七 学科課程と教科書の制度

諸学校の学科課程の整備

 明治十九年の各学校令により、諸学校は学校種別に制度化されたが、文部省はそれぞれの学校令に基づいて省令をもって学科課程の基準を定めた。すなわち小学校については十九年五月に「小学校ノ学科及其程度」を定め、中学校・師範学校等についても同様に「尋常中学校ノ学科及其程度」・「高等中学校ノ学科及其程度」・「尋常師範学校ノ学科及其程度」・「高等師範学校ノ学科及其程度」を定めた。これらの「学科及其程度」には、学科の編制、修業年限等とともに学科課程の基準について定めている。

 その後小学校については、二十三年の小学校令に基づき、二十四年十一月「小学校教則大綱」を定め、各教科目の教授内容の基準を詳細に示している。同時に各教科目の毎週教授時間配当一例を別に示した。尋常中学校については、その後「学科及其程度」の改正を行なったが、二十八年高等女学校規程を制定し、これによって高等女学校の学科課程の基準をはじめて定めた。尋常師範学校についても、二十五年「学科及其程度」の改正を行ない、同時に尋常師範学校簡易科規程を制定し、教育課程の基準を示した。三十年代には学校制度が整備され、これに伴って学科課程についても制度上いっそう整備されることとなった。すなわち教育内容の国家統轄が進められた。小学校について見ると、三十三年に小学校令を改定し、これに基づいて「小学校令施行規則」を定めた。これは従前の小学校教則大綱、小学校設備準則などを総括し、小学校令の施行に関する細則を省令をもって統一的に規定したものである。そして学科課程の基準はこの施行規則の中に含まれることとなった。その後中学校令や高等女学校令についても施行規則を定めたが、勅令による学校令をうけて省令による「施行規則」を定める形式はこの時に始まっている。なお小学校については三十六年に国定教科書制度が確立され、その後は教育内容の細部まで国家統轄が及ぶこととなった。

 中学校および高等女学校については、三十四年に「中学校令施行規則」および「高等女学校令施行規則」を定め、その中で学科課程の基準を示した。さらに三十五年に「中学校教授要目」、翌三十六年に「高等女学校教授要目」を定め、各学科目の教授内容を詳細に示した。師範学校については、四十年の「師範学校規程」により学科課程の基準を示したが、さらに四十三年「師範学校教授要目」を定め、各学科目の教授内容を詳細に示した。このように明治後期には施行規則のほか、さらに教授要目をも定めて、これらの学校の教育内容が国家的見地から統一化されるに至っているのである。

教科書検定制度の実施

 小学校の教科書については、文部省は学制実施の当初から深い関心をもち、教科書を通じて全国に近代教育を普及させるため、その指導に努めた。明治十年代には文教政策の変化とともに、小学校教科書の取り締まりを厳重にし、十四年に開申制度、十六年には認可制度を設けたことは第一章で述べたとおりである。しかしこの認可制度は府県において教科書の採択を決定してから、文部省の認可を受けて実際に使用するまでに相当の期間を要し、はなはだ不便な制度であるとして、むしろ検定制度を要望する声もあった。一方文部省でも早くから検定制度を実施する意図をもっていた。そこで教育の国家統轄が強化されるようになった森文相の時代から教科書の検定制度が実施されるに至ったのである。検定制度は小学校のみでなく師範学校・中学校の教科書についても実施したが、特に小学校の教科書については厳格に行なった。

 教科書検定制度の実施については、小学校令および中学校令中に、これらの学校の教科書は文部大臣の検定したものに限ると定めており、また師範学校令では文部大臣の定めるところによると規定している。これに基づいて、十九年五月に「教科用図書検定条例」を定め、翌二十年五月にはこれを廃止して、新たに「教科用図書検定規則」を定めた。その後はこれに基づいて検定制渡を実施・運営したのである。

 教科書の検定制度は小学校のほか師範学校および中学校にも実施されたが、小学校については府県ごとに採択することとし、その採択方法について規定し、審査委員の組織などについても定めている。また教育勅語発布後は小学校修身教科書について特に厳格な基準を設けて検定を行なっている。検定制度の実施により、教科書の体裁および内容は明治前期に比べて著しく統一化された。また一方では教科書会社が東京に集中し、教科書の販売競争がしだいに激化した。そして遂に教科書の採択をめぐる贈収賄の大規模な摘発検挙が行なわれ、いわゆる教科書疑獄事件が発生したのである。これが直接の契機となって、三十六年に小学校教科書の国定制度が確立された。このようにして小学校の主要な教科書は国定教科書となったが、検定制度は存続し、師範学校・中学校・高等女学校の教科書および小学校の一部の教科書には引き続き検定制度が実施された。

小学校国定教科書の成立

 小学校教科書の国定制度を成立させる直接の契機となったのは教科書疑獄事件であったが、この時代の情勢を背景として国定教科書への要望が高まっていたことも重要な要因であった。教育勅語の発布によって国民思想の統一、義務教育の国家統轄が急速に゛進められ、ことに日清戦争後は国家主義思想が興隆していた。そこで小学校教科書、中でも修身教科書は政府が直接編集すべきであるという意見が強く唱えられていた。明治二十九年の第九議会において、修身教科書を国家で編集すべきであるとする建議が貴族院から提出され、次いで翌三十年には修身教科書と国語読本の国定が要望された。衆議院でも三十三年に修身教科書、翌三十四年にすべての小学校教科書の国定についての建議がなされた。このため文部省でも三十三年修身教科書調査委員会を設け、国定修身書編集の準備に着手していた。このような状況の中で教科書疑獄事件が発生したのである。

 教科書疑獄事件の結果、当時の主要な小学校教科書は法令上の罰則の適用によって使用できなくなり、検定制度を持続することはその点からも困難となった。そこで政府はかねてから懸案となっていた小学校教科書の国定制度を一挙に実施したのである。三十六年四月に小学校令を改正して国定制度が確立され、翌三十七年四月から国定教科書が使用された。国定制度では、教科書の著作は文部省が行ない、翻刻発行と供給は民間にゆだねることとした。そこで翻刻発行規則を定め、用紙の標準や定価の最高額などについても定めている。国定教科書は四十年義務教育年限の延長に伴って修正編集され、その後も時代の動きや教育思想の変化を反映して幾度か修正編集されている。国定教科書の成立によって、教育内容を細部にわたって国家で統轄することがきわめて容易となった。

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