六 学校制度の整備

中等教育制度の整備

 小学校の充実整備とその制度改革については義務教育制度の確立との関連を中心としてすでに述べた。そこで明らかにされたように、明治二十年代後半以後、小学校がしだいに充実するとともに、就学者が急速に増加した。そのため卒業者もしだいに増加し、さらに上級の学校へと進学する気運も高まった。そこで二十世紀の初期は中等教育が整備され発達する段階となっている。

 明治三十二年に十九年の中学校令を改めて新たに中学校令を制定し、従前の尋常中学校を中学校と改称した。これとともに実業学校令および高等女学校令をはじめて制定した。これによって中等教育段階は、1)男子の高等普通教育(中学校)、2)女子の高等普通教育(高等女学校)、3)実業教育(実業学校)の三系統として編制されることとなったのである。

 中学校令は、高等中学校が二十七年に高等学校として独立の学校令をもつこととなったため、新しく定められたものであり、その後中学校は高等普通教育の基礎となる部分を担当することとなった。それとともに従前は独立の学校令をもっていなかった実業学校が、中学校とは別に学校令をもつこととなり、これによって中等程度の実務教育は中学校から除かれ、中学校は男子の高等普通教育を施す学校としてその性格を単純化した。

 わが国の女子中等教育は男子よりも遅れて制度化されたために、独立の学校令によって整備されるのも三十二年となったのである。この年に従前の高等女学校規程が廃止されて、高等女学校令によって独自な体制をもったものとして構成された。男子の中学校と同様に高等普通教育を行なう機関であるが、別に女子のための中等学校がなかったために、高等女学校は中等教育を受けようとする女子のあらゆる要望を一つの学校体制をもってみたさなければならなかった。四十三年に実科の制度を設けたことも、高等女学校が男子の中学校と著しく異なる性格をもっていたことを示すものである。学校制度として同じ高等普通教育を目標としているものが、一つにならなかったのは、男女を別の学校で教育すべきであるという思想にもよるが、学校の性格を中学校とは異なったものとして取り扱ったことによるものである。

 実業学校令は三十二年に公布されたが、これも全く新しい学校令であって、中等教育の第三の分野を整備する方策としてつくられたものである。一般に実業教育は高等普通教育よりも低位にあると考えられてきた伝統によって、これを中学校・高等女学校とは異なる学校体制として別個の学校令を用いて規定したのである。実業学校が、二十年代の後半から一つの学校系統として注目されてきていたが、それを統一して整備したのがこの実業学校令である。しかし、これがわが国の中等教育機関を二分して独立の学校系統としたことは、近代学校制度上問題があるとされ、その後の学制改革問題の一つの焦点となっている。

 明治三十年代には中等学校の増設、生徒数の急激な増加に対応して中等教員養成機関の拡充が要求された。そのため三十五年には広島高等師範学校、四十一年には奈良女子高等師範学校を設置した。さらに応急措置として臨時教員養成所を官立の諸学校に附設している。実業学校の教員養成も計画的に行なうようになり、三十二年に「実業学校教員養成規程」を定め、農業教員養成所・商業教員養成所・工業教員養成所を設置した。

専門学校令と高等教育

 高等教育機関の整備は初等・中等教育機関に比べて遅れたが、明治三十六年に専門学校令がはじめて公布されて、学校体制を整備する当時の方策の中に加えられた。高等教育機関には大学のほかに専門教育を施すものがあるということは、学制のころから企画の中にははいっていた。しかし中等教育機関が相当な拡充を見なければ、この段階の学校制度を整えることはできなかった。三十年代にはいってようやくにして専門学校が正しく学校体系の中に位置づけられ、それが高等教育機関内において果たすべき役割が明らかになった。中等教育から進学した者が、さらに高等普通教育を受けることなく、ただちになんらかの専門の学芸を修めるために入学する学校が専門学校となった。ここにおいて、同じ高等教育機関であっても、中学校卒業者にさらに高等普通教育を授けてから、専門学を修めさせる大学とは異なる学校として、専門学校の学校体系上の位置を明確にした。なお、専門学校令では官立のほか公立・私立の学校をも認めたため、その後多くの公立・私立の専門学校が設立認可された。これによって従前は特別の制度もなく軽視されがちであった私立の専門学校も官立学校と同等に取り扱われることとなった。特に伝統のある有力な私立学校はその後内容を整備し程度を高めて、やがて大学に昇格する基礎を固めた。また程度の高い実業学校は実業専門学校となり、実業学校が高等教育機関の中に重要な位置を占めるに至ったことも注目すべきことである。

 この時期において大学は依然として帝国大学令をもって認められたものだけを大学としていた。三十年に京都に帝国大学が創設され帝国大学は二校となった。その後明治時代の終わりに帝国大学が京都以外にも増設されることとなり、東北と九州に、また大正期にはいって北海道に帝国大学が設置され、その地域の中心となる帝国大学が成立したのである。すでに私立大学が予科をもった専門学校としてこの時期に成立したが、それらは大学の名称をもった専門学校として取り扱われたのであった。帝国大学における教育の基礎となる高等な普通教育を施す高等学校については、これが四十四年高等中学校令によって改造されることとなったが、その実施をみなかった。そのため高等学校がもっていた帝国大学予科としての性格はなんらの変更をみなかった。そこで高等教育機関は、専門学校および高等学校と帝国大学という二つの段階によって編制されていたのである。

学校体系の基本構成の成立

 明治後期には、わが国の近代学校制度はようやく一つの体系として整備された。明治五年の学制によって、全国に小学校が設立され、国民一般に教育が普及した。一方、欧米の学術文化の摂取と指導者養成を中心として東京大学その他の高等教育機関が発達した。また両者の中間に位置する中学校・専門学校などもしだいに発達した。しかし明治前期にはこれらの諸学校はそれぞれ独自に発達し、全体として学校体系を構成するには至っていなかった。十九年に小学校令・中学校令・帝国大学令および師範学校令を公布し、学校体系の基本をなす諸学校の制度を確立した。その後実業教育関係の諸学校も制度化し、女子の中等教育機関も整備した。さらに高等教育についても帝国大学とは別個に専門学校の制度を確立した。そして明治後期には小学校から中等学校へ、中学校から高等学校・専門学校へ、高等学校から帝国大学への接続関係も明確となり、学校体系を統一整備したのである。

 明治四十年に義務教育を六年に延長したため、これを国民共通の基礎課程として、その上に諸学校を構成することとなった。義務教育の上に接続する中等教育段階には、男子に高等普通教育を授ける中学校、女子の高等普通教育機関としての高等女学校、実業教育を授ける実業学校があり、また高等小学校および実業補習学校も義務教育終了者の進学する国民大衆の学校として位置づけられた。次に中等教育修了者、特に中学校卒業者の進学する高等教育機関として高等学校および専門学校が設けられていた。さらに高等学校の上には帝国大学があり、学術・文化の中心として、また最高の指導者養成の機関としての地位を保っていた。右のように明治末年には学校体系を整備し、これが第二次大戦後の教育改革に至るまで、わが国の学校体系の基本構成となっている。第一次大戦後、臨時教育会議の答申に基づいて高等教育機関の改革と拡充が行なわれ、大学および高等学校に公立・私立の学校が認められるなどその性格に大きな変化があった。しかし学校体系の基本構成は明治末年に成立したものがそのまま継承されている。

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