三 小学校教育の内容と方法

小学教則の編成

 小学校制度を実施して初等教育を寺子屋から近代学校の形態へと進ませるためには、教育内容の改革が重大な問題であった。寺子屋から小学校への再編はその外形もさることながら、実際には教材および教授の方法がいかに改変されるかということにかかっていた。文部省はどのようにして教育方法の改造をなすかについて苦心を重ねたのである。

 文部省は学制発布の翌月、すなわち明治五年九月八日文部省布達番外をもって「小学教則」を公布し、小学校における教科課程および教授方法の基本方針を明らかにした。小学教則は、学制の規定した初等教育の大綱に基づいて上下二等の小学を各八級に分け、下等八級より上等一級に至る毎級の授業期間を六か月とし、毎週日曜日を除いて一日五時、一週三〇時の課程とし、学制に掲げた教科を各級に配当し、各教科で使用する教科書の基準を示してその程度を明らかにし、さらに教授方法の大要を示したのである。

 小学教則に示されている教育課程は欧米の教育課程を模範として定めたものであり、その教科編成は寺子屋における読・書・算の三教科編成とは全く異なって多数の新教科が掲げられており、また藩校の教科編成とも異なっている。またそこに示されている教科書も明治維新後出版された欧米近代文化を紹介した啓蒙書や翻訳書の類が中心となっている。学制の小学校は欧米を模範とするものであり、したがってそこでは文明開化の教育内容を授けようとしていたことを示している。しかしこのような教育内容は寺子屋から改造されたばかりの当時の小学校ではとうてい実施できなかったのである。

 小学校の教育課程をわが国の実情に即して編成するには、机上の計画では不適当であることが明らかであった。そこで文部省では、明治五年五月東京に創設された直轄の師範学校において、新しい小学教則の編成を行なわせることとなったのである。当時の師範学校には、諸学校から実際教育に経験のある教師が集まり、アメリカ人スコットの指導のもとに小学校教育の近代的方法について熱心に研究していた。そこで師範学校では文部省の小学教則とは別に師範学校創定の独自の小学教則を編成したのである。

 師範学校で制定した小学教則は「下等小学教則」と「上等小学教則」からなり、下等小学教則は六年二月に創定され、その後同年五月に改正され、さらに七年一月に改正されている。また上等小学教則は六年五月に創定された。この教則によると下等小学の教科は読物・算術・習字・書取・作文・問答・復読・体操の八教科であるが、その中心の教科は読物・算術・習字・問答であり、五年に公布された文部省の小学教則とは教科の種類もその内容も全く異なったものであった。この教科編成において注目すべきことは、この教則が従来寺子屋において発展して来た読・書・算の三教科構成の伝統を重んじつつ、他面には新しく展開されるべき近代的教育課程への仲間段階をなす教科の編成をしたことである。すなわち読物・算術・習字・書取・作文はいわゆる読み・書き・算盤の教科編成を新制度の小学校に合致するよう構成したものである。問答は近代教科の一部を構成すべき内容教科を総括したものであって、その内容としては理科・地理・歴史・修身などが含まれている。これらがのちになって近代的な内容教科に分化するのであるから、その前段階をなした教科と見ることができる。

 六年五月改正の下等小学教則を各級別・教科別の表として、そこに掲げられた教科書および教授内容を示せば次ページの表のとおりである。この表によって明らかなように、この教則には後に述べる師範学校編集の教科書が掲げられている。

表2下等小学教則(明治6年5月)

表2下等小学教則(明治6年5月)

 同様な教科構成であるが、異なる点は問答・復読がなく、これに代わって輪講・暗記があり、第三級以上では罫(けい)画が置かれていることなどである。また師範学校では上等小学の教科書は編集されなかったので当時文部省で編集刊行した教科書などを掲げており、その点でも下等小学教則と異なっている。なお当時は大部分の児童は下等小学に在学していたので、上等小学教則のもつ意義は下等小学教則に比べて小さかったといえる。この師範学校の小学教則は実地の経験によって編成されたものであるので、文部省ではこれを小学教則の基準として認めて普及させる方針をとった。各府県では小学教則を定めて管内に施行したが、その際この師範学校制定の教則を模範とし、これに従って教科と教科書の基準を指示したものが多かった。また東京の師範学校で教育を受けた教師は各府県の師範学校等において、この教則に従って新しい教授方法の伝習に当たったので、まもなくこの教則は全国の先進的な小学校に採用され普及することとなったのである。

