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三 明治初期の女子教育

東京女学校の設立

 わが国においては、江戸時代からすでに女学校の名称が存在していたが、この名称は女子の通学する学校をあらわしているのであって、ここにいう、女子に中等教育を施す学校をさすものではない。明治時代になってからも、このようなばく然とした女学校の概念はなおしばらく継続していた。これが女子中等教育機関をあらわすものとなったのは、小学校を終了した女子の数がしだいに多くなって、これらがその上にある学校に入学する希望を持つようになった明治十年代にはいってからのことである。これは男子の中学校と比較して少し遅れていたと見なければならない。

 このような状況の中にあって、明治維新以後における女学校の端緒をなしたのは、東京女学校の前身である東京の官立女学校である。文部省は明治四年十二月に官立の女学校を東京に設置することを布達した。その布達文は次のようであって、当時計画されていた女学校の性質をよく示している。

 人々其家業ヲ昌ンニシ是ヲ能ク保ツ所以ノ者ハ男女ヲ論セス各其職分ヲ知ルニヨレリ今男子ノ学校ハ設アレトモ女子ノ教ハ未タ備ハラス故ニ今般西洋ノ女教師ヲ雇ヒ共立ノ女学校相開キ華族ヨリ平民ニ至ル迄受業料ヲ出シ候ハハ入校差許候間志願ノ者ハ向申正月十五日迄当省へ可願出事

 入学の年齢は八歳から十五歳までとされていたのであるから、この学校は女学校とはいえ、女子のための中等教育機関を設置するという意識はまだ明確にされていなかったと考えられる。この学校は、五年二月に開校され、同年十一月には竹平町の新校舎に移って東京女学校と改称した。六年の文部省第一年報によると、生徒数は合計三八人で、修業年限は六年とし、学科内容は相当に高い程度にまで進められるようになっていた。これらの方針によってみると、八歳からの入学とはしていても、初等教育とは区別しでその上にくるべき女子のための学校を計画したものであることは明瞭である。したがって将来この東京女学校を女子の中等教育機関としようと計画したものと見て誤りはないであろう。

 明治五年学制の制定に当たっては、小学校に関する限り女子のための教育を特に考慮しているけれども、中学校以上においては女子のための学校をいかに取り扱うかについてなんらの方針も示されていなかった。もし中等教育機関が女子のためにも必要となる時期に到達したならば、中学校に準じて制度化する方針であったと考えられる。東京女学校は八年に教則を改めたが、その中にもこの方針がうかがえる。すなわち、入学資格を小学校卒業の女子で年齢十四歳以上十七歳以下の者とし、修業年限を六年とし、一日の課程を四時間半と定めた。このことは純然たる女子の中等教育機関の設立を企画したものであったと見られる。当時の制度では中学校からただちに大学に入学したのであるから、東京女学校の卒業者は大学入学者と同等の学力を備えたものとなるべきはずであって教科の中には、「女子ヲシテ外国人ト語ヲ通シ博学明識ノモノト相交り見聞ヲ広大ナラシムルヲ要スルナリ」ともしるしてあった。この官立東京女学校は、やがて明治十年二月に廃校となった。しかし、この東京女学校が「女子学校の模範」とする意図のもとに開設され、わが国の女子中等教育機関が開設せられる端緒となり、気運を開いたという事実には注目しなければならない。

