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三 明治維新直後の教育改革

大学の創設と諸学校の改革

 明治新政府の大学創設計画およびこれと関連した学制改革の概要についてはすでに述べた。すなわち新政府は、旧幕府直轄の昌平坂学問所・開成所・医学所を復興して昌平学校・開成学校・医学校を設け、明治二年六月これを総合して「大学校」を創設することとした。その際昌平学校を大学校(本校)とし、開成学校と医学校を大学校分局としたが、同年十二月には大学校を「大学」と改称し、また開成学校を「大学南校」、医学校を「大学東校」と改称して、総合大学の形態が一応整えられた。その後大学(本校)は、紛争のため三年七月に閉鎖されて大学南校と大学東校のみ存続した。さらに四年七月大学を廃止して文部省が設置されて後は、これらの学校は単に「南校」・「東校」と改称され、五年八月の「学制」発布に至っている。次には、右の大学の構成母体となっている三校について維新後の改革変遷の概要を述べることとする。

 昌平坂学問所が復興されたのは明治元年六月二十九日であり、その後「昌平学校」と改称され、また単に「学校」とも呼ばれた。同年十二月に頭取・教授等がおかれ、また知学事(山内豊信)、判学事(秋月種樹)がおかれた。さらに同月入学規則を定めて、二年一月から開校する旨の布告が出されている。二年六月十五日の達により「大学校」が設置されたが、この大学校は、最高学府であると同時に教育行政機関として設けられたものであった。これにより昌平学校は大学校となり、その本校としての地位を占めた。しかし、大学校が国学を根幹として漢学を従属的に位置づけたため、漢学派に強い不満をいだかせ、その後国学・漢学両派の激しい抗争が展開されたことは先に述べた。ことに同年八月大学校の開校に当たり、江戸時代の儒学の牙城であった聖堂において堂々と学神祭が挙行されたことは、漢学派を極度に刺激し、両者の抗争がいよいよ激しくなった。そのため大学校(本校)は遂に休講を続けねばならない状態に陥っている。同年十二月大学校は「大学」となったが、大学(本校)は最高学府としての実質的機能を失っていた。そのため行政官庁としての大学では学制改革の必要にせまられ、先に述べたように、明治三年二月、「大学規制」・「中小学規則」が定められたのである。

 この規則は洋学系統の構想によるものであり、これに対して国学派および漢学派は強い不満をもち、その後は国学・漢学両派が結束して洋学派と対立することとなった。そこで大学は新しい紛争に巻きこまれ、その解決が困難なまま、三年七月十二日、学制改革を理由に大学本校は遂に閉鎖された。そのため漢学・国学の最高学府であった昌平学校の系統の学校は姿を消し、その後は洋学系統の大学南校および大学東校のみが残り、それぞれ独立に発展することとなったのである。

 蕃書調所以来、洋学の最高機関としての伝統をもつ旧幕府の開成所が、新政府により復興されたのは明治元年九月十二日であった。その後「開成学校」と改称されたが、旧称のまま「開成所」とも呼ばれ、当時は混用されていた。復興後は川勝近江、柳川春三が頭取となったが、まもなく内田恒次郎(正雄)が代わって頭取となった。江戸時代の開成所は幕末に至ってオランダ人ハラタマ(K.W.Gratama)を招いたほかは教師は日本人のみであったが、維新後は積極的に外人教師を雇い、英・仏・独の語学および外国語による教授が行なわれた。二年四月フルベッキ(G.F.Verbeck)が長崎の広運館から開成学校に招かれて語学および学術教師となり、三年十月からは教頭となっている。

 明治二年六月大学校創設に伴い、開成学校は大学校の所管に属し、大学校分局となったが、校名は従前のまま開成学校と呼ばれた。同年十二月、大学校が大学と改称されるとともに「大学南校」となり、はじめて大学の名称が冠せられた。三年二月に「大学規則」・「中小学規則」が定められたことは先に述べたが、その後大学南校は同閏年十月、「大学南校規則」を定めている。この規則によれば、当分の間大学・中学・小学の三校を兼ね合わせて教授するものとしている。生徒は当分一、〇〇〇人を限度とし、入舎生は貢進生とも五五〇人を限度と定めている。生徒の入学年齢は十六歳以上とし、正則と変則に分け、正則生は外人教師により、変則生は日本人教官から教授をうける。正則・変則ともに普通科と専門科に分け、普通科は五等級、専門科は四等級として法科・理科・文科の三学科を設けている。すなわち「大学規則」の五科のうち教科と医科を除く三学科をここに設けようとしたものである。法科と理科の学科目は「大学規則」とほぼ同様であるが、文科については「レトリック、ロジック、羅甸語、各国史、ヒロソヒー」をあげている。このことからも、「大学規則」の文科は洋学系統の学問を授ける学科として構想されていたものであることが知られる。しかし、この規則もそのまま実施されたものではなかった。すなわち、専門学科は設けられるに至らず、実際には語学を主とする洋学校であった。

