五 義務教育制度の確立

小学校の整備と義務教育制度

 明治二十三年の小学校令によって、わが国の小学校制度の基礎が固められ、その後小学校は着実に発達したが、三十三年八月に小学校令を改定し、小学校の制度をさらに整備した。新しい小学校令は従前の小学校令を改正したものであったが、条文の一部改正ではなく、全面的改定であった。この小学校令では、尋常小学校の修業年限を四年とし、高等小学校は二年、三年または四年とした。この改正により三年制の尋常小学校を廃止して四年制に統一したことはきわめて重大な改革であった。これによって、はじめて四年制の義務教育制度が確立され、学校体系の上から見れば全国民に共通な普通教育の基礎課程が成立したのである。

 この小学校令において、さらに注目すべきことは二年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に併置することを奨励し、近い将来に六年制義務教育の実施に備えたことであった。これに伴って尋常小学校と高等小学校第一・二学年の教科課程の関連を図っている。またこの小学校令では、義務教育である公立小学校においては授業料を徴収しないことを原則とした。このことは義務教育史上画期的なことであり、次に述べる義務教育費国庫補助制度の成立とともに、義務教育の徹底を図り、就学率の向上に大きな役割を果たすこととなったのである。さらに、この小学校令において、学齢児童を雇傭(よう)する者は、雇傭によって就学を妨げることができないと規定した。このことは義務教育と児童労働との関係をはじめて明確にした点で注目すべきである。

義務教育費国庫補助制度の成立

 義務教育制度の確立は小学校制度の改革のほか、教育財政の面からも推進された。右に述べた授業料の廃止もその一つであるが、これと関連をもって義務教育費の国庫補助制度がはじめて成立したのである。明治十九年の小学校令以後、公立小学校教育費の基本財源は授業料、寄附金および市町村費であったが、当時の地方財政の窮乏と関連して授業料がしだいに増額され、これが就学を妨げる主要な原因となっていた。したがって義務教育の普及には授業料の廃止または減額が急務であったが、このことは市町村財政との関係から見てきわめて困難であった。そこで義務教育費の国庫補助が教育関係者や教育団体から強く要望されるに至っていた。

 このような状況のもとに、井上文相は授業料の減免とともに小学校教育費の国庫補助制度の成立を企図して施策を進めた。小学校教育費の国庫補助制度については、いくつかの法案が検討されたようであるが、その結果「小学校教員年功加俸国庫補助法案」が二十六年十一月閣議決定の上第五帝国議会に提出された。しかしこの法案は議会解散のため結局成立を見るに至らなかった。その後西園寺文相は井上文相の意図を受け継ぎ、同内容の法案を第九議会に提出し、二十九年三月「市町村立小学校年功加俸国庫補助法」が制定されたのである。次に三十二年十月「小学校教育費国庫補助法」が制定され、学齢児童数および就学児童数に比例して国庫補助金が市町村に交付されることとなった。右の二つの補助法は三十三年二月廃止され、これをあわせて新しく「市町村立小学校教育費国庫補助法」が制定された。このようにして、義務教育費の国庫補助制度が成立したが、これがのちに「市町村義務教育費国庫負担法」(大正七年)へと発展するのである。右のほか明治三十二年三月に定められた「教育基金特別会計法」による教育基金も普通教育の振興のために使用されることとなり、義務教育の財政的基礎がしだいに確立された。

就学率の上昇と義務教育年限の延長

 明治三十年代における初等教育制度の整備、義務教育制度の確立の背景には就学率の上昇という実質的な基盤があった。学齢児童の就学率は日清日露の両戦役の間、十九世紀末から二十世紀にかけての約十年間に急速に上昇している。すなわち明治二十八年には約六一%であるが、三十三年(一九〇〇)には八〇%を越え、さらに三十八年には約九六%に達しているのである。就学率の男女差が急速に縮小し、また地域差も縮小した。このような就学率の上昇によって、小学校が急速に充実・整備され、義務教育年限延長の実質的某礎がつくられたのである。

 明治二十七、八年の日清戦争後は近代産業が発達し、これに伴う国民生活の向上は就学率の上昇を促す重要な要因であった。また日清・日露の両戦役によって国民教育に対する認識が高まった。三十三年の小学校令後は尋常小学校になるべく二年制の高等小学校を併置することとしたので、二年制高等小学校が急速に発達した。このような状況を背景として四十年に義務教育年限を六年に延長したのである。すなわち尋常小学校を二年延長して六年制とし、これを義務教育としたのである。義務教育年限の延長は学校体系の上から見ても重要な改革を意味するものであった。すなわち義務教育の六年間が国民共通の基礎課程となり、義務教育終了の線が小学校と中学校の接続の線に到達したのである。そこで六年の共通基礎課程の上に中等教育段階以上の学校が構成されることとなった。このことはまた義務教育終了後の進学者が中学校・高等女学校・実業学校および高等小学校に分離される事実を明確にすることとなり、その後の学制改革論の一つの焦点となっているのである。

小学校教員の養成

 義務教育制度が確立され、小学校の就学者が増加するとともに学級数もしだいに増加し、教員の需要が急速に増大した。そこで小学校教員養成の拡充が要求された。小学校教員の養成は、明治十九年の師範学校令により基礎が固められ、その後尋常師範学校を中心として行なわれていたが、三十年に新たに師範教育令が公布され、その後はこれに基づいて教員養成の改革が実施された。師範教育令により、従前の尋常師範学校は単に師範学校と改称され、各府県一校を改めて、一校もしくは数校設置するものとし、師範学校の増設を認めた。その後女子師範学校の分離独立をも含めて師範学校が増設され、三十年の四七校が四十三年には八〇校(男子校三五、女子校二七、男女校一八)となり、その生徒数も八、八三〇人から二万五、三九一人に増加している。

 師範教育令の制定と同時に師範学校の生徒定員に関する規則を定め、学齢児童数を基準として学級数を算出し、これに基づいて生徒定員を定めている。このように小学校教員の計画的な養成が進められていることは義務教育制度の確立と関連して注目すべきことである。

 明治四十年に師範学校規程が定められ、本科第二部を設置して中等学校から師範学校に進む道を新しく開いた。これは明治後期における中等学校の急速な発達に対応するとともに、小学校就学者の増加、義務教育年限の延長に伴う小学校教員の緊急な需要に即応するものであったが、教員養成制度の上から見て重大な改革であったといえよう。なお師範学校の教育内容については、四十三年に師範学校教授要目を定め、小学校教員養成のための教育課程を細部にわたって制度化した。

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