五 改正教育令の実施

教育令の改正

 新たに文部卿に就任した河野敏鎌はただちに教育令を改正する準備を進め、明治十三年十二月九日に改正原案を太政官に上申した。この原案は新しく創案したものではなく、教育令の条文の改正であり、したがって長時日を必要としなかった。太政官に上申された教育令改正案は、その後元老院の審議を経て一部修正が加えられ、十三年十二月二十八日太政官布告第五十九号をもって公布された。これがいわゆる「改正教育令」である。

 改正教育令の基本方針は、教育令改正案上申の際に付せられた「教育令改正案ヲ上奏スルノ議」によって明らかにされている。その中には次のように述べており、教育令改正の趣旨が明確に示されている。

 夫レ学制ノ頒布ニ当リ執事者意ヲ成功ニ鋭クシ校舎ヲ壮大ニシ外観ヲ装飾スル事往往ニシテ免レス是ニ於テカ学問ノ益未タ顕ハレスシテ人民之ヲ厭フノ念先ツ生ス議者其弊ノ因ル所ヲ深考セス徒ラニ罪ヲ学事ノ干渉ニ帰シテ之ヲ尤ム而シテ教育令此際ニ成レルヲ以テ為メニ其精神ヲ謬マル七ノ蓋シ寡シトセス臣以テ之ヲ観ルニ前日ノ弊タル学制ノ主義ニアラスシテ施行ノ宜キヲ失フニアリ干渉ノ過度ニアラスシテ干渉ノ途轍ヲ過ツニヨレリ・・・・・・蓋シ普通教育ハ国民ノ品位ヲ上下スルノ力アリ苟モ国ヲシテ開明ニ民ヲシテ良且慧ナラシメントスルハ教育ノ普及ニアラサレハ不可ナリ而シテ政府之ヲ督励セスシテ其普及ヲ望ム殆ント河清ノ竢ツヘカラサルカ如シ・・・・・・蓋シ其政体ノ如何ニ関セス苟モ文明ヲ以テ称セラルル国ニシテ普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務メトセサルハナシ

 この上奏文で明らかなように、教育令公布以後は教育行政の上で地方の自由を認める方針であったのに対して、改正教育令は国家の統制、政府の干渉を基本方針とした点において著しい特徴が見いだされる。すなわち政府の督励や強制を欠いてはとうてい教育を普及させることはできないとするのが根本方針であって、これを確立することによって、教育令公布以後衰退を示すかに見えた小学校教育の改善振興を図ろうとしたのである。このように改正教育令は、教育令の方針を改めて文部省が地方の教育を統轄する文教政策への転換を企図したものであった。

改正教育令の内容と性格

 改正教育令は教育令の条文に修正を加えるとともに、一部の条文を削除し、三か条を追加して五〇条となっている。このうち六か条が削除されているから有効な条文は四四か条である。まず主要な修正点は、教育行政上の重要な事項について「文部卿の認可」を規定したこと、また府知事・県令の権限を強化したことである。このことは教育令に対する地方官からの批判の声にこたえたものといえる。このほか学校の設置、就学の義務に対する規定の強化などが重要な修正点である。

 小学校の設置については、教育令では単に公立小学校の設置を町村に義務づけていたに過ぎなかったが、改正教育令では「各町村ハ府知事県令ノ指示二従ヒ独立或ハ聯合シテ其学齢児童ヲ教育スルニ足ルヘキ一箇若クハ数箇ノ小学校ヲ設置スヘシ」と厳格に規定している。また私立小学校による代用についても府知事県令の認可を要することとした。巡回授業の方法も認めているが、この場合にも府知事県令の認可が必要であるとした。就学義務については、教育令では少なくとも「十六箇月」と定めていたが、これを「小学科三箇年ノ課程ヲ卒ラサル間已ムヲ得サル事故アルニアラサレハ少クトモ毎年十六週日以上就学セシメサルへカラス」と改め、三年間の就学義務を明確にした。また三か年の課程を終了した後も相当の理由がなければ毎年就学すべきであるとしている。さらに府知事県令は就学督責規則を起草して文部卿の認可を受けるものとした。

 小学校の学期(年限)は「三箇年以上八箇年以下」とし、最低四年を三年に短縮したが、年間の授業を「四箇月以上」から「三十二週日以上」に改めている。これにより、学校は休暇を除きほぼ常時授業を行なうべきものとされており、学校教育の形態の上から見て重大な修正であるといえる。また小学校の学科の冒頭に「修身」を置いたこと、小学校の教則は文部卿の定めた綱領に基づいて府知事県令が定め、文部卿の認可を経て施行すべきものとしたことなども注目すべき修正である。

