四 教育令の公布

学制の批判と改革の動向

 学制実施の経験により、また当時における時勢の変化に即応させるために、明治十二年九月「学制」を廃止して「教育令」を公布した。学制はわが国の国民教育制度を確立したことにおいて画期的な意義をもっていた。政府はすべての国民を就学させることを目標として学校の普及発達を図り、地方官もまた政府の意を体して、管内の学事奨励に努めた。そこで学制実施の成績は見るべきものがあった。学制の画一主義的学事奨励がこれにあずかって力があったのであるが、しかし元来その計画が欧米の教育制度を模範として定めたものであって、実地の経験を基礎としたものでなかったために、考慮すべき多くの問題を含んでいた。また当時の国力・民情および文化の程度においては、とうていこれを全国的に実施することが困難であった。しかもこれをしいて実施しようとしたため干渉がその度を過ぎ、いたずらに地方の経費を増し、種々の弊害を生じ、不平の声を聞くようになった。たとえば学区制に基づいて各学区に一校ずつの小学校を必ず設置し、それを運営維持させようとしたことは、当時の状況から見ると、地方住民にとってかなりの負担であった。もちろんその実施当時の小学校は寺子屋を改称した程度にすぎない規模のものであったとしても、これを運営するに必要とする経費の大部分は学区内の負担となったことや、しだいに校舎の建築なども行なわれるようになったことは、この制度の実施についてさまざまな問題を発生させる一因ともなっていた。六年六月北条県において暴動が起こり、管下四六の小学校の大部分が破壊されてしまった例などは、当時の教育が民情に沿わない一面を示したものと見ることができるであろう。

 右のように学制の画一的実施が困難な状況であったため、文部省も小学校の設置に関しては、なるべく地方の民力に合致させることを要望していた。たとえば十年四月文部大書記官西村茂樹の第二大学区巡視の記録の中に、次のような一節がある。

 官吏ノ厳ナル説論ニ由リテ人民ノ就学スル者年々益々多シ然レトモ目今ノ方法ヲ以テ教育ヲ全国ニ普及セシメントスルハ民カノ能ク堪フル所二非サルカト思ハル宜シク其ノ方法ヲ改メ貧村僻邑ノ学校ハ教則ヲ簡ニシ時刻ヲ短クシ一ハ学校ノ費用ヲ減シ一ハ生徒ノ家事ヲ弁スルノ時刻ヲ与フルトキハ民心悦服シテ教育ノ弘衍更ニ一層ノ広大ヲ増スヘシ

 このような情勢から、学制全般を検討して、これを改革すべきであるとの要望が強く起こってきた。さらに明治十年代の初めころは国民思想の転換期でもあり、維新以来の文明開化の風潮を批判して、伝統的な国風を尊重し東洋道徳を強調する復古思想が興隆し始めていた。また西南の役後は一応国内の政治的統一が行なわれたが、その反面自由民権運動が盛んとなり、一方財政面では国庫財政が窮迫し危機的状況に陥っていた。このような諸条件の下に全国画一的な学制を改めて教育を地方の管理にゆだねようとする改革の動きが生じていた。そこで文部省では、明治十年に文部大輔田中不二麻呂を中心として委員を設け、学制の改正に着手したのである。

教育令の起草と公布

 教育令の起草に当たっては、時の文部大輔田中不二麻呂が中心となっていた。彼は後年当時の有様を回想して、次のように述べている。

 学制発布以後教育行政の事務逐次緒に就かんとするの際、各地方の学事も漸く勃興し来り、同時に学制の条款も世運の進度に応じ、往々加除訂正を要すること勘からず、故に随時単行の布令を以て之を弥縫し来りしが、文化の上進するや、諸般の事亦従って推移せざるを得ず、因って実際の経験に徴し、遂に学制の改正を喚起するに至れり。十年文部省に委員を設け、翌十一年五月に及んで、改正法案たるべき、日本教育令を草し、同月十四日を以て予は之を上奏せしが、・・・・・・

 これによって明らかなように、明治十年文部省内に委員を設けて、十一年五月には新しい法令案としての「日本教育令」が上申されている。すでに述べたように、田中不二麻呂は欧米諸国の教育を視察した際に、アメリカ合衆国の教育制度および行政に注目し、後に再びアメリカに渡航してさらに詳しく各州の教育を調査研究し、自由主義による進歩したアメリカの制度をとり入れて学制の画一主義を改めることを唱えていたのである。そしてこの教育令起草に当たっても、特にアメリカの教育行政制度を参照し、当時のわが国の教育を考慮して、日本教育令をつくりあげたのであった。その際先に述べたモルレーの『学監日本教育法』などが参照されたものと思われる。

