一 小学校令の制定

最初の小学校令

 明治十八年に文部大臣となった森有礼は、就任後、ただちに教育制度全般の改革に着手したのであるが、特に諸学校の基礎となるものとして小学校制度の改善に意を用いた。十九年四月十日公布された小学校令は、森文相の計画した教育制度全般に対してその基礎を築いたものというべきである。それは森文相の独自な小学校制度に関する見解によって立案・整備され、簡潔な様式をもって制定された。すなわちこの小学校令はわずかに十六条から成り、各条項は小学校の設置・運営に関する基本事項を定めたものであった。小学校令に引き続き、まもなく同年五月二十五日に「小学校ノ学科及其程度」を公布して、小学校の編制・修業年限・学科・児童数・教員数・授業日数および各学科の要旨を掲げて小学校教育の内容に関する基準を示した。「小学校令」および「小学校ノ学科及其程度」によって当時小学校制度の改革がどのような方法によって進められたかを知ることができる。

 小学校令によると、小学校を尋常・高等の二段階とし、修業年限は各四か年とした。就学義務の学齢は六歳から十四歳に至る八か年で、父母・後見人は尋常小学校四か年を修了するまでは児童を就学させる義務があるとした。小学校の一学級生徒数についても規程を設け、尋常小学校は八〇人以下、高等小学校は六〇人以下とした。小学校の経費は主として生徒の授業料と寄付金によることとし、もし不足のときは区町村会の議決によって区町村費から補足することができると定めた。また簡易な初等教育を施す制度として小学簡易科の設置を認め、これをもって尋常小学校に代用できるものとした。これは十八年改正の教育令における小学教場に相当するもので、当時の地方財政の窮乏に対処したものである。そして小学簡易科の経費は区町村費をもって支弁し、授業料を徴収しないこととした。

 この小学校令は全国の小学校教育を厳格に統轄することとなり、その後の小学校の基本構成を確立したものであって、教育令時代とは確然と区別される差異を示すに至った。ただ小学校の経費を授業料によることを原則としたために授業料の徴収額が増加し、このために二十年には就学率の低下を招来した。この現象はしだいに回復したが、そのため小学校教育費の国庫補助制度が論議され、帝国議会に請願書が提出され、二十九年になってようやく教員の年功加俸(ほう)についての国庫補助が成立をみるようになったのである。

義務教育方針の確立

 学制から教育令時代の規程では、まだ厳格に義務教育を実施する制度が確立されてはいなかった。もちろん小学校初等科三か年は児童が必ず就学しなければならない最低年限であったけれども、これが義務教育年限と確定していたわけではない。これに対して明治十九年の小学校令においては、義務教育に関する条文を明確に掲げたのであって、その第三条に「児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス」と規定した。ここにはじめて「義務」の語を掲げたばかりでなく、第四条には、学齢児童が尋常小学校を卒業するまでは就学させるべきであると父母・後見人に要求し、尋常小学科四年をもって義務教育の年限と確定したのである。しかもこの制度を厳格に実施しようと意図したことは、第五条に就学猶予の規定を掲げたことによっても知ることができる。すなわち疾病・家計困窮・その他やむをえない事故のため児童を就学させることができないと認定された場合には、府知事・県令がその期限を定めて就学猶予を許可することができるとしたのである。それ以外の場合には父母・後見人等に就学義務を督促することができることとなった。その意味において初等教育義務制の基礎を置いたものと見ることができるのである。

 わが国小学校教育の厳格な義務制は、制度上この時をもって発足したということができるのであって、それ以前とは全く異なった文教方策がここに示されたのである。もちろん明治五年の学制発布の際から、小学校に子弟を就学させることは父兄の必ず心がけなければならないこととされていたが、これを厳格に義務として課する規定を欠いていたのである。しかし小学校令公布以後においては、この点に関してきわめて厳格な方針をとったので、小学校への就学率はしだいに高められることとなった。明治三十年代の後半にはいってから、男女とも九〇%以上の就学率を示すことができたのも、十九年の小学校令が厳格な義務教育方針を確立したことによるものとみなければならない。この点についても小学校令公布による初等教育制度の改革が、画期的なものであったことを知ることができる。日本の近代学校はここでその基本的な形を整え、制度的な礎石が置かれたのである。

