一 中学校令の公布とその改正

中学校令の公布

 明治十九年四月十日に公布された「中学校令」は、わが国中等教育の基幹をなす中学校の制度を確立させたものである。これは中学校発達史の上において重大な意義をもつばかりでなく、わが国中等教育制度を確立するための第一歩を踏み出したものである。この中学校令は中学校の性質を中学校教則大綱と同様に、「実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育ヲ為ス所」とした。その編制に関してはこれを高等・尋常の二等に分け、そのうち高等中学校は文部大臣の管理に属し全国に五校設置するものであって、その経費は国庫とその区内における府県の地方税とによって支弁することとした。尋常中学校は各府県において便宜これを設置することができるが、地方費の支弁または補助によるものは各府県一か所に限るとし、さらに区町村費でこれを設置することはできないと規定した。

 以上のように、中学校は高等、尋常の二段階編制をとったが、それは中学校教則大綱における初等中学科、高等中学科の編制区分とは異なり、全国的規模での二段階編制であって、さしあたり全国で五校の高等中学校と各府県一校程度の尋常中学校を配置する企画であった。

 これによって一つの帝国大学と五つの高等中学校、ほぼ五〇の尋常中学校を設けるという方針であったので、尋常中学校一〇校の卒業生の中から選ばれた生徒が一つの高等中学校に入学するという接続が考えられていた。同時に二種の中学校の役割機能の差異が社会階層に対応させて考えられていた。二十二年の森文相の地方巡視の際の演説の中で用いられた有名なことばによれば、高等中学校は「社会上流ノ仲間ニ入ルベキモノ」、「社会多数ノ思想ヲ左右スルニ足ルベキモノ」を養成する所であり、尋常中学校は「社会ノ上流ニ至ラズトモ下流ニ立ツモノ」ではなく、すなわち中流の社会にはいるべき「最実用ヲ為スノ人」を養成する学校であるとして考えられていた。

 尋常中学校の設置に関した前掲の演説の中で森文相は次のような見解を表明している。「尋常中学校を卒業し、尚進んで高等中学校若しくは他の専門学校に就くものあるべけれども、尋常中学校は要するに之を卒業して直ちに実業に就く者を養成するを以て目的とす。然れば此種の学校は租税を以て強で之が経費を支弁するを要せざるが如しと雖、我国今日の有様に於ては未だ然らず、地方税の支弁又は補助に係る尋常中学校一個を設置し、且責任権力ある校長等を置き官の手に之を管理するの要あり。」尋常中学校は本来私人がこれを設置すべきものであるが、わが国においてはその条件が整っていないので、当面公費による模範的中学校を各府県一校あて設置し、地方官によって管理育成する必要があるとする考えであった。

 中学校令に基づいて制定した「尋常中学校ノ学科及其程度」によれば、尋常中学校の修業年限は五年とし、入学資格は年齢十二歳以上の中学予備の小学校またはその他の学校の卒業者とした。尋常中学校を五級に分け、毎級の授業期限を一年とした。尋常中学校の学科は倫理以下普通学科目一五科目とし、そのうち、第二外国語と農業とを選択として進学と就職との進路に対応させた。なお、「土地ノ情況」によっては文部大臣の認可を経て商業工業の科を置くことができるとした。これらの課程は、尋常中学校において実業教育を実施する方策と解すべきではなく中学程度の実業教育機関が整備されていなかったことによる配慮であった。

 中学校令の公布は国家に有用な人材を育成する選ばれたものの中等教育機関を設置することを目的とするものであった。尋常中学校は高等中学校との関係でその性格が規定され、中流社会の男子の教育機関として比較的少数者を対象上する学校となった。

 二十四年十二月十四日中学校令を改正し、尋常中学校の設置に関して、各府県において「一校ヲ設置スヘキモノトス」として一府県一校設置を原則としたが、土地の状況によっては数校を設置することを認め、また一校も設置しなくともよいとした。郡市町村においては、区域内の小学校教育の施設上妨げとならない場合は尋常中学校を設置することができるとした。これは尋常中学校の設置を制限する方針を緩和する措置であった。またこの改正に当たっても尋常中学校に農業・工業・商業等の専修科を設けることができるとした。

中学校と実科教育

 井上文相の実業教育の振興策と関連して尋常中学校の制度にも大きな変化がもたらされた。明治二十七年三月一日「尋常中学校ノ学科及其程度」を改正し、尋常中学校の学科課程の改正を図るとともに新たに「実科」の課程を設けることができるとした。すなわち「実業ニ就カント欲スルモノニ適切ナル教育ヲ施ス為ニ第四年級以上ニ於テ本科ノ外、分チテ実科ヲ設クルコトヲ得」という条文を掲げた。省令説明によると、実科の課程を分化させることは、「中等教育ニシテ専ラ高等教育ノ予備タルノ一方ニ偏傾スルノ弊ヲ救フナリ」と述べ、中等教育が予備教育的性格へ傾斜するのを矯(きょう)正しようとした。