 このようにして十一年五月十四日には、新しい教育法案としての「日本教育令」が整えられ、上奏された。その上奏文は次のとおりで、教育令制定の精神を明確に示している。

 学制頒布以降@ニ五閲年、教育ノ途漸ク闢ケ奎文ノ景象ヲ社会二現シシハ固ヨリ気運ノ然ラシムル所ト雖モ、畢覚其功ヲ学制ノ力ニ帰セザルコトヲ得ズ、顧フニ世ノ開明二赴クヤ、百般ノ事徒二株守ヲ用ヒズ、措置時ニ随フハ施政上闕ク可ラザルノ緊務タリ。今学制ノ条款ニ就キ反覆審査シテ之ヲ目下ノ情況ニ照シ、之ヲ将来ノ進度ニ測レバ、往往加除訂正ヲ要スベキモノアリ。於是乎臣等ノ嘗テ実験セシ所ヲ参シ、更二教育方法ノ要領七十八項ヲ掲出シ、且名称ノ妥当ナランコトヲ欲シ改メテ日本教育令ト題ス。因リテ草案一冊ヲ上奏シ謹デ進止ヲ取ル

 そして日本教育令は、文部卿・地方官・学区・学区委員・学校・学齢・学資・小学校補助金・学校廃置・学校巡視・学事申報・公立師範学校・教員・生徒・巡回授業・教育議会・幼稚園・書籍館・雑則の各項にわたって七八章からなっていた。上奏されたこの草案は太政官において審議修正し、さらに元老院の議に付せられて修正された後、上裁を経て十二年九月二十九日太政官布告第四十号をもって「教育令」として公布された。

 なお文部省は十一年五月二十三日の同省布達により、学制の施行規則ともいうべき小学教則・中学教則略その他の諸規則を廃止しており、この時点で学制を実質的に廃止したともいえる。

 公布された教育令を文部省原案として上奏した日本教育令と比較すると、かなり大きな修正が行なわれている。この修正の多くは太政官において当時参議で法制局長官であった伊藤博文のもとで行なわれた。まず学制の基本であり日本教育令にも残されていた「学区」の規定は全く削除されている。また文部卿の職務権限に関する条文の多くを削除し、教育議会の条文や教員に関する規定の一部なども削除された。これらの修正は当時の政治情勢などをも反映して行なわれたようであり、文部省で立案した際の方針とは異なった方策が織り込まれたといえよう。この点から見ても、公布後の教育令に対する批判について、これを田中不二麻呂のみの責任に帰することは当を得ていないであろう。なお右の修正により原案の七八章が四九条となり、さらに元老院の修正で四七条となっている。

教育令の内容と性格

 教育令は全文四七条からなり、学制に比べてきわめて簡略であった。この簡単な条章をもってわが国のあらゆる教育機関の規定を行なったのであるから、この条文だけでは学校制度の運用をすることが不可能のように思われる。もちろん計画としてはこれに付帯して各学校に関するくわしい規定を公布する方針であった。教育令がこのように簡潔な条章をもって整えられていることはモルレーの『学監考案日本教育法説明書』にも見られるような見解、すなわち教育令は教育制度の根本を規定するものであって、長期間にわたっても特に改正を要しないように条文を整えねばならぬという趣旨に基づくものであった。たとえば明治十四年五月に定めた「小学校教則綱領」は、初等教育の編制とその内容を規定する上においてはなはだ重要なものであるが、このような内容のものが、すでにモルレーの日本教育法にも小学教則として掲げらている。したがって教育令における基本的な規定は簡単ではあるが、さらに詳しい運営の方針を決定して、これを条文として用意し、次々に公布する計画であったことが知られる。

 教育令は学校を分けて小学校・中学校・大学校・師範学校・専門学校・その他各種の学校としている。そしてこれらの学校について規定しているが、その中の多くの条章が小学校に関するものであった。それはなお当時におけるわが国の学校の実情が、中等学校以上には施策を伸ばし得なかったことによるものであって、小学校を整備することによって、国民教育の基礎を確立しようとしていたのである。

 教育令における小学校を学制におけるそれと比較すると、全学校制度内における位置にはなんら変更はない。年限は八年で国民教育の初段階をなしており、ここから中学校・師範学校・その他の諸学校に進学できる制度となっている。著しい差異の見られるのは、その設置運営に関する規定で、それを当時の民度に合わせてより適切なものにしようとした点である。田中不二麻呂はこの教育令起草の中心に立ったが、彼はアメリカにおける教育行政の方針をこの改革にじゅうぶん参照したので、世間からはこれが自由教育令などとして批評された。しかし小学校教育の方策に関して、そのいっさいを自由にし、全く放任する方針をとったと評するのは必ずしも適切ではない。むしろ学制が机上の計画であったのに対し、これを数年にわたる小学校教育の経験に基づいて、実際に即するように改めたと見ることができるのである。

