二 明治憲法と教育勅語

明治憲法の発布と教育

 国会開設の詔勅(明治十四年)が発せられて後、政府は憲法制定の準備を進め、明治二十二年二月十一日に「大日本帝国憲法」が発布された。これがいわゆる明治憲法であり、その後はこの憲法に基づいてわが国の政治が行なわれ、したがってその後の教育行政はこれを基本として実施されたのである。

 明治憲法には、教育に関する規定は設けられなかったが、教育の基本となる勅令を発する根拠となる条文があり、また教育行政の基本となる官制等の制定に関する条文が設けられている。これらは天皇の大権事項として定められているのである。このほか、教育財政等に関する法律は、帝国議会の審議を経て定められたものであるから、もとより憲法に基づくものである。

 教育行政組織の基本をなすものは官制であり、それはすでに内閣制度創設以後定められていたが、憲法によってその基礎が与えられた。憲法第十条には、行政各部の官制、文武官の俸給の制定、文武官の任免を天皇の大権事項として定めている。これに基づいて勅令をもって各省官制、地方官官制、直轄学校の官制等が制定され、また高等官・判任官の官等俸給令が定められた。このように明治憲法においては法律によらず勅令をもって行政組織の基本が定められ、これに基づいて教育行政が実施される組織となっていたのである。

 教育に関する規定を憲法の条文中に設けるか否かについては、憲法の起草過程において問題とされたが、結局設けられなかった。そこで教育に関する重要事項、特に教育の目的・内容等に関する基本事項は勅令をもって定められることとなったのである。明治二十三年の小学校令制定に際し、帝国議会の開会を目前に控えて、これを法律によるか勅令とするかについての論議もなされたが、結局勅令をもって公布された。その後は教育に関する基本法令は勅令をもって定められることとなった。明治憲法には第九条に、法律の執行、公共の安寧秩序の保持、臣民の幸福の増進のために必要な命令を発することを天皇の大権事項として定めており、右の勅令はこの条文に基づくものといえる。このことは明治憲法下における教育法令の勅令主義とよばれ、教育行政の基本的性格をなすものである。

教育勅語の起草と発布

 明治二十年代の初めに確立されたわが国独自の近代国家体制は、政治の面では大日本帝国憲法によってその基礎が置かれた。他方、国民道徳の面からこの体制の支柱として位置づけられるのが「教育に関する勅語」(教育勅語)である。教育勅語は元田永孚の起草になる明治十二年の教学聖旨の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう。また日本軍隊の創設者であり、軍人勅諭の発案者でもあるといわれる山県有朋が内閣総理大臣として参画したことも注目すべきである。教育勅語が発布されると、やがて国民道徳および国民教育の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。

 明治二十年前後において、わが国の近代学校制度がしだいに整えられたのであるが、その際国民教育の根本精神が重要な問題として論議されたのである。すでに前章において述べたように、十二年に教学聖旨が示されたが、十五年以後になると、条約改正問題を控えて欧化主義思想が国内を支配し、従来の徳育の方針と激しい対立を示すようになった。そして徳育の方針に関し、論者は互いに自説を立てて論争し、いわゆる「徳育の混乱」と称せられる状況を現出した。すなわち、十五年に福沢諭吉は反儒教主義の徳育論として『徳育如何』を刊行して、新しい時代には新しい道徳が必要であることを説き、加藤弘之は『徳育方法論』(二十年刊)において宗教主義による徳育の方策を示し、また能勢栄は『徳育鎮定論』(二十三年刊)を発表して、倫理学を基本として徳育に方向を与えるべきことを主張した。一方これらに対して内藤耻叟は『国体発揮』において教化の根本は皇室において定めるべきであるという思想を公にし、さらに元田永孚は『国教論』において祖訓によって教学を闡(せん)明すべきことを主張して、教学聖旨以来の思想を表明した。また西村茂樹は修身書勅撰の問題を提出して、徳育の基礎は皇室において定めるべきであり、明倫院を宮内省に設け、聖旨を奉じて徳育の基礎を論定すべきであると建言している。また当時の文部大臣森有礼は儒教主義を排し、倫理学を基礎とした徳育を学校で行なうべきことを主張した。

