三 学制の実施

学制の着手順序と文教施策

 学制は近代教育制度の全般について企画し、将来に向かっての構想を示したものであるといえる。文部省は学制の実施に当たって着手の順序を定めており、全面的な実施は将来に期していたことが知られる。そのことについては、学制を制定する際に文部省が学制原案に添えて太政官に提出した文書の中に学制の着手順序を述べたものがある。この文書には、「後来ノ目的ヲ期シ当今着手之順序ヲ立ル如 レ 左」と前書きして、次の九項目をあげている。

 一 厚クカヲ小学校ニ可用事

 二 遠ニ師表学校ヲ興スヘキ事

 三 一般ノ女子男子ト均シク教育ヲ被ラシムヘキ事

 四 各大学区中漸次中学ヲ設クヘキ事

 五 生徒階級ヲ踏ム極メテ厳ナラシムヘキ事

 六 生徒成業ノ器アルモノハ務テ其大成ヲ期セシムヘキ事

 七 商法学校一二所ヲ興ス事

 八 凡諸学校ヲ設クルニ新築営繕ノ如キハ務テ完全ナルヲ期ス事

 九 反訳ノ事業ヲ急ニスル事

 右によって、文部省は学制の実施に当たってまず小学校に力を注ぎ、これを整備した上で、その基礎の上に中学校等をしだいに充実しようとしたことが知られる。また小学校と関連してその教員養成が急務であるとしており、師範学校の設立も小学校とともに重視した。

 学制は明治五年八月公布とともにただちに実施されたわけではなかった。府県において学制を実施するために学区を定め、学区取締を置き、小学校が設立されはじめたのはおおむね六年四月以後であった。学制公布後、府県では実施の体制をしだいに整えたが、旧来の伝統も強く、また実施のための財政的裏づけもじゅうぶんでなかったために、学制を一挙に実施することは実際上困難であった。学制を実施するための国庫交付金すなわち府県への委托金(小学扶助委托金)は五年十一月にその金額が決定されたが、文部省はこれを交付する条件として、六年一月に中学区小学区の設定と学区取締の設置を府県に要求している。多くの府県ではこのころからようやく学制の実施に本格的に着手している。

 文部省では六年三月欧米視察を終えて帰国した田中不二麻呂が中心となって学制の実施に当たった。また同年六月には文部省顧問としてアメリカから招かれたダビット・モルレー(David Murray)が着任し、その協カと指導のもとに細部の規則等を定め、具体的施策を講じて府県の教育を指導し、学制を実施した。文部省内の督学局の官員は各大学区を巡視して実情をは握するとともに、中央の政策を地方に浸透させることに努めた。学制の規定をそのまま実施することは当時の日本の社会の実情から見て困難であったが、地方の教育関係者の協カと非常な辛苦によって、学制はしだいに地方に定着していったのである。

地方教育行政と学区の設定

 学制実施の実情を教育行政組織および学区の設定の面からみると、学制の規定との間にかなり大きな開きがあった。学制によれば、全国を大学区に区分し、さらに中学区・小学区にわけ、これを地方教育行政の単位区画とした。また大学区には各大学本部に督学局を設けて督学を置き、中学区には学区取締をおいて教育行政事務を担当させることとしている。これに対して大学区・中学区・小学区は一応全国に設けられたが、督学局は結局地方には設けられなかった。そのため大学区はほとんど教育行政の機能を果たすことができず、実情としては府県が地方教育行政の最高単位であった。督学局については、第一大学区督学局がしばらく設けられていたに過ぎず、その後文部省内に「各大学区合併督学局」が置かれ、さらに文部省の一局としての督学局となっている。各大学区に置かれるはずの大学校も結局設けられなかったが、各大学本部に官立の外国語学校と師範学校が各一校設けられている。また大学区ごとに教育議会が開催されている事実などから見れば、大学区がある程度の機能をもっていたことが知られる。なお大学区は当初は八大学区としたが、六年四月に七大学区に改め、学制をこれによって実施した。