 教育令を学制と比較すれば、学区制を廃止したことが注目すべき変化であり、教育令では町村を小学校設置の基礎としている。また学制に見られた督学局・学区取締の規定はなく、教育令では町村住民の選挙による「学務委員」をおいて学校事務を管理させることとした。これはアメリカの教育行政方式を模範としたものといえよう。就学義務については学齢期間中少なくとも十六か月と定め、学制と比べて著しい差異が見られる。また学校に入学しなくても別に普通教育を受ける方法があれば就学と見なす規定を設け、就学義務が極度に緩和されている。公立小学校は八か年としたが、四か年まで短縮を認め、毎年四か月以上授業すればよいとしている。さらに私立小学校があれば公立小学校を設置しなくてもよいとし、また資力に乏しい地方では巡回教員による方法をも認めている。このように学校の設置についてもきわめて自由であり、学校の設置を強力に督励した「学制」と比べて大きな相違が見られる。

教育令に対する批判

 教育令は、右のように学制の中央集権的、画一的性格を改めて、教育の権限を大幅に地方にゆだね、地方の自由にまかせた。これは学制に対する批判にこたえようとしたものであったが、同時にその緩和政策は新しい批判を呼び起こす原因となった。このような教育令における小学校設置運営についての自由な方針は、教育界全般にきわめて強い印象を与えた。これを当時の自由民権の思想とも結びつけて、「自由教育令」と通称するようになった。教育令は、アメリカ諸州のように、その土地と民度に応じて取捨選択をそれぞれの地方にゆだねる進歩した方法であったが、わが国における実施の結果は、かえって小学校教育を後退させることとなってしまった。地方によっては児童の就学率は減少し、経費節減のため廃校、あるいは校舎の建築を中止するなどの事態も生じている。そこでこれが問題として論議され、教育令への批判が強くなったのである。ここにおいて強制教育論と自由教育論とが対立することともなり、結局この教育令を改正しなければならない事情にまで進んだのである。

 文部省は地方長官に対して教育令実施の情況を諮問し、これに関する意見を聴取したが、その際埼玉県令白根多肋によって提出された「上文部卿書」があり、その中の次の一節は当時の事情よく現わしている。

 蓋学制ハ千渉ヲ以テ主トナス者ナリ教育令ハ自由ヲ以テ主トナス者ノ如シ名ヲ以テ之ヲ言フ孰レカ教育令ノ善ニシテ学制ノ不善ナルヲ知ランヤ而シテ其実大ニ然ラス夫我邦外交日浅ク民大体二暗ク教育ノ真理ヲ知ラス導キテ而シテ之ヲ教ヘスンハ其何ノ時二シテ覚ランヤ故二必ス学制ノ如クニシテ而シテ後始メテ其可ヲ見ルヘシ・・・・・・方今小学ノ設天下二周ク普通実用ノ学漸ク遠近二被ル而シテ一旦教育令ノ出ツルニ及ンテ数年経営ノ業将二地二墜ントス所謂千仭ノ功一簀ニ欠クモノナリ今二シテ之ヲ救ハスンハ育材ノ道将二絶ヘントス

 当時教育令の公布が自由民権運動と直接結びついたものとは考えられない。ただ学制発布以後学校設置に関して強硬な方策をとってきたことと比較してみるならば、地方の実情にそわせるという見地から、町村人民の自由に任せた部分もできたのであるから、ある意味においては寛大な教育方策であったということができる。しかし田中不二麻呂の教育令における方針は、けっして文教行政を弱体化させて、人民の意向に迎合しようとしたものではなく、国民生活の現実に基礎をおいて方策を樹立したのであり、従来とかく問題を起こしがちであった学校設置の方策の無理を除こうとしたものであった。ところが当時はこれを自由教育令として批判し、田中不二麻呂はその教育令に対する世評をうけつつ、明治十三年三月司法卿に転じ、明治初年以来の文教行政の地位からまったく離れたのである。

 このように教育令はさまざまに世評を受けたが、ちょうどそのころ、太政官の参議が廃止となり、各省の卿に大異動があった。そして十三年二月文部卿に河野敏鎌が任ぜられ、続いて三月に文部大輔田中不二麻呂は司法卿に転じた。この年明治天皇は山梨・長野・岐阜・京都各地を御巡幸になり、河野文部卿に供奉を仰せつけた。河野敏鎌は就任早々その先発として各地の教育状況を視察、京都御着を待って委細を奏上した。河野文部卿の一行は各地で自由教育令の失敗を認めたので、同年九月文部省に帰ると調査委員をあげて改正教育令の起草に着手したのである。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --