられた。

 このようにして、三十六年には専門学校三九校、実業専門学校八校計四七校であったのが、四十三年には専門学校六二校と実業専門学校一七校で計七九校となり、在籍者はあわせて約三万三、〇〇〇人(うち女子一、〇〇〇人)に達した。

 さらに大正五年には専門学校は官立専門学校八校、公立五校、私立五四校あわせて六七校、その他実業専門学校が官立一八校、公立二校、私立三校あわせて二三校あり、これらを合計すると総数は九〇校に達し、生徒数は四万二、○○○人(女子一、六〇〇人)にのぼった専門学校を分科別にみると、官立専門学校は外国語学校・美術学校・音楽学校各一校のほかに医学専門学校五校があった。公立・私立専門学校については、各専門学校を見ると医学・薬学関係一一校、法学関係一〇校、文学関係一三校、宗教関係二一校、美術一校、体操一校、家政一校、植民一校合計五九校である。

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