 中学区・小学区は地方官が地方の状況により適宜に区分して定めるとしていたが、文部省は府県に委托金を配付する条件として学区の設定と学区取締の設置を要求したため、各府県は学制を実施するためにまず中学区・小学区を定めた。その際実情としては、当時の一般行政区画である大区・小区の制度を基礎とし、また郡・町村を基礎として中学区・小学区を設けているものが多い。小学区は、実際に学校を設立する区画として設けたもの、単に形式的に設けたものなど種々の場合があり、その規模は府県によりまちまちであった。学区取締の数は府県によって異なっていたが、一般には学制の規定よりも少数であった。当時の学区取締は、学制実施の政策と地方の実態との間に立って苦しい立場に置かれ、辛苦を重ねた例が多い。学校の設立

 学制の実施によって、従前設立されていた府県の諸学校、私塾、寺子屋等はいったん廃止されて、新しく学制に基づいて学校が設立された。私学・私塾の類も開業願を出して許可されることによってはじめて学制による学校として公認された。学制の実施に当たって、文部省はまず小学校の設立に力を注いだので、府県においてもこの方針に基づいて小学校の設立に特に努力を傾けている。学区の設定も学区取締の任命も主として小学校の設立のためのものであり、当時の府県においては、学制の実施とはほとんど小学校の設立を意味するものであったといってもよい。これによって明治八年には全国に約二万四、五〇〇校の小学校が設立され、児童数は約一九五万人、就学率は約三五%(男約五〇%、女約一九%)となっており、児童数はその後さらに増加し、就学率も上昇している。その詳細については後に初等教育の節で述べることとする。

 学制は学校の設立維持の経費を地方住民の負担、すなわち「民費」によることを原則とした。そのため小学校でも月額五〇銭(または二五銭)という当時としては高額の授業料を定めている。しかし当時の民衆の生活からみてこのような高額の授業料を徴収することはとうてい不可能であった。授業料の額は地方により学校によって異なっていたが、おおむね一銭から三銭程度であり、貧困家庭の児童には無料の場合も多かった。そのため小学校経費の主要な財源は学区内の各戸への賦課金(学区内集金)と学区内の寄附金にたよるほかはなかった。

 学制の実施に当たって、小学校の教師の養成が急務であり、師範学校その他教員養成機関の設立も当時において特に重視されていた。文部省では学制発布に先だって明治五年五月に東京に直轄の師範学校を創設し、同年九月開校している。ここにはアメリカ人スコット(M.M.Scott)を招き、欧米の教育方法を模範として教員養成を行なうほか、「小学教則」の編成、新しい教科書の編集を行ない、ここを中心として全国の小学校教育の近代化を推進しようとした。また六年および七年には各大学区本部に官立師範学校各一校を設置し、また東京には官立の女子師範学校を設置している。各府県でも伝習所、講習所、養成学校などと呼ばれる短期の教員養成機関を設置し、これがのちに公立師範学校として発達した。

 中等および専門諸学校について見ると、文部省は明治五年八月学制公布と同時に東校を第一大学区医学校、南校を第一大学区第一番中学、大阪開成所を第四大学区第一番中学、長崎広運館を第六大学区第一番中学と改称した。そして「外国教師ニテ教授スル医学教則」および「外国教師ニテ教授スル中学教則」を定めた。引き続き大阪医学校を第四大学区医学校、長崎医学校を第六大学区医学校、東京の洋学第一校を第一大学区第二番中学と改称した。右のように医学校を除き、当時の洋学の最高学府はすべて中学となっているのである。しかし六年には第一大学区第一番中学は専門学校となって開成学校と改称され、大阪・長崎の第一番中学は外国語学校となっている。また、七年三月には右以外の大学区にも官立外国語学校を設置している。官立外国語学校は同年十二月英語学校と改称された。また、女子教育の模範として文部省は明治五年に官立の東京女学校を設置している。明治十年には東京開成学校と東京医学校を合併してはじめて近代的な大学として東京大学を創立した。

 地方の府県でもしだいに公立中学校を設立している。それは旧藩校等を母体として設立され、必ずしも学制の規定に基づいて各中学区に設立されたものではなかった。最初は規模も小さく内容も不備であったが、しだいに整備された。私立の中学校も多数設けられているが、それは学制以前の私塾の類から発達したものであり、その規模も、程度や内容もさまざまであった。学制期の特色の一つは外国語学校の発達である。文明開化の時代思潮を反映して官立・公立のほかに私立の外国語学校が多数設けられている。中学校と同様に私立の学校はその規模も、程度や内容もさまざまであったが、日本人教師によるものが多く、外国人を雇っているものは少なかった。外国語学校は明治十年ごろから外国語熱の衰微とともに急速に減少したが、中学校に転換したものも多い。学制期の中学校・外国語学校の中には女子生徒のみの学校すなわち女学校もあり、また男子とともに女子の入学を認める男女共学の学校もあった。学制期の専門学校には医学校が多く、そのほか法律、商業などの学校もあった。しかし学制期には専門学校はまだあまり発達していなかった。文部省所管外の専門学校として注目すべきものには、開拓使の札幌農学校、工学部の工部大学校、司法省の法学校などがあった。

学監モルレーと田中不二麻呂

 学制期において、文部省では主として田中不二麻呂が文教政策の中心的地位にあった。また学監(文部省顧問)として、これに協力し、教育行政に参画して、わが国における近代教育の確立に指導的役割を果たしたのはダビット・モルレーであった。学制期の教育行政はこの二人の緊密な協力によって企画実施され、日本の近代教育の端緒が開かれるとともに、将来の発展の基礎が固められたといえる。

 アメリ力人ダビット・モルレーは明治六年六月着任、同年八月督務官、七年十月から十一年十二月まで文部省において「学監」の職にあった。これより先、モルレーは米国にあってラトガース・カレッジの数学教授の地位にあったが、一八七二年(明治五年)駐米日本弁理公使森有礼の書簡に答えて、日本の教育についての綿密な意見を返書として送ったことがある。そしておそらくこの間の事情、その他日本からの留学生との関係などがもととなって文部省の招へいするところとなったのであろうと伝えられている。

 森有礼は公使としてアメリカに駐在していたが、外交に努めるとともに日本文化の進展、特に教育の改革方針をたてることについても努力するところがあった。彼は開国後における日本の教育をいかにすべきかについて考え、この教育政策を樹立する参考としてアメリカの知名人に書簡を送り、日本における教育方策についての意見を求めたのである。一八七二年二月三日付け書簡に対して、モルレーを含む一三人から返書を得た。その返書を集めたものが、一八七三年ニューヨークで刊行された『日本の教育』"Education in Japan"である。

 モルレーはその書簡において、教育問題は政治家にとってまず何よりも重要視すべきであることを明らかにした後に、森の質問に答えて、五項目からなる日本教育改革論を述べている。いまその第一項を見ると、「各国民は自国民の要求に適する教育制度をつくること」とあるが、その中で彼は各国の教育制度はそれぞれの国民的特性をしんしゃくすべきであって、伝統と慣習にそわなければならないとし、さらに成功する学校制度は国民の要求から自然に成長するものでなければならないといっている。そして一国の教育制度を改革する場合には、すでに存在する教育機関をできるだけ保存することに努めなければならない。日本の学校はすでに国民生活を構成する要素となっているのであるから、日本は根本的な教育の変革を願うベきでないといっている。これによっても彼の教育意見がいかに堅実なものであったかがうかがわれる。学制起草にも関係した辻新次が、明治初年には文部省の日本人が急進論者であり、雇年国人がかえって保守論者であったといっているが、これはモルレー学監をさしたものである。