女子師範付属高等女学校の設立

 官立東京女学校を模範とし、明治初年以来よるべき規定もなく設立されてきた女学校に対して、明治十五年七月十日東京女子師範学校付属高等女学校を創立し、女子中等教育の方策を指示した。政府は東京女学校を廃校とし、その生徒を東京女子師範学校に移して、英学科・別科・予科等に収容したが、これも十二年三月限り廃した。十三年七月に予科を再興したが二年を経てこれを廃止し、この女子師範付属高等女学校を新設したのである。文部省はこの後、女子の中等学校に高等女学校の名称を用いることとした。東京女学校廃止後、教育令の公布をみたが、そこには「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルヲ得ス」と定め、小学校の他は男女別学を原則とした。これ以後中学校に女子の入学が認められないこととなった。このようにして女子中等教育は女学校だけで行なわれることとなった。このことは、同時に女子教育における儒教主義的理念の強調とも関連しており、この後、女子中等教育に対する施策も転換した。たとえば十五年三月、文部省から各府県あてに送った女子中等教育についての通牒(ちょう)で「英語、代数、三角法、経済、本邦法令等ヲ省キ、修身、和漢文、習字、図画等ノ教課ヲ課シ又別ニ裁縫、家事経済、女礼、音楽等ヲ加へ専ラ中人以上ノ女子ニ順良適実ノ教育ヲ授クル」ことを指示している。これは女子中等教育を中流以上の社会における女子のための教育として性格づけ貞淑温和な婦徳の育成を中心とした女子固有の教育内容を授けるように配慮がなされていた。

 付属高等女学校は十六年八月文部省の認可を受けて施行した。規則によると、この学校は「高等ノ普通学科ヲ授ケ優良ナル婦女ヲ養成スル所トス」とし、これを下等・上等の二等に分け、下等女学科は修身・読書・作文・習字・算術・地理・本邦歴史・博物・物理・図画・裁縫・礼節および音楽・体操を授け、上等女学科は下等女学科の修身・読書・作文・習字図画・裁縫・礼節および音楽・体操の続きに化学・家政・育児を加えることとした。修業年限は下等を三年、上等を二年とし、通じて五年とした。さらにこの高等女学校に入学する者は品行端正、体質健康であって、小学科六年の課程を終わった以上の学力がある者とした。これは高等女学校に関する最初の基本方針を示したものであって、その教育方針が家庭における婦人の生活を基礎として、高等普通教育を授けようとしたものであったことは明白である。この付属高等女学校は女子の中等教育機関として企画され、男子の中学校と相並んだ地位を占めることが、明瞭に示されているのであって、その後これが全国の女子中等教育の範となったのであるから、その創設は女子教育史の上に重要な意義を持つものである。

府県立の女学校

 府県の女学校の中で著名なものはまず京都府の女学校である。この学校は明治五年四月新英学校および女紅場として設けられ、英人女教師によって英語のほか裁縫手芸等を授けた。七年英女学校と改称し、算術・習字をも授け、九年には女学校と改称、和漢学をも教授した。十五年には京都府女学校と改称して、「温順貞静」の婦徳の涵(かん)養を指導理念とし、普通科、師範科、手芸科の三科をもつようになった。県立の女学校としては栃木女学校が最も早く八年に創立された。十年には栃木模範女学校と改称し、十四年には栃木県第一中学校女子部と改称された。文部省年報によると十八年には全国の公立女学校が八校であった。

私立の女学校

 文部省や府県においていまだ女子中等教育を充実させることができなかった時期に、女子中等教育に先鞭(べん)をつけたのはキリスト教主義の女学校であった。一般に発足当初の女学校は規模が小さく、個人の住宅などを校舎に充てたものが多く、私塾的な形態をとっていた。東京では桜井女学校、立教女学校、英和女学校などがキリスト教主義の女学校として創立された。全国の都市についてみると横浜のフェリス和英女学院、ミッションホーム、ブリテン女学校、長崎の梅香崎女学校、活水女学校、大阪の照暗女学校、梅花女学校、京都の同志社女学校などが明治三年から十三年ごろまでに創設された。これらの女学校の多くは英米婦人による英語教育を通じ、キリスト教に基盤をおく欧米の新しい人間観や社会観を若い女性に培った点で歴史的意義は大きかった。これらの他に八年に設けられた跡見女学校は婦人の伝統的教養を目標とし、和歌、書道、絵画などを授ける学校となっていた。これらの女子のための学校は私塾的な形をとったものが多く、当時は女子中等学校として制度化されていなかった。

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