 学校の種類としては、小学校・中学校・大学校・師範学校・専門学校のほかに、新しく農学校・商業学校・職工学校を加えている。各学校の目的については、中学校は「高等ナル普通学科」、大学校は「法学理学医学文学等ノ専門諸科」、専門学校は「専門一科ノ学術」を授ける所、師範学校は「教員ヲ養成スル所」と定めているが、これは教育令の規定をそのまま受け継いだもので修正はなされていない。新しく追加された産業関係の学校については、農学校は「農耕ノ学業」、商業学校は「商売ノ学業」、職工学校は「百エノ職芸」を授ける所と定めた。

 公立の学校・幼稚園・図書館等の設置廃止については、府県立のものは文部卿の認可、町村立のものは府知事県令の認可とし、私立の学校等の設置についても府知事県令の認可が必要であるとしている。また町村立・私立の学校等の設置廃止の規則は、府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることとした。これらを教育令の当初の規定と比較すれば、いずれも文部卿および府知事県令の監督の権限を強化したものである。学校の設置に関して、教育令では師範学校についてだけ府県の設置義務を定めていた。その場合にも「便宜ニ随ヒテ公立師範学校ヲ設置スヘシ」とあり、やや不明確であった。これに対して、改正教育令では「各府県ハ小学校教員ヲ養成センカ為二師範学校ヲ設置スヘシ」とあり、設置義務が明確に定められている。このほか追加条文によって、「各府県ハ土地ノ情況二随ヒ中学校ヲ設置シ又専門学校農学校商業学校職工学校等ヲ設置スヘシ」定め、中学校をはじめ、その他の諸学校についても府県が設置すべきものと定めている。

 改正教育令では文部卿の権限および府知事県令の権限を強化して中央集権化を図ったが、その点で学務委員に関する規定についても注目すべき修正が見られる。学務委員は各町村に置かれ、町村の学務を幹理し、学齢児童の就学、学校の設置保護等を掌(つかさどる)という地方教育行政の末端機関としての役割には変化はないが、その選出方法が改められている。すなわち教育令では「町村人民の選挙」によることとなっていたが、これを町村人民が定員の二倍もしくは三倍を「薦挙」し、府知事県令がその中から「選任」することに改めた。またその薦挙規則は府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることとしている。このように教育令において定めていた教育の地方分権の考え方が改正教育令においては大きな修正をうけているのである。

 改正教育令において追加された条文は、右に述べた中学校等の設置に関する一条のほか、町村立学校の教員の任免は学務委員の申請により府知事県令が行なうこと、町村立小学校教員の俸給額は府知事県令が定めて文部卿の認可を受けることの二条である。教員の任免権者を府知事県令と定めたこの条文は、改正教育令の性格と関連し、またその後の教員が町村の教員から府県の教員へ、さらに国の教員へと性格を変えていったこととも関連して注目すべきものである。このほか教員年齢(十八歳以上)を規定した条文に修正を加え「品行不正ナルモノハ教員タルコトヲ得ス」の但書をつけていることなども改正教育令の性格と関連をもっているといえよう。ただしこれは教育令の原案にあったものが元老院における審議によって削除され、この改正教育令で再び復活したものである。

 改正教育令において削除された条文は小学校や公立師範学校に対する国の補助金に関するものである。国の統制を強化した改正教育令において、国の補助金に関する条文が削除されたことは矛盾しているというべきであるが、当時の国の財政事情によるものといえよう。実際にこの修正に基づき小学校および公立師範学校への国庫補助金は十四年六月限り廃止されている。

諸規則の制定と実施

 改正教育令は基本となる条文だけを定めた簡略な法令であり、これに基づいて諸規則が制定され、これによってはじめて改正教育令が実際に施行される性質のものであった。そこで文部省は明治十四年以後改正教育令の施行規則ともいうべき多くの規則を制定した。その際多くは全国画一的に施行する規則を定めたのではなく、主として各府県で定める規則の基準を示すための規則を定めたのである。このことは学制と異なる改正教育令の趣旨によるものであり、改正教育令は教育を地方の管理にゆだねることを本来の性格としていたのである。その点では教育令の基本的性格を受け継いでいた。

 小学校については、まず十四年一月「小学校設置ノ区域並ニ校数指示方心得」を定め、小学校の学区の設定と学校の設置について基準を示した。また同時に「就学督責規則起草心得」を制定して府県で定める「就学督責規則」の基準を明らかにしている。さらに同年五月には「小学校教則綱領」を定め、各府県で「小学校教則」を定める際の基準を示した。これにより小学校は初等科三年・中等科三年・高等科二年と定め、各教科、教授要旨、毎週教授時数などを示している。このほか「学務委員薦挙規則起草心得」、学務担任者の事務要項、学校幼稚園書籍館等の設置廃止規則などを定めている。また教員については「小学校教員免許状授与方心得」のほか、「小学校教員心得」・「学校教員品行規則」などを定めている。