 大学南校の当時における地位を示し、また維新政府の人材養成と関連して注目すべきものは「貢進生」の制度である。明治三年七月大学本校が閉鎖されると、政府は大学南校を中心として人材の養成を企画し貢進生の制度を定めた。この制度は諸藩から俊秀を選抜して大学南校に入学させ、ここで欧米の学問文化を学ばせて国家の指導的人材を養成しようとしたものである。貢進生の制度によれば、貢進生は十六歳から二十歳までの者で、学資は藩から支給される。人数は藩の規模に応じて、一五万石以上は三人、五万石以上は二人、五万石未満は一人と定めている。これによって当時諸藩から三〇〇人余の貢進生が大学南校に入学しており、四年一月の貢進生名簿によれば、総数三一〇人、うち英語二一九人、フランス語七四人、ドイツ語一七人となっている。貢進生の制度は、廃藩置県とともに廃止され短期間であったが、当時の貢進生の中から多くの人材を輩出している。

 大学南校は、四年七月、大学の廃止によって単に「南校」と改称され、文部省の所管となった。同年九月一時閉鎖されたが、十月に再び開校され、この時「南校規則」が制定された。当時は南校において最も緊急な問題は専門学科の開設であったが、生徒募集の結果応募者の学力は低く、専門学科の開設は見送られた。当時の最高学府であった南校がこの状態であったことからも当時の洋学校の程度と内容はおのずから推測されるであろう。

 西洋医学の機関として発達した旧幕府の医学所が新政府によって復興されたのは明治元年六月二十六日であった。その後は医学校と改称されたが、しばらくは旧称のまま医学所とも呼ばれた。同年七月政府は横浜の軍陣病院を東京に移して医学校をその附属とした。その後二年二月に医学校兼病院と改称し、医学校を主体として病院はこれに付属する形となった。医学校は、二年六月、大学校の創設とともに大学校分局となったが校名は従前のままであった。同年十一月医学校の規則を定め、医学校設立の主旨、入学・進級・生徒の心得等を示した。同年十二月、大学校は「大学」と改称され、医学校は「大学東校」と改称された。大学東校では、大学南校と同様に三年閏十月に「大学東校規則」を定め、制度を整備した。生徒を正則と変則に分け、正則は洋書により変則は訳書によって学ぶものとしている。修業年限は正則が五年、変則が三年であるが、いずれも予科と本科に分けている。

 医学所では幕末までオランダ医学を日本人が教授していたが、明治維新後は、まず英国医学が取り入れられ、英人医師が招かれている。その後ドイツ医学が優秀であることを認め、これを採用する方針が定められた。そのためドイツ人医師の招聘に努力し、またドイツに留学生を派遣している。四年八月かねてからの招聘によりドイツからミュルレル(Benjamin C.L.Muller)とホフマン(Theodor E.Hoffmann)が来日し、その後わが国の医学界はドイツ医学によることとなった。

 明治維新直後に新政府が所轄していた学校には、右のほか長崎の広運館および医学校、大阪の舎密局および洋学校などがあった。長崎の「広運館」は、幕末の「済美館」を明治維新後復興して改称したものであり、長崎府(のちに長崎県)の所管であったが、明治四年十一月に文部省の所管となっている。西日本における洋学教育の中心であり、のちの長崎外国語学校の前身である。長崎医学校は、幕末の「精得館」を維新後復興して改称したものであり、広運館と同様に四年十一月に文部省の所管となっている。

 大阪には新政府の所管する新しい洋学機関が明治維新後に成立している。長崎の精得館にオランダから招かれて着任したハラタマはまもなく江戸の開成所に招かれたが、やがて幕府が崩壊し、江戸は戦乱に包まれる状態となったため、オランダから到着した新しい理化学の器械・薬品類とともに大阪に移った。そこで大阪には舎密局(化学所)が設立され、明治二年五月ハラタマを教頭として開講した。当時の舎密局は大阪府の所管であったが、大阪府では別に同年九月に洋学校を開設している。この洋学校と舎密局は三年四月に新政府の大学の所管となった。その後舎密局は理学所(理学校)と改称、洋学校は開成所と改称され、理学所は開成所の分局となったが、四年六月に両校は合併された。文部省設置後は文部省所轄の大阪開成所となった。この学校は関西における洋学の最高機関であった。諸藩の教育改革

