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一 文部省の設置

文部省創設と全国教育の統轄

 明治維新によって、国民生活の各部面にわたる革新とともに、教育についても一大改革が行なわれた。明治新政府がこの教育改革を実施するために、はじめて定めた近代学校制度が明治五年の「学制」である。この学制は、文部省の設置により、その企画のもとに起草され発布されたものである。

 維新直後は、江戸時代以来の諸藩がなお存続しており、個別に藩内の教育を統轄し、また独自の教育改革を行なっていた。したがって新政府の教育政策の直接の対象は府県の教育に限られ、それは全国的に見れば一部の地域に過ぎず、全国の大部分を占める諸藩の教育は新政府の直接統轄するところではなかった。四年七月廃藩置県が行なわれ、その後新政府は初めて全国に統一した行政を実施できる体制となり、これに伴って全国の教育行政を総括する機関として文部省が設置されたのである。

 文部省の設置は廃藩置県後まもない明治四年七月十八日であり、「大学ヲ廃シ文部省ヲ被レ 置候事」という太政官布告が発せられている。ここに大学を廃止して文部省を置くということは、この時まで大学が教育行政の機能をもっていたためである。すでに序章で述べたように、二年七月の官制改革により教育行政官庁として「大学校」が設置され、同年十二月にこれを「大学」と改称している。当時の大学は最高学府であるとともに教育行政官庁であった。三年七月に大学本校は閉鎖され、その教育・研究の機能を失ったが、行政官庁としての大学は存続していた。この大学が廃止されて、新しくもっぱら教育行政を担当する機関として文部省が設置されることとなったのである。

 文部省には長官として文部卿が置かれ、文部卿の職掌として、全国の教育事務を総括し、大中小学校を管轄するものと定めている。文部省の設置とともに、江藤新平が最初の文部大輔に任命され、教育行政を総括する地位についた。創立当初の文部省には、卿・大輔・少輔・大丞・少丞等の官を設け、四年七月二十八日、大木喬任が文部卿に任ぜられた。文部卿はのちの文部大臣に当たるものである。文部省が設置されると、文部大輔江藤新平は省内に多くの人材を登用し、また、箕作鱗祥等と協議して、省内の官制と職掌の大綱を定め、文部省創設に当たってその基礎を固めた。そのうち文部卿の職掌を見ると、文部省が当時いかなる任務を果たそうとしていたかが知られる。すなわち文部省および諸学校を統轄してその事務を督理するとともに、全国民を教育する責任を負うべきことなどが明らかにされている。江藤文部大輔は、従来の大学が府県の学校を管理するにとどまって積極的に国民に対する教育の責任を果たす態度をとっていなかったのを改め、国家が進んで全国に学校を設置して、全国民の教育を行なう方策を立て、これを実施することとなったのである。

 廃藩置県によって、藩は廃止されて県に改められたが、当初は藩をそのまま県としたものであり、旧藩主である藩知事がそのまま県知事となった。したがってその実質にはあまり大きな変化はなかった。実質的な改革は明治四年十一月の府県改置によるものであり、これによって多くの県が廃合されて、当初の三府三〇二県から三府七二県となった。また府県には新たに府知事・県令(または権令)が任命され、ここに初めて廃藩置県が名実ともに実現された。右の状況であったから、文部省設置後もしばらくの間は文部省が全国の教育を統轄することは困難であった。文部省が全国の教育を統轄することは設置当初からの方針であったが、これが実質的な意味をもつに至ったのは府県改置後であったといえる。このことと関連して、政府は四年十一月二十五日に、「府県学校ノ儀、自今総テ文部省管轄ニ被 二 仰付 一 候条、諸事同省ノ差図ヲ受ケ可 二 取計 一 事」という太政官布告を発している。この布告は文部省設置後すでに四か月余りを経過した時であったが、文部省はこの時期に至ってようやく全国府県の学校を管轄し、教育行政を総括することができることとなったのである。そこで文部省は全国民を対象とする教育制度を設けるために、学制取調掛を任命し、学制の起草に着手したのである。

学校の開設

 教育についての文部省の基本方策は学制発布以前から明らかにされていた。先に述べたように、文部省が設置されるとまもなく東京府の学校を文部省の直轄としたが、文部省はやがて東京府下に小学校および洋学校の設置を企画し、とりあえず将来実施すべき教育の基礎となる施設を実地に試みることとなった。それが明治四年十二月二十三日文部省布達で示されたのである。その布達には学校設置の方針、小学校の組織構成、その設置の場所が明かにされている。まず学校設置の方針を見ると、次のように述べているのである。

 開化日ニ隆ク文明月ニ盛ニ人人其業ニ安シ其家ヲ保ツ所以ノ者各其才能技芸ヲ生長スルニ由ル是学校ノ設アル所以ニシテ人人学ハサルウ得サル者ナリ故ニ方今東南校ヲ始処処ニ於テ学校相設ラレ教導ノ事専ラ御手入有之ト雖モ素限リ有ノ公費ヲ以テ限ナキノ人民ニ応スヘカラス然ラハ人民タル者モ亦自ラ奮テ其才芸ヲ生長スルコトヲ務メサル可ラス依之先当府下ニ於テ共立ノ小学校並ニ洋学校ヲ開キ華族ヨリ平民ニ至ル迄志願ノ者ハ学資ヲイレテ入学セシメ幼年ノ子弟ヲ教導スル学科ノ順序ヲ定メ各其才芸ヲ生長シ文明ノ真境ニ人ラシメント欲ス

 この東京府共立小学校および洋学校の設置にあたって示した方針によって、初等教育に関する文部省の方策が著しく近代化されたものとなっていることを認めることができる。この文部省の方策に、さらに検討を加え、明治五年の学制における小学校の制度として展開したのである。

 文部省の設置、学制の発布以前における教育は、三年二月に定められた大学規則・中小学規則の制度により、大学・中学・小学の系統と府県施政順序による小学校との二つにわかたれた方策によって取り扱われていたが、しだいに結び合って一つの学校体制に到達すべき気運を示すに至った。このニ系統を一つにして、四民平等にすべての者に一様な学校を開設する方策を明確に採るに至ったのが、明治五年の学制である。学制によってこの方策が確立されたのであって、それ以前においてはヨーロッパに見られる伝統的な二重系統の学校制度となるべき可能性が少なくなかったのである。ところがこれを克服して近代学校制度の基本性格をじゅうぶんに具備させることができたということは、わが国における教育政策史上注目すべきことである。このことは、当時の文部省における文教に関する基本思想によるものであったといえよう。

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