一 学制における中学校の制度

学制の中学校規定

 学制以前はまだ学校が初等・中等・高等の三段階編制をとっていなかったので、なにが中等教育機関であるかを明確にすることはできない。しかし、維新後の藩校、府藩県の中学校、洋学校、私塾(じゅく)などは実質からみて後の中等教育に当たる学校といえよう。学制以前においてこれらの学校は維新直後における教育改革の動向を通して近代学校への脱皮をとげようとしていた。これらの動きと関連して明治新政府の大学では明治三年二月「大学規則」ならびに「中小学規則」を制定して、中学校設置の計画を示した。この規則は大学の予備教育段階として中学を位置づけていた。いくつかの藩や府県では、この規則の影響のもとに、学制改革を試み、中学校を新設しあるいは藩校を改造して中学校を設けた。三年の東京府の中学校、京都府の中学校のように新制度を試みたもの、福山藩の誠之館、福井藩の明新館、名古屋県の明倫堂のように藩校を改造して中学校を設置したものなどがあった。

 学制においては、「学校ハ三等ニ区別ス大学中学小学ナリ」と規定し、大学と小学の間の学校として中学の名称をあげている。「中学」については、「中学ハ小学ヲ経タル生徒二普通ノ学科ヲ教ル所ナリ」とし、中学校を上等中学、下等中学に分け、二段階に編制している。この中学の他に、工業学校・商業学校・通弁学校・農業学校・諸民学校があるとし、これも中学校の種類としている。すなわち学制の中学は後の中等教育機関を総称するものとされている。しかし、下等中学・上等中学については教科を示しており、これを中学の基本としていることが知られる。学制は学区制によって中学校を設置することとし、大学区を三二の中学区に分け、各中学区に中学校を一校ずつ設けるものとしている。したがって全国では二五六校となる。また中学区を二一〇の小学区に分け、各小学区に小学校を各一校ずつ設けることとしている。学校体系としては、小学校の卒業者を中学校に進ませるという単一系統の学校体系が示されたと解されるが、二一〇の小学校に対して中学校が一校であるから中学校への進学者の選抜基準はかなり高いものといえる。

 中学校の教科については、下等中学では国語学・数学など一六科目、上等中学では一五科目が掲げられている。下等中学は十四歳から十六歳までの三年、上等中学は十七歳から十九歳までの三年で、あわせて六年の修業年限を原則としている。

 以上の規定は中学校の基本を定めたものであるが、正規の中学校に準ずるものとして変則中学をあげた。それによると「当今中学ノ書器未夕備ラス此際在来ノ書ニヨリテ之ヲ教フルモノ或ハ学業ノ順序ヲ蹈マスシテ洋語ヲ教へ又ハ医術ヲ教ルモノ通シテ変則中学ト称スヘシ」と規定している。また「中学私塾」については、私宅において中学の教科を教えるもので教員の免許証をもつ者が行なう場合は中学私塾と称し、免許証を所持しない者が教える場合は単に家塾と称している。さらに当今外国人を教師としている学校については、大学の教科を授けているもの以外はこれを中学と称することと定めた。諸民学校・農業学校・通弁学校・商業学校・工業学校についても簡単に規定している。

 学制公布に際して文部省が企図していた「着手ノ順序」には「各大区中漸次中学ヲ設クヘキ事」を掲げて各大学区に大学を設立する準備として生徒の学力をつけるため外国人教師による中学校を一、二校設置すべきであると説明している。これは大学と結びつけた中学校計画であったことを示している。

 右には学制の中学校に関する規定について述べたが、学制の中学は中等教育機関と解され単一系統の学校体系の第二段階に位置づけられている。中学校をはじめ各種の実業学校等が含まれ、中学校はその中核を占めるものとした。しかし中学校入学の選抜基準の高いこと、学制の構想と社会の実情とのへだたりなどを反映して、「外国教師ニテ教授スル中学」や「変刑中学」、「中学私塾」など多様な形態と複雑な性格の学校を含んでいた。中学校の学校制度上の位置と性格を具体的に確定することは後の課題として残されていたとみられる。

中学校の教則

 中学校の教科は、学制の条章によれば、下等中学は国語学、数学、習字、地学、史学、外国語学、理学、畫学、古言学、幾何学、記簿法、博物学、化学、修身学、測量学、奏楽(当分欠く)の一六とし、上等中学においては国語学、数学、習字、外国語学、理学、罫画、古言学、幾何代数学、記簿法、化学、修身学、測量学、経済学、重学、動植地質鉱山学となっている。とれによって見ると上等中学では下等中学にあった地学、史学、畫学、博物学、奏楽に代わって、新たに罫(けい)画、代数学、経済学、重学、動植地質鉱物学が加わっている。

 このように学制の中学は洋学関係特に自然科学に重点を置いた教科編成となっていることが注目される。

 明治五年九月八日に公布した「中学教則略」においては学制中に示した教科に下等中学では政体大意、国勢学大意を、上等中学では性理学、星学な加えたものを各級別に配当し配列した。この教則において初めて大学への連絡関係を明らかにしている。すなわち「上等第一級卒業スルモ亦通シテ前六級ノ業ヲ温シ試験ヲ経テ大学ニ進ム」と示しているように、中学より大学へ直ちに進むものであって、ここに小学、中学、大学の関係が定められ、中学の位置が示されたのである。この教則においては中学を上下等各三年とし、これを六級に分け、毎級を六か月とし、第六級からしだいに第一級まで進ませることとした。また授業時間を毎週三〇時ないし至二五時と定めたが、これは六年四月二十三日の改正では「一週日中ニ二十四時乃至二十時トス」とした。

 中学教則略に先だち、五年八月十七日に「外国教師ニテ教授スル中学教則」を公布したが、これは学制における「外国人ヲ以テ教師トスル学校」の規定や「着手順序」に示した外国人が教える中学校の教育課程である。この中学校では大学進学を前提として、卒業者は「専門大学ニ入ル事トス」と定めていた。この中学校は「最初予科二級ヲ洋語ニテ授クコレ此中学ニ入ルノ階梯ニシテ此限一ケ年トス」とあるように、特に予科を設けて外国語教授を施し、また外人によって教えられた教科内容はその他の中学より程度が高かったことなどによって大学への連絡を容易ならしめたものと思う。

 この教則は当時において第一大学区第一番中学などきわめて少数の中学を対象としたものであり、学制実施によって設置される一般の中学に適用されるものではなかったといえる。これは十一年五月には廃止された。

中学程度の外国語学校

 明治六年四月二十八日の「学制二編追加」において、外国語学校の目的の一つが、専門学校への入学者のための予備教育にあることを明らかにした。外国語学校の入学資格は小学校を卒業した年齢十四歳以上のものとしている。また専門学校の入学資格は、小学校卒業者で外国語学校の下等段階の教科を履習した年齢十六歳以上のものとした。一方、修業年限四年の外国語学校の下等の段階は一級六か月の課程で第四級から第一級まで計二年で編成されている。その教科は綴字、習字、読方、諳誦、算術、会話、書取、文法、作文、地理、歴史、体操と定めた。また専門学校へ入学する予定の生徒は定められた教科以外に「余カヲ以テ中等教科ヲ国書ニテ研究スヘシ」と要請されている。このような外国語学校の規程をみても、外国語学校の下等段階は、入学資格、教科内容、専門教育への接続の点などから、中等教育としての機能と性格を持っていた。当時は中学校と外国語学校の区別は必ずしも明確ではなかった。両者の区別は外国語を主とするか、普通学を主とするかという程度に過ぎなかった。公立私立の外国語学校については特にその区別が明らかでない。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --