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六 教学聖旨と文教政策の変化

教学聖旨の起草

 教育令・改正教育令によって教育制度全般についての改革が行なわれたが、教学の根本方針についても文部省の教育政策の上に大きな変化があらわれている。その発端をなすものは明治十二年の「教学聖旨」である。

 明治天皇は十一年の夏から秋にかけて、東山・北陸・東海の諸地方を御巡幸になり、親しく各地の民情および教育の実情を御覧になった。当時の記録によれば、各地の小学校・中学校および師範学校に臨幸されて教育についての施設・方法・内容に関して詳細に御覧になったのである。この結果、明治天皇は各地の教育の実態がはなはだ憂慮すべきものであることを痛感されたのであった。維新後の急激な教育体制の改革、文明開化運動および欧米流の知識の摂取は、まだ人民の間にじゅうぶんに吸収されていなかったばかりでなく、混乱の様相さえ呈していたのである。学制以来の民衆の教育に対する不満が、「学問の益未タ顕ハレスシテ人民之ヲ厭フノ念」といわれていることでも明らかなように、就学率の不振となって現われてきていたし、また欧米流の知識技術に重点を置く実学主義的な、また主知主義的な傾向は、民衆の実生活そのものからは遊離し、明治政府の意図する文教政策からも逸脱するところがあるかのような観があった。

 このような地方の教育実態から、明治天皇は、文教政策の振興の必要を痛感されて、政府の国民教育に関する根本精神を明らかにし、教学の本義がいかなるところに存するかを侍講元日永孚に指示され、教学に関する聖旨(教学聖旨)の起草を命じられた。教学聖旨は「教学大旨」と「小学条目二件」からなっている。教学大旨の内容を概観すると、「教学の要は仁義忠孝を明らかにして知識や才芸を究め、人の人たる道を完(まっと)うすることであって、これこそわが祖先からの訓であり国典であるのに、近時は知識才芸ばかりを尚(たつと)んで、品行を破ったり風俗を傷っけたりするなど物の本末を誤っている者が少なくない。そのような有様では昔からの悪い習を捨てて、広く知識を世界に求めて西洋の長所を取り、また国勢を振興するのに益があるかもしれないが、一方では仁義忠孝の道をあとまわしにするようでは、やがては君臣父子の大義をわきまえなくなるのではないかと将来が危うく思われる。これはわが国の教学の本意ではない。それゆえ今後は祖宗の訓典によって仁義忠孝の道を明らかにし、道徳の方面では孔子を範として人々はまず誠実品行を尚ぶよう心掛けなくてはならない。そうした上で各々の才器に従って各学科を究め、道徳と才芸という本と末とを共に備えるようにして、大中至正の教学を天下に広めるならば、わが国独自のものとして、世界に恥じることはないであろう。」という趣旨のことが述べられている。

 次に小学条目二件は「1)仁義忠孝の心は人はみな持っているものであるが、幼少のうちからつちかい育てなくては他の物事ばかりが耳にはいってしまって、それからあとではいかんともすることができない。それゆえ、小学校ではおのおのの所持している絵画によって、古今の忠臣・義士・孝子・節婦の画像や写真を掲げて、幼年の生徒が入校した際にまずこの画像を示して、その行為や事件のあらましを説明し、忠孝の大義を第一に感覚させることがたいせつであって、こうしたならば忠孝の徳性を養成して物の本末を誤ることはないであろう。2)去年の秋各県の学校を巡覧してその生徒の芸業を調べたところ、農商の子弟でありながら説く事は多くの場合高尚な空論だけであって、はなはだしいものに至っては、洋語を語るのにそれを日本語に訳することさえできない有様であった。こういう者がやがて卒業して家に帰っても本業にはつきがたいし、また官途についても空論では益がない。そればかりでなく、博聞を誇って長上を侮ったりする事もあって、かえって害がある。それよりも農商には農商の学科を設けて、やがてはその道のためになるような教刈ができることが望ましい。」との内容であった。以上が教学聖旨の要旨であって、この中には、知識才芸よりも先に仁義忠孝に基づくいわば儒教的な道徳教育が、わが国教学の要として確立されるべきことが強調されているのである。この徳育に関する政策は、明治初年以来官民あげて文明開化に狂奔していた、いわゆる欧化時代に対して、その転換を意味する注目すべき政策であった。

 ところでこの教学聖旨は、当時文部卿であった寺島宗則および内務卿の伊藤博文にまず示されたのであった。文部卿寺島宗則は聖旨を拝承して、教学に関する根本精神に基づいて、文教の刷新に着手することになった。当時は教育令が公布され、翌年はこれが改正されるという時期ででもあったため、この制度改正を期として、教学聖旨に基づく文教刷新が実施されたのであって、改正教育令およびそれ以後の教育の規定や学科内容に関する諸方針の中には、これに基づく徳育の一連の政策が、基本的文教方針として採り上げられることとなったのである。