 学制の実施は明治八、九年ごろを頂点として、十年ごろから一つの転期を迎えることとなった。それは学制に対する批判と関連をもち、また就学者がしだいに増加したことによって、当時の実情に即応する教育が要求されたことによるものであった。十一年五月に文部省は「小学教則」を廃止したが、これは教育内容について実質的に学制を廃止したと同様な意味をもっていた。そこで各府県では独自の小学教則を編成し、村落小学教則など実情に即応した簡易な教則を編成するものも現われた。また女児のために別に女児小学教則を編成するものもあった。さらに府県内の地方によってそれぞれ独自の小学教則を編成する場合もあった。このようにして改正教育令に基づいて小学校教則綱領が制定されるまで、すなわち明治十四年ごろまで各府県によって多様な教則が編成され実施されたのである。小学校教科書の編集

 文部省は明治五年九月「小学教則」を公布したが、その中に各級別・教科別に教授要旨を示し、教科書をも指示している。ここに掲げられた教科書には明治維新後出版された文明開化の啓蒙書・翻訳書の類が多く、学制実施によって開設される小学校に対して文部省がどのような教育を期待していたかを明らかにしている。しかし、これらの啓蒙書類は小学校教科書として編集出版されたものではなく、多くは一般の読み物として出版されたものを文部省は暫定的に小学校の教科書として指示したのであった。そこで、文部省では学制発布と関連をもって早くから小学校教科書の編集に着手していた。また、直轄の師範学校において実地の経験に基づき、小学教則の編成と合わせて新しい小学校教科書を編集することとしたのである。

 文部省では四年九月に省内に編輯寮をおき、教科書等の編集・翻訳に着手している。この編輯寮は翌五年九月に廃止されたが、翌十月に教科書編成掛を設け、六年三月にはこれを編書課と改めた。一方五年十一月に師範学校に編輯局を置き、小学校教科書の編集に当たらせた。この編輯局は六年五月に廃止され、その事務は文部省の編書課に合併された。七年十月には編書課を廃止してその事務を報告課に移しているが、これは小学校教科書の編集が一段落をとげたためと考えられる。

 文部省は「小学教則」に教科書を掲げてその標準を示したが、六年四月に「小学用書目録」を公示して新しい教科書名を補充し、その不備を補訂した。そこには文部省および東京の師範学校で編集出版した教授用掛け図や教科書などが追加されている。一方六年五月には文部省蔵版の小学校教科書の翻刻を許可する旨を明らかにし、同年七月に翻刻許可書目を発表してたが、そこには文部省および東京師範学校等蔵版の教科書類があげられている。その後許可書目を追加し、さらに八年には文部省蔵版の書籍はすべて翻刻を許可することとした。このようにして文部省および東京師範学校で編集出版した小学校教科書が各府県で翻刻され、急速に全国に普及した。

 東京の師範学校で編集した教科書類は師範学校制定の小学教則とともに普及し、当時の小学校新教科書を代表するものであった。それは下等小学用の入門教材図と教科書である。入門教材図は教授用掛け図として用いられたが、それは五十音図・単語図・連語図・数字図・九九図・形体線度図・色図などであり、これを一書に収録したのが「小学入門」である。また教科書には、小学読本・地理初歩・日本地誌略・万国地誌路・日本史略・万国史略・小学算術書などがある。

 当時の教科書は文明開化の思潮を背景として一般に新知識を提供する源泉として歓迎された。民間においても小学校用教科書を編集刊行するものもあり、当時はこれらもかなり普及した。これらの教科書によって小学校の教育が改革されたばかりでなく、国民一般に対する啓蒙書としても読まれたので、当時の教科書が新しい文化の普及に大きな役割を果たしたのである。

