二 改正教育令における中学校の制度

教育令・改正教育令の中学校

 明治十二年の教育令には、中学校は「高等ナル普通学科ヲ授クル所トス」と規定したが、これ以外になんらの規程も設けていない。十三年の改正教育令においても中学校の規定は十二年の教育令と同文であるが、中学校とならべて農学校、商業学校、職工学校の名称が新しく掲げられた。これによって中学校は中等教育の学校を総称するものではなく、普通教育を授ける学校としてその目的・性格が明確にされた。各府県は土地の状況に従い中学校を設置し、また農学校、商業学校、職工学校等を「設置スヘシ」として各府県に中学校その他の学校の設置を要請している。

中学校教則大綱と中学校通則

 教育令による中学校の規定は簡単なものであり、この条文に基づいて中学校の制度を運営するためには、詳細な教育の基準を示す必要があった。明治十四年七月二十九日「中学校教則大綱」を制定し、これによって中学校の制度上の性格と教育内容を明らかにした。この教則においては中学校は「高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ルカ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス」と規定した。これは中学校の性格を決定する上で重要な方針を指示している。学制においては、中学校は小学校を卒業したものの中から中学校に入学する生徒が選ばれることとされていたが、どのような性格の学校として学校体系の中に位置づけるかは明確になっていなかった。この教則大綱では中学校の目的を二つに分けて、一つは中人以上の業務につくために適切な教育を施すものとして、中流以上の子弟のための教育を行なう機関であるとし、他の一つは高等の学校にはいるために必須な学科を授ける所として、高等教育機関に入学するという選ばれた少数のものの進学課程であると性格づけたのである。この中学校の二重目的はその後中等教育の主要問題となった。

 中学校は初等、高等の二つの段階の学科をもって編成し、その修業年限は初等科四年高等科二年計六年とし、その伸縮は一年以内とした。中学校の入学資格を「小学中等科卒業以上ノ学力アル者タルヘシ」として、小学校の中途段階すなわち、小学校六年修了から入学することとした。これは学校体系上中等学校を複線化する端緒となった。中学校の学科は、初等中学科では修身、和漢文、英語、算術、代数、幾何、地理、歴史、生理、動物、植物、物理、化学、経済、記簿、習字、図画および唱歌、体操とし、高等中学科では、初等中学科の修身、和漢文、英語、記簿、図画および唱歌、体操の次に三角法、金石、本邦法令を加え、さらに物理、化学を授けるものとした。授業は一年間に三二週以上、一週の授業時数は初等科は二八時、高等科は二六時とし、伸縮は一週二二時から三〇時の範囲で行なうこととした。また各学年前後期別に各学科別の毎週教授時数の標準例を掲げている。中学校は土地の状況に従って高等中学科のほかにまたは高等中学科を置かないで、普通文科、普通理科を置くことができ、また農業、工業、商業等の専修科を置くことができるとした。普通文科・普理理科についてはその学科をあげている。

 十七年一月二十六日「中学校通則」が制定され、中学校の設置はこの通則によることとした。また中学校の目的を掲げた第一条に「忠孝彝倫ノ道ヲ本トシテ」という語句を入れて中学校教則大綱の目的規定に儒教主義的徳育方針を加えたことは注目される。次に中学校教則大綱の基準性をこの通則によって根拠づけた。この他校長の資格、および教員構成における有資格教員数、中学校の施設、設備の基準等を示した。

 このようにして「中学教則大綱」と「中学校通則」は中学校の目的・性格を明確にするとともに中学校制度運営に必要な教育課程、学校管理等の事項を明確にし制度化した。このような法制化の進展によって中学校を一定の標準に向けて統制し形態も内容も多様であった明治初期の中学校を統一化することとなった。

実業学校

 実業学校の制度については、学制にも教育令にも詳細な規定は設けられていなかった。明治十六年四月に農学校通則、十七年一月には商業学校通則が公布された。

 これらの通則は二つの実業学校を同じ方針によって制度化し、いずれも第一種・第二種の二つの課程を置くこととした。第一種には小学中等科卒業、年齢十五歳以上の者を入学させ、修業年限二か年の教育を施す課程とし、第二種は初等中学科卒業の年齢十六歳以上の者を入学させ、その修業年限は三か年とした。第一種は中等教育機関であり、第二種が後の実業専門学校に当たるものであるといえよう。これらの通則はわが国における中等教育機関としての実業学校を制度化した最初の規程である。

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