四 中学校等の普及

中学校の発足

 学制の実施とともに南校は「第一大学区第一番中学」となった。これに類する学校として、大阪の開成所が第四大学区第一番中学、長崎の広運館が第六大学区第一番中学、東京の洋学第一校が第一大学区第二番中学となった。しかし、これらの学校は明治六年に専門学校、または外国語学校となり、高等教育を施す学校となった。

 地方府県においては、府県庁所在地、主要都市などに公立中学校がしだいに設置された。それらは旧藩校を母体として設立され、あるものは師範学校に併設校とされていた。公立中学校の校数は七年一一校、十年三一校、十二年一〇七校と増加し、その生徒数は七、七八六人となった。

 私立の中学校は幕末から維新期にかけて設立された洋学塾、漢学塾などを中学校として経営するようになったものが多い。七年二一校、十年三五八校十二年には七八四校と増加し、生徒数は三万二、二四三人となった。

 明治初期の公私立中学校は一般に授業内容も不備で規模も小さいものが多かったが、その意気は旺(おう)盛であり、小学校修了者に勉学の機会を与えた役割は大きかった。十一年の文部省年報中学校一覧表によると、全国中学校のうち約七〇%は一学校一教員であって、一学校二教員の中学校をあわせても二一六校であり、総数の八〇%を占めていた。修業年限も二か年から六か年のものにわたってきわめて多様であった。

 中等程度の外国語学校には公立私立のものが多く、八、九年ごろが全盛期であった。最高の八年の校数は公立八、私立八六校を数えている。それ以降は減少傾向を示し、それらの中には改組されて中学校となったものが多かった。十二年以降は文部省年報の統計から姿を消し、中学校や専門学校等となった。

 女子生徒だけの中学校、外国語学校もあり、九年七校、十一年には一五校であった。男女共学の学校を含めて中学校、外国語学校の女子生徒数は七年四三六、九年一、四九七人、十二年には中学校だけで二、七四八人となっていた。

中学校の標準化

 明治十三年の中学校数は一八七校(公立一三七・私立五〇)、生徒数は一万二、二五六人(男一万一、六五七、女三八九)となっており、前年に比して学校数で五九七校、生徒数で二万二、七七三人の激減を示している。これは教育令中の中学校の規定を厳格に適用して、約六三〇の私立中学校を各種学校として取り扱ったためである。その後十四年には、一七二校(府県立八八、町村立七〇、私立一四)、十六年には一七二校(府県立七五、町村立九一、私立六)、十八年には一〇八校(府県立七〇、町村立三四、私立二)となって漸減のみちをたどっていたことがわかる。これは「中学校教則大綱」「中学校通則」による中学校の標準化がすすめられた結果である。この時期の模範的な中学校は官立大阪中学校であった。十八年の一校平均教員数は府県立一〇・八人、町村立六・七四人であって、一校平均生徒数は府県立一五四・二人、町村立八七・九一人となっている。中学校はこの時期、いまだじゅうぶんな学校規模と内容を備えていたとはいえない。

 高等女学校としては私立はまだ認められていなかったため、十五年には公立五校、生徒数は二八六人、十八年には公立八校で生徒数五〇四人であった。

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