 このように二十年前後における徳育の問題は、各種各様の意見が並立して修身教育をも混乱させることとなっていた。このような論争の中で、地方の教育界においてもこのことが問題となり、どのような方針によって修身科の教授をなすべきかを論議し、地方長官に対して、その基本方針について明確な結論を要求するものもある状態であった。そのため二十三年二月末の地方長官会議においては、徳育の根本方針を文教の府において確立し、これを全国に示してほしいという趣旨の建議を内閣に提出するようになった。この建議は閣議においても取り上げられて論議され、明治天皇の上聞に達した。芳川文相が後に述べているところによれば、明治天皇は榎本文相に対し、徳育の基礎となる箴言(しんげん)の編纂(さん)を命ぜられたとのことである。同年五月榎本文相に代わって芳川顕正が文部大臣に就任したが、その親任式に際して、明治天皇から特に箴言編纂のことが命ぜられたのである。その後徳育の大本を立てる方策が急速に進められ、教育勅語の成立に至っている。

 教育勅語は、総理大臣山県有朋と芳川文相の責任のもとに起草が進められた。最初は徳育に関する箴言を編纂する方針であったが、やがて勅語の形をとることとなった。起草について、はじめ中村正直に草案を委託したようであるが、その後当時法制局長官であった井上毅の起草した原案を中心として、当時枢密顧問官であった元田永孚が協力し、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものであるとされている。勅語の起草に参与した元田永孚は勅語発布後に、山県総理大臣にあてた書簡において当時の有様と勅語発布の意義を次のように述べている。

 「回顧スレハ維新以来教育之主旨定まらす国民之方向殆ント支離滅裂二至らんとするも幸二 聖天子叡旨之在ル所と諸君子保護之力とを以扶植匡正今日二至リタル処未夕確定之明示あらさるより方針二迷ふ者不少然ルニ今般之勅諭二而教育之大旨即チ国民之主眼ヲ明示せられ之ヲ古今二通し而不謬之ヲ中外二施して不悖実二天下万世無窮之皇極と云へし彼ノ不磨之憲法之如キモ時世二因而者修正を加へサルヲ不得も此ノ 大旨二於テは亘於万世而不可復易一字矣」

 明治二十三年十月三十日、明治天皇は山県総理大臣と芳川文相を官中に召して教育に関する勅語を下賜された。これによって国民道徳および国民教育の根本理念が明示され、それまでの徳育論争に一つの明確な方向が与えられたのである。

教育勅語発布後の教育

 徳教に関する勅諭のことが内閣において議せられている間に、芳川文相はどのようにしてこの勅諭を奉体し聖旨を全国に公布すべきかについて方策を練っていた。明治二十三年九月二十六日芳川文相が山県総理大臣に提出した閣議を請う文には、次のようにくわしく奉体の方法を述べている。

 徳教二関スル 勅諭ノ議

 我カ叡聖文武ナル

 皇上陛下ハ夙二徳教ノ弛廃二赴ントスル傾向アルヲ軫念アラセラレ曩時辱クモ親ク前任文部大臣二 勅スルニ徳教ノ基礎トナルヘキ要項ノ 勅諭ヲ草スルヲ以テス顕正叨リニ其後任ヲ襲フノ日二方リ内閣総理大臣ヲ経テ申テ 勅旨ヲ伝ヘシメラル顕正謹ンテ之ヲ拝シ恐懼措ク能ハス爾来焦心苦慮シテ以テ 勅旨二副ハンコトヲ冀フ惟フニ其事荀モ学説二関シ理想二渉ルトキハ 勅諭二対シ他ノ論難攻撃ヲ試ムヘキハ勢ノ免レサル所ナルヲ以テ遠ク既往二鑒ミ深ク将来ヲ考へ我カ建国ノ大本二基キ徳教ノ主義ヲ定メ遂二 勅諭案ヲ草スルニ至ル案成リ浄写シテ恭ク之ヲ陛下二捧ケ内旨ヲ伺ヒ奉リタル二大要別紙ノ通ニテ然ルヘシトノ 御沙汰ヲ蒙レリ而シテ

 勅論ヲ発表スルノ方法ニアリ即チ高等師範学校二 聖駕親臨ヲ仰キテ 勅諭ヲ賜ハランコトヲ願ヒ本大臣之ヲ受ケ以テ訓令ヲ全国二発シ普ク衆庶二示スカ或ハ不日小学校令発布ノ同時二於テ 勅諭ヲ公布セラルヘキカ

 其二者ノ一ヲ選用シ 勅諭ヲ発表セラルヽ二於テハ本大臣 聖意ヲ奉体シ務メテ徳教ヲ普及拡張セシムルノ方法ヲ設クルヲ任トス故二一方二於テハ教科書ノ巻首二弁スルニ 勅諭ヲ以テシ臣民ノ子弟ヲシテ日課ヲ始ムルゴトニ之ヲ拝誦セシメ自然 聖意ノ在ル所ヲ脳裏二感銘シ以テ徳教二風化セシメントス又他ノ一方二於テハ耆徳碩学ノ士ヲ選ヒ 勅諭衍義ヲ著述発行セシメ本大臣之ヲ検定シテ教科書トナシ倫理修身ノ正課二充テントス

 蓋シ道徳ノ国民二欠クヘ力ラサル猶ホ塩ノ肉二於ケルニ異ナラス塩アレハ肉全ク道徳ナ力リセハ国民存セス則チ道徳ハ国民ノ塩ナリ

 此レ我力

 皇上陛下ノ 聖念ヲ徳教二軫セラルゝ所以ナリ@二別紙 勅諭草案及其発表ノ方案等二就キ謹テ閣議ヲ請フ

 明治二十三年九月二十六日

 文部大臣 芳川顕正

 内閣総理大臣伯爵 山県有朋 殿

 このように政府は教育勅語発布以前から勅語奉体の方法等を慎重に考慮し、その精神の徹底について企画していたのである。

 教育勅語が発布されると、芳川文相は翌十月三十一日勅語奉承に関する訓示を発し、勅語の謄本が各学校に下賜され、学校では奉読式を行なった。なお二十四年六月に制定した「小学校祝日大祭日儀式規程」によれば、紀元節・天長節などの祝日・大祭日には儀式を行ない、その際には「教育二関スル勅語」を奉読し、また勅語に基づいて訓示をなすべきことを定めている。このように教育勅語は教育の大本を明示する神聖な勅諭として厳粛なふんい気のもとで取り扱われることとなったのである。

 教育勅語が発布されると、直ちに「勅語衍(えん)義」すなわち解説書の編纂を企画し、井上哲次郎が選ばれて執筆にあたった。その草案ができると、これを多くの学者・有識者に回覧して意見を求め、二十四年九月に刊行した。その後勅語衍義は師範学校・中学校等の修身教科書として使用された。このほか民間でも多数の解説書を出版している。

 教育勅語は、小学校および師範学校の教育に特に大きな影響を与えたが、なかでも修身教育において顕著であった。二十四年十一月の小学校教則大綱は二十三年の小学校令に準拠して定めたものであるが、同時に教育勅語の趣旨に基づくものであった。特に「修身」について、「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」と定め、授けるべき徳目として、孝悌(てい)、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹等をあげ、特に「尊王愛国ノ志気」の涵(かん)養を求めている。歴史(日本歴史)についても、「本邦国体ノ大要」を授けて「国民タルノ志操」を養うことを要旨とし、また修身との関連を重視している。このように教則大綱を通じて教育勅語の趣旨の徹底を図った。教科の教授時数についても、修身はそれまで毎週一時間半であったものが、尋常小学校では三時間、高等小学校では二時間に増加し、この点からも修身教育を特に重視していることが知られる。

