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五 幼稚園の創設

幼稚小学と幼稚園の開設

 明治五年に制定された「学制」には、小学校の種類として「幼稚小学」をあげ、「幼稚小学ハ男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学二入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ」(第二十二章)と定めている。しかしこの幼稚小学は実現をみなかった。当時は小学校の開設に重点が置かれ、就学前の幼児教育施設にまでは及ばなかったのである。実際に設けられた幼児教育施設として最も早いものには、八年十二月京都上京第三十区第二十七番組小学校(のちの柳池小学校)に開設された「幼椎遊嬉場」がある。これはドイツのフレーベル流の幼稚園を模範として設けられたようであるが、一年半ばかりで廃止され長くは続かなかった。次いで九年十一月に東京女子師範学校付属幼稚園が開設され、これによってわが国の幼稚園は発足し、その後の発達の基礎がおかれた。

東京女子師範学校付属幼稚園

 文部省がはじめて幼稚園開設の伺いを太政官に提出したのは明治八年七月七日であるが、この伺いは許可されず、同年八月二十五日再び伺いを提出して九月十三日にはじめて開設が許可され、文部省は九月十五日東京女子師範学校に付属幼稚園の開設許可を布達した。それは東京女子師範学校が開設されてまもない時であった。東京女子師範学校では翌九年六月、保育の方法および建築設計について定め、同年十一月六日に園舎が竣(しゅん)工した。そこで文部省は同月十四日幼稚園開設について布達し、同月十六日開園式が行なわれた。なお翌十年十一月二十七日には皇后宮および皇太后宮の行啓があり、幼稚園開業式が盛大に挙行された。付属幼稚園では関信三を監事とし、ドイツ人クララ・チーテルマン(松野クララを首席保母、豊田英雄らを保母としてフレーベルの幼稚園を模範とする幼稚園保育を開始したのである。開園当初の付属幼稚園では、園児は上流階級の子女が大部分を占めていた。

 十年七月、東京女子師範学校は幼稚園規則を制定し、保育の科目のほか時間表も定めた。その一部をあげると、次のようである。

 第一条 幼稚園開設ノ主旨ハ学齢未満ノ小児ヲシテ、天賦ノ知覚ヲ開達シ、固有ノ心思ヲ啓発シ身体ノ健全ヲ滋補シ交際ノ情誼ヲ暁知シ善良ノ言行ヲ慣熟セシムルニ在リ

 第二条 小児ハ男女ヲ論セス年齢満三年以上満六年以下トス 但シ時宜ニ由リ満二年以上ノモノハ入園ヲ許シ又満六年以上ニ出ツルモノト雖モ猶在園セシムルコトアルヘシ

 第四条 入園ノ小児ハ大約百五十名ヲ以テ定員トス

 第九条 入園ノ小児八年齢ニ由リコレヲ分ツテ三組トス 但シ満五年以上ヲ一ノ組トシ満四年以上ヲ二ノ組トシ満三年以上ヲ三ノ組トス

 第十条 小児保育ノ時間ハ毎日四時トス 但シ当分ノ間保育時間内ト雖モ小児ノ都合ニ由リ退園スルモ妨ケナシトス

 第十一条 小児在園ノ時間ハ六月一日ヨリ九月十五日マテ午前八時ヨリ正午十二時ニ至リ九月十六日ヨリ五月三十一日マテ午前九時ヨリ午后第二時ニ至ル

 幼稚園規則で決められた保育科目は、物品科、美麗科、および知識科の三科であった。

第一物品科

 日用ノ器物即チ椅子机或ハ禽獣花果等ニツキ其性質或ハ形状等ヲ示ス

第二美麗科

 美麗トシ好愛スル物即チ彩色等ヲ示ス

第三知識科

 観玩ニ由テ知識ヲ開ク即チ立方体ハ幾個ノ端線平面幾個ノ角ヨリ成り其形ハ如何ナル力等ヲ示ス

 以上三科は、「五彩球ノ遊ヒ、三形物ノ理解、貝ノ遊ヒ、鎖ノ連結、形体ノ積ミ方、形体ノ置キ方、木箸ノ置キ方、環ノ置キ方、剪紙、剪紙貼付、針画、縫画、石盤図画、織紙、畳紙、木箸細工、粘土細工、木片ノ組ミ方、紙片ノ組ミ方、計数、博物理解、唱歌、説話、体操、遊戯」の二五の細目からなっていた。