 各府県では文部省で定めた基準に基づいて諸規則を定め管内に施行した。これにより当時の教育は府県により統轄され、府県ごとに統一化された。学制期には府県内の各地方・各学校でかなり大きな差異のあった教育が、この時期には府県内での統一化が著しく進められている。しかし府県で定めた規則は文部省が定めた基準に準拠して起草され、文部省の認可を経たものであって、全国的に大差のないものであった。そこで実質的に全国の教育が統一化される結果となっている。このような事情から、わが国の近代教育史を教育の実態面から見るとき明治十五年ごろが一つの重要な画期点をなしているといえるのである。

 師範学校については、十四年八月に「師範学校教則大綱」を制定した。これによれば師範学校に初等師範学科(一年)、中等師範学科(二年半)・高等師範学科(四年)の三課程を置き、小学校の初等科・中等科・高等科の教員を養成することとしている。

 この教則大綱以後各府県ではこれに準拠して府県立師範学校を整備している。また十六年七月には「府県立師範学校通則」を制定したが、これは師範学校の目的・設置・管理などについて一般的事項を定めたものである。次に中学校については、十四年七月に「中学校教則大綱」を制定している。これによれば中学校は小学校中等科卒業を入学資格とし、初等中等科(四年)と高等中学科(二年)の二段階編制とし、また中学校の教育課程についても定めた。その後各府県ではこれに基づいて公立中学校の整備を図っている。なお十七年一月には「中学校通則」を制定し、中学校の目的・設置・管理などについて定めた。

 専門学校については、十五年五月に「医学校通期」を制定し、その後府県立の医学校が整備された。また同年七月には「薬学校通則」を定めた。なおこの時期には、東京法学社(法政大学の前身)・専修学校(専修大学の前身)・明治法律学校(明治大学の前身)・東京専門学校(早稲田大学の前身)・英吉利法律学校(中央大学の前身)など、のちに有力な私立大学となる私立の法律学校が創立されている。産業関係の学校については、十六年四月に「農学校通則」、十七年一月に「商業学校通則」を制定した。当時この方面の著名な学校には駒場農学校・東京商業学校・東京職工学校などがあり、文部省所管外では札幌農学校・工部大学校などがあった。十年に創立された東京大学は十四年に職制を改定し、法・理・文の三学部と医学部の統合を進めた。また各学部の内容もしだいに充実整備して近代的大学としての基礎を固めた。

教育令の再改正

 改正教育令後は府県ごとに教育関係の諸規制が整えられ、小学校をはじめ師範学校、中学校等もしだいに発達した。学制期には実質的に寺子屋と大差のない小学校も多かったが、この時期にはしだいに学年(年級)編制ができ、学年段階別に編集された教科書も使用されるようになった。その意味で近代学校の成立の上から見て大きな進歩があったといえる。しかし当時の経済的不況などのために就学率が停滞し、地方の教育の実態は必ずしも振るわなかった。改正教育令以後は国庫補助金が廃止されたが、その上深刻な経済的不況のために教育費の支出に苦しむ地方が多かったのである。

 このような状況のもとに明治十八年八月十二日教育令は再び改正された。それは主として経済的不況に対処して地方の教育費の節減を図るためのものであったといえる。

 改正された教育令は、まず条文を簡略化してわずかに三一か条とした。主要な改正点の一つは小学校のほかに「小学教場」を認め、地方の実情に応じて簡易な普通教育を行なうことができるようにしたことである。また小学校および小学教場については、単に「児童ニ普通教育ヲ施ス所トス」と定めただけで、学科の規定を削除している。さらに「土地ノ情況ニ依り午前若クハ午後ノ半日又ハ夜間二授業スルコトヲ得ヘシ」と規定し、その授業時間は二時間以上とした。このようにきわめて簡易な教育を認める方針が示されている。次に学務委員を廃止したこともこの改正における主要な点である。そして町村の学事はもっぱら戸長が掌ることとした。また学齢児童を小学校・小学教場・巡回授業のいずれにもよらず別に普通教育を施す際の認可を郡区長から戸長に改めている。

 以上のように、この教育令の改正は、地方の教育費負担の軽減をねらいとして、地方の実情にそった簡易な教育を認めたのである。その後学校数・児童数ともに減少し、就学率も低下した。しかし改正されたこの教育令が施行されのはきわめて短期間であり、明治十九年には小学校令・中学校令等の学校種別の法令が制定され、教育令は廃止されたのである。

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