 モルレーは六年八月から督務官次いで学監の地位についたのであるが、彼は自分の地位をスーパーインテンデントと称していた。文部省においてはモルレーに重要な学事を諮問することとし、七年四月督学局創設後、同年十月に「督学局職制及事務章程並学監事務取扱規則」を定めた。さらに同年十一月に改正された規則によってみると、まず各課において立案された「学制教則舎則教科書等ノ正定及当省並官立学校雇人外国教師進退外国人往復書類官立学校試験ノ方法年報書並ニ統計表ノ体裁海外留学生事務等」はすべて督学局に提出して、学監の審査を経ることとなっていた。また学監の任務は「官立各学校ヲ巡察シ教員ノ学力品行生徒学カノ進否ヲ検査シ学校管理ノ方法及授業ノ学科等ニ付其意見ヲ陳ヘ或ハ其景況ヲ当省へ申報シ将来盛旺ニ進ムヘキ方策ヲ建議」することのほか、さらに「外国書類ヨリ教育上ニ関シ緊要ナル事件ヲ得ルトキハ之ヲ撮抄シテ」文部省へ提出すべきことと定めていた。

 モルレーはこのような学監の地位にあって、学制発布以後の教育指導者として、わが国の教育行政に参与して大きな功績を残したのであった。彼は六年十二月および八年二月に、「学監ダビット・モルレー申報」を文部省に提出している。前者は彼が着任してはじめて日本の教育についての意見を発表したものであり、今後日本の教育がどのような努力をなすべきかを論じたものであった。そこにおいて彼は、英語あるいは仏語をもって日本の国語を改良すべしという改革論に反対して、国語を変更すべきでないことを論じ、日本語の教科書を編纂して西洋の学術を教授するの必要を説き、教員養成の急務を論じ、また大いに女子教育を奨励すべきことを唱えているが、当時当局者を啓発するところが大きかったであろうと思われる。彼はまたしばしば各地の教育事情を視察しているが、長崎・兵庫・大阪・京都を巡回した際の報告書は明治七年の申報(八年二月提出)として提出されている。そこで彼は実地に視察した諸学校の長短得失を批評し、特に外国語教授法・中学校設置・教科書・教員養成等に関して建策している。その後も十一年七月に、「東京府下公学巡視申報」を文部省に提出している。

 田中不二麻呂は明治維新後新政府に仕え、明治二年十月大学校御用掛となり、その後教育行政に参画することとなった。四年十月文部大丞に任ぜられ、欧米派遣岩倉大使一行に理事官として加わり、欧米諸国を巡歴して六年三月帰国した。彼は主として各国の教育事情を調査し、その報告書を『理事功程』として提出している。これは文部省が六年から八年にわたり、全一五巻として出版し、海外諸国の教育を明らかにする参考書とした。この書には、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オランダ・スイス・デンマーク・ロシアの教育制度を実地の調査研究によって詳細に述べている。

 六年四月文部卿大木喬任が参議に転じて後は、田中不二麻呂が主として省務を管理したが、文部省における教育行政の首脳としての彼の活動は注目すべきものがあった。彼は海外の教育制度と行政とを実地に当たって研究した省内の唯一人者であったから、モルレーと協力して学制の実施と改善に努めた。十二年九月に公布された教育令の立案は、彼の業績であると認めなければならない。彼はその後教育令に対する世評もあって十三年三月司法卿に転じ、明治初年以来外国の教育事情を調査研究しつつ築きあげてきた文教府内の地位から全く離れることになった。