 「幼稚園規則」で定められた「保育時間表」は、次の表のようであった。

表7保育時間表

表7保育時間表

表7保育時間表

表7保育時間表

表7保育時間表

表7保育時間表

教育令と幼稚園

 明治十二年九月に公布された「教育令」は、幼稚園を学校と区別して取り扱い、学校・幼稚園・書籍館等は公立私立の別なくすべて文部卿の監督内にあるものと定めた。教育令に基づいて、十二年十一月文部省は幼稚園の設置・廃止・認可について、1)公立幼稚園を設置あるいは廃止しようとするものは府知事県令の認可を経ること、2)私立幼稚園を設置あるいは廃止するものは府知事県令に開申すること、3)公立幼稚園の保育法は文部卿の認可を経ること、私立幼稚園の保育法は府知事県令に開申することを布達した。この布達は、幼稚園を学校と別個のものとしながらも、学校と同様に扱ったものである。

 十三年十二月、教育令が改正され、十二年に示された幼稚園の設置、廃止、保育法に関する布達の内容が本文の中にとり入れられた。この改正教育令では、

 (一)府県立幼稚園の設置、廃止は文部卿の認可を受けること

 (二)町村立幼稚園の設置、廃止は府知事県令の認可を受けること(三)私立幼稚園の設置は府知事県令の認可を受け、その廃止は府知事県令に開申すること

 (四)町村立幼稚園・私立幼稚園の設置、廃止の規則は、府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることと定めている。

 十四年一月、文部省は「府県立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則」を定め、幼稚園を設置しようとするときは、設置の目的、位置、保育の課程、入園退園の規則・休日等、保母等の職務心得およびその人員・俸額、敷地建物の略図・坪数等、経費収入支出とその細目、名称、保育用具等、幼児の概数、保母の学力と履歴を記載した書類を添えることとし、廃止しようとするときは、廃止の事由、資産の処分方法等を記載した書類を添えることとした。また同時に「町村立私立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則起草心得」を定め、その中にほぼ同様な規定を設けることとした.

簡易幼稚園の奨励

 明治十五年十二月、文部卿は各府県の学務課長に、文部省直轄の幼稚園は規模が大きすぎるため都会でないと設置しにくいので、もっと簡易な編成の幼稚園を新設し、貧民力役者等の子どもで父母がその養育を顧みる暇のない者を入れるようにすべきであるとして簡易幼稚園を奨励した。

 さらに文部省は十七年二月、府県に対して、当時、学齢未満の幼児が小学校に就学していたことについて「学齢未満ノ幼児ヲ学校ニ入レ学齢児童ト同一ノ教育ヲ受ケシムルハ其害不尠候条右幼児ハ幼稚園ノ方法ニ因リ保育候様取計フヘシ此旨相達候事」という文部省達を発し、これを実現する方法として、十五年に示諭した簡易幼稚園による方法もあることを述べている。このように文部省は学齢未満の幼児を小学校に就学させることを禁止し、簡易な幼稚園の施設を奨励したが、このことはその後の幼稚園の発達と重要な関連をもっているといえよう。

幼稚園の普及

 東京女子師範学校付属幼稚園が開設されて後、地方にもしだいに幼稚園が開設された。早いものにはまず鹿児島女子師範学校付属幼稚園があり、明治十二年四月に開設されている。これは東京女子師範学校付属幼稚園の豊田芙雄が鹿見島県に招かれて、その指導のもとに開設されたものである。また同年五月には大阪府立模範幼稚園が開設されている。この幼稚園は、大阪府から派遣された二人の小学校女教師が東京女子師範学校付属幼稚園で保育方法を学んで帰り、その後開設されたものである。大阪ではさらにこれを模範として、翌十三年五月に「愛珠幼稚園」が開設されている。このころから私立の幼稚園も開設されはじめ、明治十年代の後半には各地に公立・私立の幼園が稚開設されるに至っている。

 幼稚園の普及状況を見ると、十三年には幼稚園数は五園(国立一、公立三、私立一)で、幼児数は四二六人(国立一〇五、公立三一一、私立一〇)であったが、十八年には三〇園(国立一、公立二一、私立八)で、幼児数は一、八九三人(国立一六七、公立一、四五三、私立二七三)となっている。

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