五 国定教科書制度の成立

教科書の検定制度

  小学校の教科書は明治十九年の小学校令の施行とともに検定制度が実施され、その後は文部省の検定を経た教科書の中から選定して使用することとなった。小学 校の教科書については、すでに十年代から統制が強化され制度化が進められており、十六年からは認可制度となっていた。すなわち文部省に伺い出て認可を受け なければ使用できないこととなっていたのである。また文部省では早くから検定制度の実施を意図して検討していたようである。このような状況を背景として、 十九年の森文相による学制改革に際して検定制度が実現されたのである。

  検定制度の実施については、十九年四月に公布された小学校令中に「小学校ノ教科書ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ルヘシ」(第一三条)と規定しており、同 年五月「教科用図書検定条例」が定められた。二十年五月にはこれを改正して「教科用図書検定規則」が定められ、その後はこれに基づいて検定制度が運営され た。教科書の検定制度は小学校のみでなく師範学校・中学校等の教科書についても実施されたが、小学校教科書については特に詳細な規定が設けられ厳格に行な われた。

  教科書の採択方法については、二十年三月「公私立小学校教科用図書採定方法」を定め、地方長官が審査委員を任命して採択を決定することとしている。審査委 員の構成はその後しばしば変更されているが、地方の教育関係の首脳に位置する人々が参与した。しかし府県一律採択のこの制度が審査委員と教科書会社との間 に贈収賄事件を引き起こし、いわゆる教科書疑獄事件が発生して、検定制度そのものを崩壊させる原因となった。

  検定教科書の内容は、小学校令およびこれに基づく学科課程に関する法令によって統一され、時期を画して展開している。すなわち第一期は十九年の小学校令お よび「小学校ノ学科及其程度」以後、第二期は二十三年の小学校令および小学校教則大綱以後、第三期は三十三年の改定小学校令および小学校令施行規則以後の 時期である。また二十三年の教育勅語は修身教科書をはじめ教科書の内容に大きな影響を与えた。

  検定教科書を形態の上から見ると、学年段階に応じて編集された教科書が一般化している。すなわち検定制度は古い型の教科書を一掃して近代教科書を普及させ る役割を果たした。検定教科書の形態および内容に著しい影響を及ぼしたものは二十四年十二月の「小学校修身教科用図書検定標準」であった。これは修身書を ほかの教科書よりも厳格な基準によって検定する趣旨のもとに定められたものであったが、その内容は教科書一般に共通する点が多く、他の教科書の編集の上に も大きな影響を与えた。すなわち児童用と教師用を区分して編集すること、学年段階に応じて程度を高めることなどはすべての教科書に通ずるものであった。

教科書問題

  小学校教科用図書については、検定制度の実施とともにその後検定された教科書の内容についての批判がなされ、またその採択に関しても問題のあることが指摘 されるようになった。このようなことが明治二十七年ごろから世人の注目をひき、小学校教科書はこれを漸次国定にすべきであるとの主張がなされるようになっ た。二十九年二月第九回帝国議会で、貴族院から小学校修身教科書編纂に関する建議が提出されたのは、このような民間の教科書に関する見解を反映されたもの であろう。その建議書には、「小学校用修身科ノ教育タルヤ国家二至大ノ関係ヲ有スルモノアルニ依リりソノ教育ヲ施スニ必要ナル教科用図書ハ国費ヲ以テ完全 ナルモノヲ編纂シソノ教育二欠点ナキヲ期セサル可カラス。」と述べ、当時最も重要視されていた修身教科書から始めてしだいにその他の教科書にも国定制度を 実施するよう要望した。三十年にも、第十回帝国議会で貴族院から同様な小学校教科書に関する建議が提出された。その時には小学読本および小学修身書の両者 を国定にすべきことが建議され、同時に当時の検定教科書が内容上不備であるほか、紙質が粗悪、かつ高価であることが批判の対象となり、政府は国費をもって 完全な教科書を安価に供給し、児童が容易に教科書を購入できるようにすることが要望されている。衆議院においてもさらに三十二年修身教科書の国定を建議し ているが、三十四年第一五回帝国議会では「小学教育ノ国家二至大ノ関係ヲ有スルヤ敢テ論スルヲ待タス故ニ現行小学校用図書審査会ノ制ヲ廃止シ小学校用教科 書ハ国費ヲ以テ編纂セラレンコトヲ望ム。」と建議し、すべての教科書の国定を要望した。このようにして教科書国定の世論はしだいに高まり、文部省において も三十三年四月修身教科書調査委員会を設置し、加藤弘之を委員長として委員および起草委員の任命を見て、その編集が進められることとなった。このような状 態のもとに教科書事件が起こり、これを契機として急速に国定制度が進められるようになっためである。

