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四 小学校の普及と就学状況

小学校の設置状況

 学制の実施によって全国に多数の小学校が設立されたが、その多くは寺子屋・私塾・郷学校などの庶民教育機関を母体として成立した。しかしまた藩校や藩校と同類の武家の教育機関を母体として成立したものもあり、ことに小規模の藩校は小学校の母体となった場合が多かった。当時においては、学制の正規の小学校は程度の高いものと考えられ、寺子屋等を母体とする小学校はきわめて不完全なものと見られていた。そのため藩校を母体としてその地方の模範的な小学校を設立する方策もとられたのである。しかし各村々に設ける小学校は寺子屋や郷学校を母体とするほかはなく、したがって一般の小学校はこれらを母体とし、これらと大差のない簡易な初等教育機関として発足したのである。

 文部省は明治五年の学制に示された初等教育についての基本方針に基づいて急速に小学校の設置に着手した。当時文部省および府県の勧奨によって多数の小学校が短時日の間に全国に開設されたのであって、その成果は驚くべきものがあった。文部省第三年報によれば、すでに明治八年において二万四、三〇三校の小学校が開設され、そこに一九二万八、一五二人の生徒を入学させているのである。この小学校の総数は今日の小学校総数約二万六、〇〇〇校(本校分校合計数)と大差がないのであって、この国土に必要な数の小学校はだいたいにおいてこのころすでに成立していたと見られる。これは学制発布後の文部省、督学局および地方の学事関係者や一般国民の努力によるものであった。

 しかし小学校制度が急激に整備できたことの背後にはいくつかの理由がある。そのうちもっとも重要なものはわが国における文教のながい歴史、ことに近世における学校教育の著しい発展が素地となっていたことは見のがすことのできない点である。寺子屋の発達普及は幕末においてすでに全国に及び、数万をもって数えられるまでになっていた。そしてこれらの庶民学校としての寺子屋が整理されて新制度による小学校となったのであった。

 学制発布後各府県のとった小学校開設の方針には三つあった。第一は従来あった寺子屋・私塾等を全廃して、新しく小学校を設置したもの、第二は寺子屋・私塾等をそのまま存置して、これとは別に公立小学校を設け、しだいにその中に生徒を吸収し、徐々に古い形の教育機関を整理する計画であったもの、第三は寺子屋・私塾等を学区制に基づいて併合して、そのままこれを小学校に再編したものであった。全国の状況を見ると、第三の方針をとった地方がもっとも多く、ある県のごときは従来あった寺子屋・私塾をすべてそのままただちに新しい制度の小学校としたのであった。多くの場合、いくつかの寺子屋・私塾を集めて一つの小学校をつくり、手習師匠を小学校教師に任命し、寺子をただちに小学校生徒としたのである。このような寺子屋・私塾の改造による新小学校の実情は校舎からも見ることができる。八年当時の状況をみると、小学校総数の約四〇%は寺院を借用したものであり、約三〇%は民家の借用によっている。すなわち約七〇%が寺院、民家を借用したものであることは、当時の小学校がその校舎からみで江戸時代の寺子屋をもととして開設したものであることをよく示している。またその小学校の大部分は一教員か二教員であって、多くは生徒数が四〇人から五〇人程度の規模であったということは、これらがほとんど寺子屋と変わらない構成のものであったことを示している。

 このようにして、学制発布直後における小学校は、従来の寺子屋・私塾その他の教育施設を改造したものであって、それらと大差のない構成のものであったが、その後しだいに小学校校舎の新築が進み、就学生徒数も増加し、教員数も多くなり、さらに教師の資質も向上して、近代化された初等教育施設として発展することとなったのである。明治六年から十二年までの小学校の学校数・教員数・児童数は文部省年報によれば上の表のとおりである。

表3小学校の学校数・教員数・児童数(明治6年~12年)

表3小学校の学校数・教員数・児童数(明治6年~12年)

小学校の就学状況

 学制の実施に当たって、学校の設立とともに学齢児童を就学させることが当面の課題であった。すでに述べたように、政府は学制を発布する趣旨を宣言した太政官布告すなわち学制序文(被仰出書)において、就学の重要性を強調し、府県においても就学告諭などによって就学督励の政策を実施した。また学区取締や町村の学事関係者は直接に就学の督促に当たり、非常な努力をはらった。しかし当時においては一般民衆を学校に就学させることはけっして容易なことではなかった。江戸時代の末期から明治維新にかけて全国の農山村にまで寺子屋・私塾の類が普及し、これが小学校設立の母体となったことは事実である。またこれがなければ学制発布後の小学校の急速な普及は不可能であった。しかしそこに学んでいた生徒はなお少数であり、多くは短期間主として読み書きの初歩を学んでいたに過ぎなかった。一投的には、庶民にとって学校の教育はほとんど必要がないものと考えられ、したがって学制の掲げる近代教育観と当時の民衆の教育意識との間には大きな距離があったのである。

 右のような実情であったために、就学の督励は想像以上に困難な仕事であった。しかし関係者の努力により、また維新以来の時代の動きや文明開化の風潮もあって、一般民衆もしだいに学校に関心をもち、就学者が年とともに増加した。文部省年報により、明治六年から十二年までの学齢児童の就学率を男女別に示せば上の表のとおりである。