スコットと教育方法の改革

 教員を養成するために学校を設けることはわが国にとってまったく新しいことで、これをどのような組織にするかについては単に在来の学校を参照しただけではじゅうぶんでなかった。そこで東京に創設された師範学校では、明治四年八月に来日し、大学南校の教師をしていたアメリカ人スコット(M.M.Scott)が、アメリカにおける師範学校教育に理解と経験をもっていたところから同氏を招へいした。スコットはアメリカにおける師範学校の方法に従って教員養成を開始することとなった。しかしその頃は小学校教則もまだ制定されていなかったので、わが国の事情をしんしゃくしつつ欧米の教授法をもととして小学校教育の方法を確立するとともに、生徒にこれを伝習し、師範学校教育の第一歩を踏み出したのである。このような事情で、師範学校においてはアメリカの小学校そのままといってよい教育方法がとり入れられた。その際坪井玄道が通訳の任に当たって、スコットは英語で教授をした。当時アメリカの小学校で使用していた教科書・教具・器械等はいっさい注文してとりよせ、また教場内部の様子も全くアメリカの小学校と同じくし、これらの図書教具の到着を待って授業を開始したのである。その後これらの図書が翻訳され、教科書として刊行された。わが国の明治初年の教科書が多くアメリカ教科書の翻訳であったということは、このような事情によるものであった。当時の師範学校の教授法は、生徒の中で学力の優等な者を選んで上等生とし、教師がこれを小学児童とみなして小学校の教科を授けた。これを授けられた上等生はさらにこれにならってその他の生徒すなわち下等生に同じように伝えたのである。しかしそのころの小学校における教育の方法が実際にどのようなものであったかは詳細に知ることはできない。ただ当時師範学校校長であった諸葛信澄著『小学教師必携』(明治六年出版、同八年補正版)や当時スコットから直接教授を受けた師範学校卒業生の著した教授書などによって、スコットが指導した新しい学級教授の方法がどのようなものであったか、その大略をうかがうことができる。すなわちスコットは近代学校の性格である学級教授法をはじめてわが国の学校にとりいれたのである。当時アメリカはすでに近代学校の教育法を普及させ、学級教授法はあらゆる学校において経営の原則として採用されていたのであった。わが国では明治時代になって近代的な学級を編制し、ここに教師を配置して学級教授の方法を採用することとなったのである。

 スコットによってわが国に導入された新教授法には当時アメリカで盛んとなっていたペスタロッチ主義の実物教授の方法が含まれていた。この実物教授(object lessons)は当時わが国で「庶物指教」と呼ばれた。そしてカルキンズ(N.A.Calkins)やシェルドン(E.A.Sheldon)などの著書も翻訳され、『加爾均氏庶物指教』(明治十年)、『塞児敦氏庶物指教』(明治十一年)として文部省から出版されている。これが師範学校制定の小学教則に示された新教科である「問答」において行なわれたのであるが、当時はペスタロッチ主義の教授方法を正しく理解するまでには至っていなかった。したがって当時の問答教授は形式的な「問」と「答」があらかじめ用意され、これを繰り返すことによる注入教授に過ぎなかった。このことは当時出版された多くの教授書からも知ることができる。

文教政策の変化と教科書の統制

 明治十年代になると、明治初期の文明開化の思潮が衰退して復古思想が興隆し、欧米心酔から脱して伝統を尊重する気運が高まった。このような動向を背景として文部省の教科書政策にも大きな転換がもたらされた。教科書については、学制が発布されてから後、欧米の新知識を導入するのに急であったため、主として文明開化の翻訳教科書の類が用いられた。そしてこのころはどのような教科書を使用するかの選択は各府県、各学校の自由にまかせられていた。ところが、明治十年代にはいって教学聖旨による教育方針の指示があってからは、府県の小学校において用いている教科書を調査し、国民教育の方針に適合しないもの、あるいは児童に適切でない内容の教科書はこれを使用しないようにする方策をとった。これは文部省の文教政策の変化によって、教科書の中には児童の教材として適切でないものがあるので、その使用を禁止したのであった。

 文部省は十三年三月編輯局をおいて新しい文教方針に即応する教科書の編集に着手したが、また他方ではその後地方学務局に取調掛をおいて各府県で使用している教科書の調査を開始している。編輯局ではまず西村茂樹編集の『小学修身訓』を出版して民間編集の修身教科書に範を示してその改革をうながすこととした。また取調掛では、同年八月と九月に調査の結果を公表し、府県に対して不適当な教科書の使用を禁止する旨の通牒(ちょう)を発した。使用を禁止した教科書は、主として修身、法律政治関係、生理関係などの教科書であり、特に自由民権に関係のある書籍などが禁止書目としてあげられていることは注目すべきである。

 使用禁止の基準については、文部省が十三年十二月に府県に対して達した教科書採用上の注意の中に、「国安ヲ妨害シ風俗ヲ素乱スルカ如キ事項ヲ記載セル書籍」および「教育上弊害アル書籍」をあげていることによって知ることができる。文部省はその後調査済教科書表を逐次公表して不適当と認めた教科書の排除に努めた。このような教科書に対する文部省の政策は、小学校教則綱領の制定とともに教科書の開申制度となり、その後認可制度を経て十九年以後の検定制度へと発展したのである。

小学校教則綱領の制定

 改正教育令に基づいて、明治十四年五月四日小学校教則綱領が定められ、これに準拠して各府県では小学校教則を定めて管内に施行した。これによってそれまでまちまちであった各府県あるいは各地方の小学校の教育課程が十五年頃から全国的に統一化された。その点でわが国の初等教育史上における小学校教則綱領のもつ意義はきわめて大きい。明治十三年の改正教育令には、第三条に小学校の目的および教科を規定して次のように定めている。