  検定制度においては、文部省検定済の多数の教科書の中からさらに府県の審査委員会の審査に基づいてその府県の小学校で使用する教科書を採択する組織であっ た。民間の出版社にとって自社発行の教科書が審査委員会において採択されるか否かは重大な問題であった。そこで決定権を持つ審査委員を動かし、自社発行の 教科書を採用させようとする運動がしだいに激しく行なわれるようになった。これがしだいに表面化して一般の注目をひくようになったのであるが、三十五年遂 に教科書採択をめぐっての贈収賄が摘発されることとなった。嫌(けん)疑をうけて召喚されるもの約二〇〇人に及び官吏収賄罪、小学校令施行規則違反その他 で一〇〇人以上のものが処罰され、その範囲も三十数府県に及んだ。これがいわゆる教科書事件であって、この結果、検定制度に対する批判の声が高まったばか りでなく、法令上も多くの教科書は使用ができなくなり、従前のまま検定制度を持続することは困難な状態となった。そこで国定教科書制度の実施へと急速に進 まざるを得なかったのである。

小学校国定教科書の成立

  文部大臣菊池大麓はここにおいて教科書の国定を断行する決意をなし、閣議および枢密院の諮詢(じゅん)を経て、明治三十六年四月小学校令の改正を行ない、 「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」と規定し、小学校教科書の国定制度を確立した。当時の事情は菊池文相が三十六年六月に幸 倶楽部で行なった演説によってこれを明らかにすることができる。

  御承知ノ如ク昨年ノ冬二至リテ審査会二関スル収賄ノ証拠ノ手掛リガツキ家宅捜索トナリ終二ハ十分ナル証拠ガ挙ツテ御承知ノ如ク多数ノ者ガ検挙ニナルトイフ 次第二ナツタ。之ハ甚ダ不祥ナ事デアルケレドモ多年ノ積弊ヲ一掃スルニ於テハ誠二好時機デアルト認メ、又予テ私ノ是非実行シナケレバナラヌト思ツテ居タ国 定ノ儀ハ此際一日モ猶予スベカラザルモノダト考へ教科書国定ノ議ヲ直二閣議二提出シテ同意ヲ得夕。

 このようにして普通ならば出版社の反対も強く、一般に与える不便もあり、急速には実行することのできない国定制度への移行がこの教科書事件を機会に一挙にして実行されたのである。

  小学校令において修身・日本歴史・地理の教科書および国語読本は必ず国定教科書を用いることが定められたが、さらに同施行規則において、書き方手本・算 術・図画の教科書も国定とすることを定めた。すでに編集が進められていた修身教科書を始めとして、国語・地理・国史の教科書の編集も行ない、三十七年に国 語読本・書き方手本・修身・日本歴史・地理の国定教科書が使用され始めた。三十八年には算術・図画の教科書が使用され、四十三年には理科教科書も国定教科 書に追加された。これによって小学校教科書の内容はすべて文部省がこれを統一して全国一様なものとした。また教科書の定価も従来より低く定められたので、 父兄の負担を軽減することとなった。印刷出版は民間にゆだねることとし、小学校教科用図書翻刻発行規則を制定した。文部省は教科書の見本を作り、文字の大 小・図画・冊数・ページ数・行数および毎行の字数等すべて見本によらせ、用紙印刷についても厳格な標準を示し、定価の最高額を定めた。民間で国定教科書の 翻刻許可を得たものは、三十七年には一九人であった。四十二年の新しい規定によると、翻刻発行は日本書籍株式会社ほか二社、その販売は国定教科書共同販売 所とすることになった。

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