表4学齢児童の就学率(明治6年~12年)

表4学齢児童の就学率(明治6年~12年)

 この表によって明らかなように明治初期にあっては就学率はきわめて低い。学制発布の翌年(六年)において男女平均二八・一%にすぎない。文部省や地方の学事関係者の努力によって年々増加をみたといっても、なお八年には三五・四%、十年には三九・九%であった。これは、学校制度の整備の進ちょくにもかかわらず、依然として存在した一般民衆の教育観と、学制に示される近代学校観とのみぞを示すものであろう。子女を学齢期間中、学校に学ばせることはまだ一般民衆の通念となっていなかったのである。

 このような学制の教育観と民衆の教育観との距離は男女別の就学率においても明らかにみられる。六年においてすでに男子三九・九%、女子一五・一%の開きがあったが、男子は八年に五〇%を越えているのに対し、女子は一八・七%に過ぎない。女子の就学率は二十数年後の明治三十年にようやく五〇%を越えている。これは一般の女性観、女子教育観と深い関係がある。女子にとって近代学校教育は無用であり、有害であるとさえ考えられていたのである。

 さらに、このような民衆の学校観は、農村あるいは僻(へき)地に至るほど根強いものがあり、これを府県別の就学率で見ることができる。十年における各府県学齢児童就学率は全国平均三九・九%に対して、最高が大阪府の六七・一%であり、最低が青森県の二二・六%であった。高位に属するものとして大阪府のほかに東京府・長野県・石川県・岐阜県・群馬県があり、いずれも五五%を越えている。それに反して、低位にあるものは三〇%に満たないものとして上記青森県のほか鹿児島県・和歌山県・広島県・秋田県がある。このように地域によっても就学率にかたよりを見ることができるのである。その後の就学率の上昇は、全般的な上昇のほか、男女差・地域差の減少によってもたらされている。

 学制期の就学状況は、就学率のほか各学年・年級別の児童の在学状況によって、いっそう明瞭(りょう)である。現在においては当時の完全な全国統計は得られないが、いくつかの府県については年級別児童数が明らかにされており、これを集計整理して当時の大勢を知ることができる。それによると、当事の小学校在学児童の大多数は下等小学に在学しているが、さらに第八級・第七級など初年級に在学しているものが大部分である。たとえば八年では下等小学第八級(一年前期)に全児童の約六五%が在学し、第七級には約一七%でその後急速に減少し、上等小学はあわせてわずかに〇・一%に過ぎない。これは学制実施後まもない時であることにもよるが、十年になっても第八級に約四九%が在学し、第七級約一九%、そして上等小学は〇・八%である。この事実を一校の教員が一人あるいは二人であったことと合わせ考えれば、当時の小学校の実態がどのようなものであったかを想像することができるであろう。しかしその後就学の水準がしだいに上昇し、十年代には学年編制もほぼ成立し、現代の小学校に近い形態となるのである。

教育令期の小学校と就学状況

 明治十二年の教育令は自由教育令とも呼ばれるように、教育の権限を大幅に地方にゆだね、学校の設置についても、就学義務についても地方の自由にまかせる方針をとった。そのため各地に教育不振の状況が現われたことは先に述べた。改正教育令はこれを改めて、学校の設置および就学義務を強化し、就学の督励については府県ごとに就学督責規則を定めることとした。このように改正教育令後は小学校教育の振興に努めたので、相当の成果を見ることができた。しかし当時は経済的不況がしだいに深刻化した時代であったため、全般的には教育は停滞の状況を続けていた。まず学校数・教員数・児童数について見ると上の表のとおりである。

表5小学校の学校数・教員数・児童数(明治13年~18年)

表5小学校の学校数・教員数・児童数(明治13年~18年)

 この表で明らかなように、不況が特に深刻化した十七年以後は学校数・児童数とも減少し、この状況は次の時代へと引き継がれている。

 就学率について見ても、この時代は経済的不況の影響が顕著であり、全般的には停滞の状況がみられた。就学率を男女別に示したのが次ページの表である。

表6学齢児童の就学率(明治13年~18年)

表6学齢児童の就学率(明治13年~18年)

 この表によれば、十六年までは上昇を続けているが、これは改正教育令の就学義務の強化と督励政策によるものであったといえよう。しかし十七年以後は経済的不況の深刻化により、その影響が就学率の低下となって現われている。この状況はさらに次の時代にまで及んでいる。なお文部省年報の統計は調査方法が学制期と変化しているのでそのまま比較することには困難な点がある。また十四年以後の就学率は、文部省年報の十八年の算出法によって統一して示した。

 就学率は前述のとおりであるが、教育令期の就学状況として注目すべきことは、就学水準が学制期に比べて著しく上昇したことである。すなわち学制期には下等小学校の第八級第七級に大多数の者が在学していたが、この期にはしだいに上級の学年の在学者が増加している。そして十五年以後は初等科の在学者が減少した場合にも中等科の在学者は逆に増加している。これによって小学校の学年編制がしだいに成立し、この時期に学年別教科書が編集されるようになったことと相まって、近代の小学校としての形態が整えられたのである。

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