 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所ニシテ其学科ヲ修身読書習字算術地理歴史等ノ初歩トス土地ノ情況ニ随ヒテ罫画唱歌体操等ヲ加へ又物理生理博物等ノ大意ヲ加フ殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ

 但已ムヲ得サル揚合ニ於テハ修身読書習字算術地理歴史ノ中地理歴史ヲ減スルコトヲ得

 右において、十二年の教育令では歴史の次に置かれていた「修身」をこの改正教育令では学科の首位に置くという重大な改正がなされたことについては先に述べたところである。また第二十三条には小学校の教則について次のように定めている。

 小学校ノ教則ハ文部卿頒布スル所ノ網領ニ基キ府知事県令土地ノ情況ヲ量リテ之ヲ編制シ文部卿ノ認可ヲ経テ管内ニ施行スヘシ

 但府知事県令施行スル所の教則に準拠シ難キ揚合アリテ之ヲ斟酌増減セントシ府知事県令之ヲ許可セントスルトキハ其意見ヲ附シテ文部卿ノ認可ヲ経へシ

 明治十二年の教育令では、公立学校の教則は文部卿の認可、私立学校の教則は府知事県令に開申することと定めていたに過ぎなかった。ところが改正教育令では、右のように、公立私立を問わず小学校の教則は「文部綱頒布スル所ノ綱領」に基づいて府知事県令が編制し、「文部卿ノ認可」を経て管内に施行すべきものと厳格に規定したのである。文部省はこの規定に基づき、府知事県令が編制する小学校教則の基準を示すために「小学校教則綱領」を定めたのである。

 小学校教則綱領によれば、小学校を初等科(三年)、中等科(三年)、高等科(二年)の三段階編成とし、次のように教科を定めている。

 初等科 修身 読書 習字 算術 (唱歌)体操

 中等科 修身 読書 習字 算術 (唱歌)体操 地理 歴史 図画 博物 物理 裁縫(女子)

 高等科 修身 読書 習字 算術 地理 図画 博物 (唱歌)体操 裁縫(女子)化学 生理 幾何 経済(女子は家事経済)

 右において、唱歌は教授法等が整うのを待って設けることとしている。また土地の状況や男女の区別等によって学科の増減を認めているが、修身・読書・習字・算術は欠くことができないものとした。次に各学科の教授要旨を示し、最後に各等科別・学年(前後期)別に各学科の教授要項と毎週教授時数を一覧表として掲げ、これは課程を設ける際の一例を示すものであるとしている。

 小学校教則綱領は教育課程の近代化を進める上に重要な意義をもっていた。同時に教学聖旨に示された教育の基本方針を具体化しまたその中の「小学条目二件」の趣旨が特に考慮されている。文部省はこれを教育内容を改善する一つの基礎としたものと見ることができる。新しい教育内容改訂の方針によって各科の程度が詳細に掲げられ、国民思想を確立し、実生活に即応するための改革がなされたことが小学校教則網領の著しい特徴である。たとえば地理では学校近傍の地形等生徒に親しいものを基本とし、さらに実際に見聞できる山谷河海から説き起こすこととしたことは、従来の一般概念を与える教育とは対欧的なものであった。またその地域社会の要請により、小学校で農・工・商業の初歩を授ける方針をたてたことも教育の実際化の著しい一面であった。また博物・物理・化学等も最初は児童の生活に結びついた実物によって教授しなければならないとし、女子には裁縫および家事経済を必須科目として、家事経済は衣服・洗濯・住居・什器・食物・割烹・理髪・出納等の一家の経済に関する事を授けるべきであるとする等、その教科内容は実際生活と密接に結びつけられて編集されることとなった。この教則綱領においては、特に修身と歴史とが国民の精神を育成するものとして重視された。歴史の要旨は明治天皇の御内意によって原案を訂正し、歴代の治績、人物や風俗の変遷等を授け、尊王愛国の志気を養成することに努めなければならないとしている。

 小学校教則綱領に示された教科のうち唱歌および体操は近代学校の教科として実施することは当時の学校では困難であった。そこで唱歌については、教授法等が整備されて後に設けることとした。文部省は学校に西洋音楽を取り入れるために、十二年文部省に音楽取調掛がおかれ、翌十三年に音楽教師メイソン(L.W.Mason)がアメリカから招かれ、わが国の音楽教授が開始された。体操については文部省は十一年に体操伝習所を設け、アメリカからリーランド(G.A.Leland)を招いて洋式体操が学校にとり入れられた。

 小学校教則綱領には各教科の教授要旨だけを示して教科書を指示しなかった。この点は学制期の小学教則と特に異なるところである。そこで教則綱領後の教科書は教則綱領に示された教授要旨に従い、学年別に示された内容と程度に基づいて編集されることとなった。このことは近代教科書の成立史上画期的な意味をもつものであり、これによって教則綱領後は学年段階別の新しい教科書がしだいに編集されるようになった。

 各府県では小学校教則綱領に準拠してそれぞれ小学校教則を編成し、文部省の認可を受けて管内に施行した。しかし実際には小学校教則綱領を模範とし、教則綱領の内容はもとより、文章もそのまま使用したものが多かった。そこで各府県の小学校教則はきわめて類似したものとなり、ほとんど差異のない教則が全国に実施される結果となった。これによって全国の教育が急速に統一化された。小学校教科書は教則と関連をもっているので、文部省の定めた書式に従って教科書一覧表を作成し、文部省に届け出ることとした。これが教科書の開申制度であるが、その後十六年に認可制度とし、文部省の認可をうけて後に使用させることに改めている。

教育方法の進歩と開発主義教授法

 教育令期には教育方法の上にも注目すべき進歩が見られた。ペスタロッチ主義の教授法は、すでに述べたように、実物教授の方法として学制期から導入されていたが、形式的な模倣に過ぎず、教育方法を実際に改革するには至らなかった。ペスタロッチ主義の教授法が教育界に組織的に取り入れられ、普及するに至ったのはこの時代であった。アメリカに留学した高嶺秀夫はオスウィーゴー師範学校でペスタロッチ主義の教育方法を直接学んで帰国したのは明治十一年であった。彼は帰国後東京師範学校に勤務し、十四年には校長となり、師範教育および初等教育の改善に功績を残した。そして彼によって伝えられたペスロッチ主義の教授法が、東京師範学校附属小学校で実際教授の経験に基づいて研究され、「開発主義教授法」として教育界に普及した。この開発主義教授法はわが国の教育方法改革の上に大きな影響を及ぼすこととなったのである。

 開発主義教授法の代表的著作は「改正教授術」(三巻・明治十六年)であり、東京師範学校助教諭若林虎三郎と同校附属小学校訓導白井毅によって編集されたものである。この書の序文には、ペスタロッチの教育方法に基づくものであるとし、これによって生徒の「心性開発」の方法について数年間実地の経験を積み重ねて研究した結果であると述べている。この書には「教授の主義」として、「活溌ハ児童ノ天性ナリ。動作ニ慣レシメヨ。手ヲ習練セシメヨ。」・「五官ヨリ始メヨ。児童ノ発見シ得ル所ノモノハ決シテ之ヲ説明スベカラズ。」・「己知ヨリ未知ニ進メ。一物ヨリ一般二及べ。有形ヨリ無形二進メ。易ヨリ難二及ベ。近ヨリ遠ニ及ベ。簡ヨリ繁ニ進メ。」など九つの教授原理が掲げられている。この原理に続いて教授案の様式、授業批評の要点などを示し、また各教科の教授方法を例をあげて説明している。その後続編(明治十七年)も出版されている。また高嶺秀夫がジョホノット(J.Johonnot)の著を訳した「教育新論」(明治十八年)も出版された。

 開発主義教授法の思想に基づく教科書も多数出版された。「改正教授術」の著者若林虎三郎の編集した「小学読本」(五巻・明治十七年)、「地理小学」(二巻・明治十六年)などがそれである。この「小学読本」の巻一の「教師須知」には、「実物或ハ図画ニヨリテ観念ヲ開発シテ後之ヲ表出スベキ文字ヲ与へ・・・・・・」と述べ、開発主義教授法に基づいたことを明らかにしている。「地理小学」も画期的な教科書で、教授時間のおよそ二分の一を地図の学習に当て、また地誌を授けるに当たって国別とせず、近世以来の「国尽」の型をはじめて脱皮して、その後の地理教科書の範型となった。このほか理科には「通常動物」・「通常植物」・「通常金石」の一連の教科書がある。まず巻頭に「心性開発的教授」の新主義として、先に述べた九つの教授原理を掲げ、教材の配列についても学問上の分類によらず、児童の日常生活に近いものから配列している。開発主義教授法は、これらの教科書を使用する場合はもとより、他の教科書による場合にも、当時の新教授法として東京師範学校を中心として普及し、その後明治二十年代にかけて教育方法の改革の上に大きな役割を果たした。

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