 小学校の修身教科書は教育勅語の趣旨に基づいて特に厳格な基準によって検定が行なわれることとなった。そこでその後の修身教科書はきわめて忠実に教育勅語に基づいて内容が編集されている。当時の小学校修身教科書を見ると、毎学年(または毎巻)勅語に示された徳目を繰り返す編集形式がとられている。これは後に徳目主義と呼ばれているもので、教育勅語発布直後の修身教科書の特色である。三十年代になると、ヘルバルト派の教育思想の影響により、歴史上の模範的人物を中心として編集した人物主義の修身教科書が多くあらわれたが、その際にも人物に教育勅語に示された徳目を配置して編集しており、教育勅語の趣旨は一貫している。このほか勅語の全文を各巻の巻頭にかかげているものも多く、高等小学校では一巻または一部を勅語の解説にあてているものも多い。

 師範学校について見ると、二十五年に尋常師範学校の学科課程が改正されたが、その際従前の「倫理」を「修身」と改め、毎週教授時数も一時間から二時間に増加している。そして修身の教授要旨を「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キテ人倫道徳ノ要領ヲ授ク」と定めている。倫理を修身に改めたことについては、従来の「倫理」は倫理学を授ける学科目であると誤解している傾向のあることを批判して、修身は「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ徒二理論二馳セス専ラ躬行実践ヲ目的」とするものであると説明している。師範学校は国民一般の教育にたずさわる小学校教員を養成する所であり、そのため政府は特に師範学校に対して教育勅語を徹底させる方策をとったものと見ることができる。

地方自治制度の整備と教育

 明治憲法には地方自治についての規定は設けられなかったが、明治二十一年四月の市制・町村制、二十三年五月の府県制および郡制によって、それまで不備であったわが国の地方自治制度が整備されることとなった。一方憲法には国の行政組織を定める官制の制定を天皇の大権事項として定めており、これに基づいて地方官官制が定められた。このようにして明治憲法下の地方制度が整備確立されたのである。その際教育に関する事務は地方自治体の固有事務ではなく、委任事務すなわち国から委任されて行なう事務とされた。

 地方自治制度の整備と関連をもって、二十三年十月七日「小学校令」を定めたが、これに先だって同月三日「地方学事通則」を法律をもって定めている。地方学事通則は小学校令(勅令)を定めるに当たって、地方自治制度との関係等から教育に関して必要な事項を定めたものであった。地方学事通則は、町村学校組合の設置、小学校教育事務のための学区の分画、教育事務の委託、学務委員の設置、学校基本財産等について定めている。これらは法律である市制・町村制との関係から見て、勅令である小学校令において直接定めることが至当でない性質のものであった。

 二十三年の小学校令は、地方自治制度の整備と関連し、十九年の小学校令を廃止して新しく定められたものである。したがってその多くの条文において、地方自治体との関係および府県知事・郡長・市町村長の職務権限等を明確に定め、教育が国の事務であることについても明らかにしている。また府県・郡・市町村の財政的負担区分等を定め、さらに小学校の管理・監督について郡視学および学務委員の設置、その職務権限等を定めている。十九年の小学校令はわずかに十六条できわめて簡略なものであったが、この小学校令は八章九十六条からなり、小学校教育の主要な事項について条文を整備し、その後の小学校制度の基本となった。また第一条にはじめて小学校の目的を規定したことなどは特に注目すべきものであり、この目的規定は昭和十六年の国民学校令まで改正されることなく存続し、約五十年間にわたってわが国初等教育の目的を示す規定となった。

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