 先に、教学聖旨が文部卿寺島宗則および内務卿伊藤博文に示された際、伊藤博文に対しては特にこれについての意見を求められた。伊藤博文は「教育議」を提出して、教育に関する見解を奏上している。伊藤博文は明治新政府の代弁者でもあり、欧米の新知識を急速に導入しなければならない理由を奏上しているのであるが、元田永孚はさらにこれに対して反論を加えている。すなわち元田永孚は、「教育議附議」を上奏して自己の見解を披瀝しているように、「木朝瓊々杵尊以降、欽明天皇以前二至り、其天祖ヲ敬スルノ誠心凝結シ、加フルニ儒教ヲ以テシ、祭政教学一致、仁義忠孝上下ニアラサルハ、歴史上歴々証スヘキヲ見レハ、今日ノ国教他ナシ、亦其古二復セン而已」の精神を譲らなかった。この元田永孚対伊藤博文の論争は、明治初期のわが国教育政策をめぐっての伝統的思想と進歩的思想との論争であったと見ることができるであろう。

教学聖旨後の文教政策

 政府の教育政策は明治十三年ごろから教学聖旨の基本理念に基づいて進められた。十二年の教育令では小学校の教科の末尾に置かれていた「修身」が、十三年の改正教育令では教科の冒頭に置かれていることも政府の教育政策の変化を端的に示しているものといえよう。文部省ではこれより先、十三年三月省内に編輯局をおき、小学校の修身教育を特に重視して『小学修身訓』(西村茂樹編、明治十三年五月)を刊行している。これは当時の修身教科書に範を示すためであった。その内容は主として東洋の古典から格言名句を選んで集録したものであり、仁義忠孝を中心とする儒教思想が基本となっている。また文部省では府県で使用している教科書を調査し、不適当と認めた教科書を十三年八月と九月に公示してその使用を禁止した。その中には政治や風俗に関するものが多く、自由民権関係のものなどが含まれている。また学制期に文部省が刊行して標準教科書として指示したものも含まれ、文部省の教育方針の変化を物語っている。

 明治十四年五月に定めた「小学校教則綱領」は原案を上奏し、聖旨に基づいて一部修正して公布したものといわれているが、この教則綱領では修身と歴史を国民精神を育成するものとして特に重視し、教学大旨の理念がそこに反映されている。また小学条目二件の趣旨に従って教育を実際生活に即応させる観点から教科内容が編成されている。さらに同年七月の中学校教則大綱、同年八月の師範学校教則大網においても、特に修身を重視し、教科の最初に修身を掲げている。

 文部省は徳育による文教政策の刷新を徹底させるため、十四年六月に文部卿福岡孝弟の名をもって「小学校教員心得」を公布した。そこには普通教育の弛張、したがって国家の盛衰は小学校教員の良否にかかっており、その任務はきわめて重大であると述べ、「尊王愛国の志気」を振起すべきことを説き、道徳教育の重要性を強調している。そして一六項目にわたって教員の心得を述べている。また同年七月「学校教員品行検定規則」を制定し、教員の行為について特に取り締まりを厳重にした。このように文部省は国民道徳の観点から教員の性格を改めて教育の基礎を築き直そうとしたのであった。

 教学聖旨の精神の徹底は文部省の文教政策と並んで他の面からも進められた。明治天皇は、十二年教学聖旨を下賜せられた前後、数学の要を確立するためには、別に一書を編集して幼学のために用いなければならないとの旨を、元田永孚侍講に伝えられた。この御親論によって元田永孚を編集の中心として、やがて「幼学綱要」の完成を見ることになった。幼学綱要は、教学聖旨をはじめとする一連の徳育振興の方策が文部省において遂行されていることと並行して、宮内省において計画編集されたものである。多くの編集委員によって、幼童教学の基本となるべき徳育に関しての意見が出されたが、要は日本化された儒教的道徳の強調であったと見ることができるであろう。その編集事情については、元田永孚のこの書に掲げられた序文の中に詳細に述べられている。二〇項の徳目に基づいたこの教訓書は、「明倫修徳ノ要」を知らせるものであり、また、幼童に対して「忠孝ヲ本トシ仁義ヲ先ニス」べきことを示されたものであった。十五年十二月、幼学綱要は宮内省から地方長官を通じて、全国の学校に頒賜されたのであった。

 右のように、教学聖旨以後徳育の振興を中心とする種々の文教政策が示されている。これは明治十年代の初めごろから興隆した社会一般の復古思潮と関連をもって、儒教主義を基本とする皇国思想が政府の文教政策の中核となったことによるものであった。この思想と政策はやがて教育勅語の発布へと発展するのである。

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