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二 高等中学校から高等学校へ

高等中学校の創設

 明治十九年四月十日中学校令が公布されて、尋常中学校・高等中学校の制度が成立した。それによると、高等中学校は、文部大臣の管理に属し、全国を五区にわかって、各区ごとに一校設置することとした。その経費は国庫から支弁するのを原則とし、場合によっては国庫と、その学校設置区域内にある府県の地方税から支弁することとした。高等中学校の性格については、中学校に関する一般の規程に基づいて、「実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育ヲ為ス所トス」という性質の学校であると見るべきである。これについては、森文相が高等中学校についての説明をした中にもよく示している。高等中学校は単に上級学校に入学する者に対して必要な基礎教育を施すためだけの機関ではない。この学校を卒業してただちに農工商その他の各種の実務について、これを指導する中流以上の人々を教育する機関とすべきであるとしている。この実務教育を施す目的を実現するために法科・医科・工科・文科・理科・農業・商業等の分科を設けることができるようにした。

 中学校令の公布とともに東京大学予備門を第一高等中学校と改めたほか、第三高等中学校(京都)・山口高等中学校が設けられ、翌年第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設けられ、全国に七校を設けることとした。ところが実際に設置された高等中学校は二つの目的をもつ学校とは著しく相違して、帝国大学への基礎教育機関として普通教育を施す性質が強くあらわれて、実務教育は発展しなかった。ただ従来は第一高等中学校が大学予備門の伝統を持っていたのであるが、この制度が実施されてから、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学することとなったのである。このようにして、高等中学校は二年の課程で、全国の尋常中学校卒業生の中から大学へ進学する希望の者を選んで勉学させるものとなっていた。しかし、高等中学校は発足当初、第一、第三の両校を除いて入学する生徒が少なく、中学校の未発達のため予科・予科補充科などを設けて予備教育を施さなければならなかったが、本科生の数よりこれらの予備課程の生徒数のほうが多いという状態もあらわれた。これらの事情もあって発足当初の帝国議会では高等中学廃止論がしばしば唱えられたほどである。しかし、日清戦争前ごろになると、高等中学校は独自の学校としての性格を強く現わしはじめていた。

高等学校令の公布

 高等中学校は中学校制度の一部であったが、実質上は帝国大学への進学者の基礎教育機関であって、同じ中学校令によって規定されている尋常中学校とは性質を著しく異にしていた。事実上全く別個の学校が成立しているのであるから、これを切り離して独立の学校令をもって律することはけっして不自然ではない。ことに明治二十年代における高等専門教育振興の気運は、この学校を高等教育機関として改造し、独立の学校体制を備えさせようとした。井上文相が二十七年六月二十五日「高等学校令」を公布して高等中学校の制度を改めたことは、このような学校制度改革の気運に基づいたものである。

 高等学校令によると、従来の高等中学校を高等学校とし、ここにおいて専門学科を教授するのを原則とし、特に帝国大学に入学する者のために予科を設けることができる制度とした。さらに付属として低度の特別学科を設ける制度も認めたので、高等学校教育は、専門学科の教授と帝国大学予科教育と低度の特別学科による教育との三つを担当する学校として制度上規定されたのである。当時、井上文相が高等教育に関する意見を述べたものによると、彼は英米のカレッジの制度を参照して、高等学校を構成しようと計画したもののようで、単に大学への基礎教育を施すばかりでなく、専門教育を授けることを主要な目標としていたのである。井上文相が実生活の要望を考慮した教育制度改善を計画していたことから見れば、このような高等学校制度を企画しこれを実施することは当然であった。

 高等学校令を実施するために二十七年七月十二日詳細な高等学校規程を設けた。これによると修業年限および入学程度に関しては専門学科を教授する部においては四年、大学予科は三年とし、入学資格はいずれも尋常中学校卒業程度とした。専門学科を教授する部に関しては、まず第三高等学校に法学部・医学部・工学部を設置し、その他の高等学校には医学部および大学予科を設置した。これらの学部では大学と同様に講座の制度を設けたのであって、これに関する規程も公布した。このような諸規程によって高等学校の制度が改められ、普通教育および専門教育を施すカレッジとしての機能が期待される機関となったのである。

大学予科としての高等学校

 井上文相期に高等中学校の制度に関して右のような抜本的改革が行なわれたのであったが、その改革の成果は所期のようには達成されなかった。高等学校の専門学校は発展をみることなく終わった。すなわち、第三高等学校の法学部を明治三十四年四月に廃止し、第一、第二、第三、第四、第五高等学校の各医学部も同年、それぞれ独立した官立医学専門学校とした。また第三高等学校の工学部は同年四月に廃止し、第五高等学校の工学部は、日露戦争後の三十九年三月、熊本高等工業学校となって分離独立した。他方、制度上は従属的な地位にあった大学予科は、この間に大いに発展し、当初専門学部だけで出発した第三高等学校にも、三十年四月から大学予科を設置した。

 この間、三十三年八月四日に高等学校大学予科の学科課程を改正した。この規程で大学予科を三部にわけ、法科大学および文科大学の志望者を第一部に、工科大学・理科大学・農科大学の志望者はこれを第二部に、医科大学の志望者は第三部に入学させて、それぞれに大学の分科に応じた予備教育を施すこととなった。これによって各部別に学科目を定め、その時間配当をくわしく掲げたばかりでなく、高学年においては分科大学における専門学科の種別に従って学科構成上に考慮を加えることとした。

 このように、制度の面でも実態の面でも、日清戦争後数年を経て、高等学校は純然たる帝国大学予備教育機関としての性格を強めたのである。もともと井上文相の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関とし、あとは分科大学を個別に設置し、これを専門教育機関としての高等学校と有機的に結び合わせるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、すでに強固な基盤をもっていた帝国大学を改変することができず、日清戦争後はかえって帝国大学そのものの増設を進めたため、このような結果となったのである。これから高等学校の帰趨(すう)が、その後の学校制度のあり方に一つの大きな問題を残すこととなった。三十六年の専門学校令の制定と、四十四年の高等中学校令の制定は、これに対する二つの対応であった。

高等中学校令の公布

 明治四十四年七月、新たに「高等中学校令」を公布した。それは時の文相小松原英太郎が高等学校制度を学制改革の中心問題としてとりあげ、当時論議されていた修業年限短縮をこれによって解決しようとして企画したのである。それによると、高等中学校は、中学校を修了したものにいっそう深遠な程度の高等普通教育を授けることを目的としたものであって、ここに中学校と同様な高等普通教育の概念を適用したのである。したがって従来の高等学校が専門学科を教授するか、あるいは帝国大学予科教育を施す学校としていたこととは著しい差異があった。すなわち高等中学校から帝国大学への予備教育機関としての性格を取り去ろうとする方針であった。これによって高等学校は中学校と連関して高等普通教育を授ける施設となり、帝国大学から切り離されたばかりでなく、かつて存在していたカレッジ制度に基づく高等教育機関としての性質をも失うものであったとみられる。このように高等普通教育機関と改めたためにその学科も文科・理科にわかち、従来の三部制は廃止されることとなった。修業年限を二年五月ないし二年六月とし、入学資格を中学校卒業者、または検定によりこれと同等以上の学力を有する年齢十六年以上の者とした。この高等中学校における学科課程等に関しては、四十四年七月三十一日高等中学校規程を公布して、これを詳細に示すこととなった。

 この高等中学校令は二年後の四十六年(大正二年)四月一日から施行し、全国に二〇校を設立する予定であったが、大正二年三月、奥田文相の時に高等中学校令の施行期日が改められ、「本令施行ノ期日ハ文部大臣之ヲ定ム」として事実上無期延期となり、実施には至らなかった。しかし、高等中学校令は高等学校制度改革に関する画期的な方策を提出したものであり、明治初年の東京英語学校から発展し、帝国大学と密接な関係を持って運営されるようになった大学予科としての高等学校の機能を消滅させる考えによるものであった。しかし、これが実現されずに終わったため、従前の高等学校制度をなんら改めることができなかったのである。しかし、この高等学校の方策はけっしてそのままに消え去ったのではなく、臨時教育会議においてこの基本原則がすべて承認され、新高等学校制度として実施をみたのである。その意味において、この高等中学校がどのような方針によって計画されたかは、大正八年以後における高等学校の体制と関連させてみなければならない。

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