 明治九年すなわち西暦一八七六年はあたかも米国が独立してから百年に相当したので、それを記念してフィラデルフィア市に開国百年期博覧会が開催された。日本にも出品を依頼してきたので、時の文部大輔であった田中不二麻呂は、その博覧会の教育部に、日本の教育に関する資料を出品することとして、種々企画するところがあった。その一つとして、文部省は日本の教育を紹介するために特に『日本教育史略』を編集したが、これはモルレーの指導と協力によって作られたものである。この際田中不二麻呂は四人の随行員とともに渡米して観覧し、またモルレーはこれを機会に一度帰国して博覧会を巡視し、特に教育部の視察報告を提出したが、これが『大璧慕邇矣稟報』(明治十年)として刊行された。田中不二麻呂はその機会に米国各州の教育行政を調査し、帰国後、米国各州の教育法規を翻訳して、十一年に『米国学校法』として文部省から出版している。彼は米国の教育行政の様式を優れたものと認め、その制度をわが国にとり入れようと考えたのである。

 田中不二麻呂は、学制実施の経験からその改革が必要であることを認め、欧米特にアメリカ合衆国の制度を赤照して教育令の起草に当たった。モルレーは明治十年に『学監考案日本教育法』と題する学校制度案を起草して、これをその参考資料として文部大輔田中不二麻呂に提出している。すでに述べたように、モルレーは学監としての学校実地視察によって得た改革意見を申報などを通じて述べてきたのであったが、この日本教育法は、いわば机上案であった学制を、その実施後の経験とわが国の実情とに基づいて改革しようと試みた新制度案である。その内容は、第一篇学政。第二篇学区。第三篇学校区別及編制。第四篇学校保護。第五篇教員。第六篇生徒。第七篇学校付属物。付録。第「小学教則。第二中学教則。第三外国語学校教則。第四下等(小学)師範学校教則。第五上等(中学)師範学校教則。第六小学所用器物。第七中学所用器物。第八学位証書等の程式からなっている。

 右の第一篇から第七篇までは教育規程の案文であって一二〇の条章をもって編成されている。さらに別冊として『学監考案日本教育法説明書』を添付し、この制度案の根本方針およば重要な条項の説明書を提出しているが、その中に次のように述べている。それによってこの改革法案の趣旨を明らかにすることができるであろう。

 由是観之初メテ学制ノ布告アリシ日ノ形勢ハ今日二至テ大二変換シ、当時緊切ナル事件ト認シモノ今日ハ翻テ省略ヲ要スルニ至り、或ハ当時二切ナラサリシ事件二シテ今日ハ却テ立法上欠クヘカラサル要項トナルニ至リシ類モ亦小少ナラサルコトヲ知ルヘシ。此数年間ノ経歴ハ学政二与レル人ノ為メニハ多少ノ実験ヲ与へタルト、加フルニ此間政府ノ改革アリシト人民ノ進歩セシトハ学校管理法ノ上二於テ大二変革ヲ起シタリ。又或ハ意外ノ事件等現出シ学制条款中ニモ亦多少ノ変更ヲ起スニ至レリ。右等ノ変革ハ時々文部省或ハ太政官ヨリ布令セラレシトコロニシテ、学制布告ノ日ヨリ今日二至ル官庁記録中二散見シ頗ル教育法ノ一体ヲ成セリ。今如此散見セル布告等ヲ纂輯シテ一法典ヲ編ミ、且ツ加ルニ近時経験二因テ発明スルトコロノモノ及ヒ他邦ノ教育法ヲ参考シテ得ルトコロノモノヲ以テセンニハ、宜シク学制ヲ改訂シテ之ヲ布告スヘキコト至便ナリトス。余ハ此緊要艱難ノ事業二就キソノ万一ヲ補助センカ為メ広ク万国ノ教育法ヲ拾索研究シテ、日本国今日ノ景状二適スヘキ者ヲ簡択シ下条数章ヲ得タリ。因テ之ヲ余力研究上ノ結果トシテ以テ閣下二奉呈ス。

 この法案が実際にどの程度参考とされたかは明らかではないが、ここに見られる学監モルレーの学制およびその改革についての見解は、また文部大輔田中不二麻呂の見解と一致するところがあったと思われる。田中はこれらを参照し、さらに自分の米国教育行政制度の研究と結びあわせて法令案の起草を進め、これを原案として十二年九月二十九日の「教育令」が成立したのである。

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