 二十七年六月十五日には尋常中学校実科規程が制定された。この規程においては、第四学年以上だけでなく地方の情況によっては第一学年から専ら実科の学科を授ける尋常中学校、すなわち実科中学校を設置できるとした。

 このように実科設置の趣旨を拡張したのは「地方ノ情況ニ依り諸種ノ就学生徒ニ便益ヲ与へ中学校教育ノ普及ヲ図ルノ主意」によるものであるとした。この時期に尋常中学校の性格の再検討、尋常中学校の実科課程の設置、尋常中学校の普及などの意図が関連して取り上げられている。実科は中学校専修科と区別されたものであり、尋常中学校を普及するに際して中学校のもっている二重の目的の実現を図るために、従来高等教育と関連づけられた中学校の性格を、より実生活に近接させようとする方策であった。これは当時の中学校の性質に関する問題の核心に触れた施策であったが、わずか数校の実科中学校が設けられたに過ぎなかった。

中学校令の改正

 明治十九年に公布された中学校令は、中学校を卒業した者がただちに大学に入学することができる方針であった。その後二十七年六月二十五日に高等学校令が公布されて、従来中学校の上段階を占めていた高等中学校が分離することになったのである。ここにおいて中学校を卒業した生徒のために高等学校が設置され、小学校から大学に至る学校組織は四段階の構成となった。この方針によって制度の改革を行なったことは高等学校の性格を明らかにしただけでなく、尋常中学校の性格をも明確にすることとなった。すなわち中学校は尋常中学校だけとなり、尋常中学校は普通教育を施す学校の最終段階となった。このことは同時に普通教育の水準を向上させる課題をになうこととなった。

 三十二年二月七日に中学校令が新たに定められ、これによって尋常中学校の名称は中学校と改められた。新しい中学校令では、中学校の目的を「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と規定し、従来の目的規定が改められた。この場合においても、中学校卒業後実生活にはいる者のことも考慮していたのであるが、中学校の目的を男子の高等普通教育の概念で概括したところにこの中学校令の重要な性格があった。当時中学校を普通教育の方針によって統一したその背後には、実業学校が中等教育機関としてしだいに充実してきたという事実が存するのである。そのために実業学校については独立の実業学校令を公布する情勢となっていたので、中学校は実業学校と根本的に性格を異にするものであるとの方針をこれによって確定したのである。このように中学校教育の性格を確定するに当たって実科中学校の不振の実績も考慮に入れたとみられるが、他方では高等普通教育を目的としたことは、その後、実科的な方策を中学校に取り入れることを困難にしたと考えられる。

 中学校の修業年限は尋常中学校と同様に五年とし、一年以内の補習科を置くことができることとした。入学資格は年齢十二歳以上で高等小学校第二学年の課程を修了した者とした。この修業年限はこの後中等教育の基本的な教育年数として承認され、他の中等学校もしだいにこれによることとなった。

 中学校の設置に関しては、府県に対して「一箇以上ノ中学校ヲ設置スヘシ」として中学校設置を義務づけ、さらに文部大臣が必要と認める場合「府県ニ中学校ノ増設ヲ命スルコトヲ得」として、中学校設置に対する積極的姿勢を明らかにした。郡市町村や、町村学校組合にも従来より容易に中学校設置を認めることとした。中学校の分校の設置をも認めたが文部大臣の認可を必要とし、「一校ニ付一分校ニ限ル」とした。これらの方策により中学校増設の機会を多くしたことはしだいに上級学校進学の気運が高まるとともに、中学校の急速な発達を促した。

中学校令施行規則の制定

 新しい中学校令に基づいて、明治三十二年二月中学校編制及設備規則、同三月中学校及高等女学校設置廃止規則、同四月師範学校中学校及高等女学校建築準則、同六月中「学校生徒入学退学及表簿ニ関スル規則」、同十一月「中学校教員に関する件」、三十三年九月「教員免許令第二条但書ニ依リ教員免許状ヲ有セサル者ヲ以テ教員ニ充ツルコトヲ得ルノ件」などの関係諸規則の制定が進められた。その後三十四年三月五日中学校令施行規則」を制定して教員資格に関する規則を除いて、これらの中学校関係諸規則を総括整備した。中学校令施行規則は、「学科及其ノ程度」、「学年教授日数及式日」、「編制」、「設備」、「設置及廃止」、「入学、在学、退学及懲戒」等の各章から構成され、三十五年二月に公布した中学校教授要目とともに中学校の教育課程に関する方針を確定し、以後中学校の教育はこれらの規程を基本として運営された。

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