明治二十三年の小学校令

 小学校令はその後明治二十三年十月七日に改めて公布され、十九年の小学校令は廃止された。これは主として前年四月から実施されるようになった市制・町村制およびこの年公布された府県制・郡制により、地方自治制度が確立されたことに伴って、諸条項を定めたものである。この小学校令は、十九年の小学校令と異なって小学校の制度について詳細に規定し、全文九十六条からなり、第一章「小学校ノ本旨及種類」、第二章「小学校ノ編制」、第三章「就学」、第四章「小学校ノ設置」、第五章「小学校二関スル府県郡市町村ノ負担及授業料」、第六章「小学校長及教員」、第七章「管理及監督」、第八章「附則」の八章から構成されている。制度上の変化として注目すべき点は、小学簡易科を廃止し、小学校を尋常小学校・高等小学校の二種とし、義務教育である尋常小学校は修業年限を三年または四年とし、高等小学校は二年、三年または四年としたことである。さらに小学校に専修科・補習科を付設することができるとし、徒弟学校・実業補習学校を小学校の種類とした。このうち専修科は高等小学校に併置されるもので、農科・工科・商科のうち一科もしくは数科を置いて実業的教養を与える課程である。これは徒弟学校・実業補習学校とともに、産業の発展に伴って以後重要な意義をもつこととなったものである。小学校を設置する原則としては、各市町村は学齢児童を就学させるに足る尋常小学校を設置するものと規定した。郡長が一町村の資力だけでは尋常小学校設置の負担に堪えることができないと認定した場合には、他の町村と学校組合を設けさせ、この組合において設置すべき尋常小学校の校数と位置を定めさせることとした。このために学校組合の運営等に関する規程を「地方学事通則」をもって定めたのである。また市町村に私立小学校がある場合には、これをもって代用させることができるものと定めた。

 この小学校令において、特に注目すべきことの一つは、その第一条に小学校の目的が明示されるようになったことである。すなわち「小学校ハ児童身体ノ発達二留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活二必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と定めた。それまでは小学校は普通の教育を児童に授ける所であるという程度の規定が設けられていたに過ぎなかったが、この時から目的規定を明示するようになったのである。それはドイツにおける学校規定にならったとはいえ、小学校の制度を完成する時においてはじめてこのような規定を統一的な法規の中に掲げたものといわなければならない。この目的規定は道徳教育・国民教育・知識技能の教育の三つから成り立っている。この第一条の目的規定は、その後、小学校令が改正された際にも改めることなく、昭和十六年の国民学校令の制定に至るまで存続している。したがって、この時から約五十年間にわたってわが国の小学校の基本的性格を示す目的規定として掲げていたのである。

 この新しい小学校令は、その実施に当たって多くの細則を必要とし、明治二十四年中に多数の関係法規が制定されている。それらのうち主要なものは「私立小学校代用規則」、「小学校設備準則」、「小学校祝日大祭日儀式規程」、「補習科ノ教科目及修業年限」、「専修科徒弟学校及実業補習学校ノ教科目及修業年限」、「随意科目等二関スル規則」、「小学校教則大綱」、「学級編制等二関スル規則」、「小学校ノ毎週教授時間ノ制限」、「小学校教員検定等二関スル規則」、「市町村立小学校長及教員名称及待遇」等であってこれらの関係諸規則をまって、近代初等教育機関の体制を確立することができたのである。十九年の小学校令から四年を経たこの小学校令に至って近代学校としての小学校制度が完成したと見ることができる。

 右のように、新しい小学校令に基づいて小学校の制度が整備されたが、小学校教育に関するこれらの諸規程の公布が一段落を告げた時に当たって、すなわち、二十四年十一月十七日文部大臣は普通教育の整備・充実に関する訓令を発した。その中で普通教育の重要性を説いた部分は、当時の国家的教育方策の意図をよく示しているとともに、海外諸文明国との関係において国家の近代的発展方策がいかに緊急であったかが知られ、そのために学校教育の整備が進められつつあったことが推察される。ここにおいて小学校体制を確立する諸方策が実施され、急速な国家の進展に伴い、国家永遠の基礎を固める意図をもって普通教育が完成され、尊皇愛国の志気を発揚し、実業を励み素行を修め忠良の臣民とすることに小学校教育の目的が置かれたのである。これは当時における小学校教育の方向を決定した重要な教育方策であったが、これらによって学校の外面的な形を整えたばかりでなく、教育の内容に関して積極的な方策がとられ、教育の国家統轄をしだいに完成したのである。

 明治十九年小学校令に始まり、二十三年の小学校令を経て実施された小学校教育の国家的統一方策は、国家主義的政策をもって国力の充実を図っていた当時のわが国の状態にまさしく対応するものであった。この国家的統一方策に基づく教育の実施は、単に初等教育においてばかりでなく、中等教育・師範教育・高等教育の諸分野においても見られた。しかしそれは教育の基礎となる普通教育の分野、特に初等教育において積極的になされたのである。この時期において国家興隆を目ざす教育政策を特に基礎教育の分野で強力に展開したことは注目しなければならない。

小学校設備準則の制定

 小学校の制度は明治二十三年の小学校令に基づいて整備されたが、学科課程や教科書等の整備と並んで、小学校の施設・設備等についても包括的な規程が設けられ、その標準化を図っていることが注目される。すなわち小学校令に基づいて、二十四年四月にはじめて「小学校設備準則」を定めているのである。

 二十三年の小学校令には、第十九条に、「校舎校地校具体操場農業練習場ノ設備二関スル規則ハ文部大臣定ムル所ノ準則二基キ府県知事二於テ土地ノ情況ヲ量リ之ヲ定ムヘシ」とあり、これに基づいて「小学校設備準則」が定められたのである。これによれば、まず校地については、「校地ハ日当リ好ク且成ルヘク開豁乾爽ナルヲ要ス校地ハ喧閙ニシテ授業二妨アル場所、危険ナル場所、道徳上嫌忌スヘキ場所、停滞セル池水其他凡テ悪臭アリ若クハ衛生上二害アル蒸発気ヲ生スル場所二接近スヘカラス」と定めている。次に校舎については、まず「天皇陛下及皇后陛下ノ御影並教育二関スル勅語ノ謄本ヲ奉置スヘキ場所ヲ一定シ置クヲ要ス」と定め、「校舎ハ成ルヘク平屋造ナルヲ要ス若シ二階造ナルトキハ成ルヘク幼年生ノ教室ヲ階下ニ置クヲ要ス」と定めている。また校舎にはなるべく講堂、物置を備えるほか、裁縫・手工の特別教室、図書・標本等を置く特別の場所を備えるべきであるとしている。さらに体操揚はなるべく校舎の傍に設け、農業練習場も校舎から遠くない所に設ける必要があるとしている。

 校具については、まず校具を甲乙の二種に区分している。そして甲種の校具は「専ラ教授ノ用二充ツル器具」とし、尋常小学校では「假名ノ掛図、教員用教科書、学校所在府県ノ地図、日本地図、地球儀、定木、両脚規、指数器、算盤、度量衡、黒板、黒板拭、白墨、水入、庶物指教用具」を備えるを常例と定めている。高等小学校については、右のうち假名の掛図、指数器、庶物指教用具を除いて、右のほかに「万国地図、博物標本、理化器械、図画ノ手本、図画用具、裁縫用具、楽器、体操器械」をあげている。次に乙種の校具は、「国旗、門札、生徒用及教員用ノ机及腰掛(腰掛ヲ用フル学校二限ル)、時計、諸帳簿、硯箱並附属品、紙、書籍棚、戸棚、日用品其他学校二備付クルヲ必要トスル物件二シテ甲種ノ校具二属セサルモノトス」と定めている。

 二十四年十一月、小学校設備準則の改正を行ない、わずか四か条の簡略な規則となった。これは当時の地方財政の実情を考慮したためであり、画一的な設備のために教育費が増大し、かえって教育の振興上障碍があると判断したことによるものであった。そしてむしろ就学者の増加、教員の待遇改善等を優先させるべきであると、文部省は改正の趣旨を説明している。

 ところが三十二年七月、再び小学校設備準則の改正があり、体操場、校舎、教室、廊下、便所、生徒用机、腰掛等について厳格な標準を定めた。まず、体操場については、「体操場ハ方形若クハ之二類スル形状」とし、その面積の基準を定めている。すなわち尋常小学校については、「生徒百名未満ハ百坪以上トシ生徒百名以上ハ一名ニ付一坪以上ノ割合」と定め、また高等小学校については、「生徒百名未満ハ百五十坪以上トシ生徒百名以上ハ一名二付一坪半以上ノ割合」とし、ただし特別の事情があるときは「生徒一名ニ付一坪」までに減ずることができると定めている。次に教室については教室の構造について基準を示し、「多級学校ノ教室ハ幅三間以上四間以下長四間以上五間以下単級学校ノ教室ハ幅及長各四間以上五間以下ヲ常例トシ其大ハ生徒一人ニ付三尺平方ノ割合ヨリ小ナルへカラス」と定め、そのほか、天井の高さ、床の高さ、窓の面積および位置などについて定めている。右のほか、廊下・便所の基準を定め、また教科書・教具など必ず備えるべきものを示している。さらに生徒用の机および腰掛については、身長の区分に応じて高さ・幅・長さの基準を定めている。その後まもなく三十三年八月小学校令施行規則が定められ、右の設備準則の内容はその中に吸収された。

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