 幕末から明治維新期には新しい時代に即応して諸藩でも教育改革の動きが活発となっている。幕末において藩校の教育内容を改革して洋学関係の学科目を加え、また洋学校や西洋医学校を設立した藩も多かったことはすでに述べた。明治維新後は諸藩においてさらに顕著な改革が実施されている。また維新後にはじめて藩校や郷学校を設立して藩内の教育改革を計画したものもあった。そのいくつかの例を次に述べることとする。

 金沢藩では明治三年十一月に学制改革を行なって「中学校」および「小学所」を設けている。中学校は中学西校と中学東校とし、中学西校は藩校明倫堂を母体とした漢学系統の学校であり、中学東校は洋学校を母体とした学校であった。この両校は、廃藩置県後中学校として合併された。この中学校では普通・専門の二段階とし、普通課程を正則(洋書)・変則(和書)に分け、専門課程は政治学・法科・理科・業科(実業)・文科の五科としている。また「小学所」は市中に五校を設置し、四民(士庶)に平等に開放することを原則としている。この小学所は、廃藩置県後石川県区学校となり、さらに学制発布後は小学校となっている。

 福井藩では、二年五月に藩校明道館を明新館と改称し、同年十二月の学制改革により、中学校等を設けることとした。この時定めた「福井藩学校規条」によれば、外塾生(七、八歳から十二歳まで)、小学生(十三歳から十六歳まで)、中学生(十七歳から二十歳まで)の三段階とし、学課表も定めている。「中学生学課表」によれば、学科は文学・数学・武学等であり、武学の中に洋学が取り入れられている。福山藩では、三年冬藩校誠之館の学制を改革して中学校・小学校を設けている。中学校では小学校の普通学の上に翻訳書によって近代的な学科を学ばせることとしている。岩国藩では、三年十二月に学制改革に着手しているが、中学・小学を設けて士族平民の区別なく入学を認めることとしている。四年九月の「学校条例」によれば、中学校を「公中学」と「私中学」とし、また小学校も「公小学」と「私小学」の二種としている。公小学は藩校の素読席を改めたものであり、私小学は寺子屋を改革して設けようとしたものであった。

 右にあげたもののほか、明治維新後は多くの藩において教育改革が企画され、学校制度および教育内容の近代化が進められている。その際明治三年二月に新政府(大学)が定めた「大学規則」・「中小学規則」中の「中小学規則」に準拠して藩校を中学・小学に改めようとしたものが多い。しかし右の小学が大学・中学の予備段階であり、主として士族子弟の学校であるのに対して、一般庶民のための小学校や郷学校を設ける動きもあらわれている。

欧米文化の摂取と海外留学生

 明治維新後、欧米文化を急速に摂取して近代日本をつくり上げる上に大きな役割を果たし、重要な意義をもっていたものは、外人教師と海外留学生である。外人教師についてはすでに触れているほか、第一章において取り扱うこととし、次には幕末維新期の海外留学生について概略を述べることとする。

 欧米先進国の学術文化を急速に摂取するために、海外に留学生を派遣することの必要性は早くから認められていた。明治新政府は海外視察と海外留学生の派遣を重視する政策をとったが、維新後は文明開化の思潮とともに、一般に海外視察や海外留学の気運が高まった。このことは欧米先進国から積極的に学んで新しい日本を建設しようとした当時の国民の熱烈な気魄を物語るものであった。

 海外留学生の派遣は幕末期から開始されている。万延元年(一八六〇)の遣米使節一行には、留学生としてではないが、勝海舟や福沢諭吉らが加わっており、翌年の遣欧使節には福地源一郎・箕作秋坪・福沢諭吉らが随行している。幕府の第一回海外留学生の派遣は文久二年(一八六二)であり、西周・津田真道らがオランダに留学している。第二回は慶応元年(一八六五)にロシアに六人、第三回は慶応二年で、イギリスに中村正直・川路太郎を取締として、留学生一二人が派遣され、その中には外山正一・箕作圭吾・菊池大麓らが加わっている。第四回・第五回は慶応三年にフランスに留学生を派遣している。幕末には諸藩からも海外留学生が派遣され、長州藩では伊藤博文・山尾庸三らをイギリスに、薩摩藩では五代友厚・森有礼らをイギリスに、その後アメリカにも派遣し、またそのほかの諸藩でも海外留学生を派遣している。

 明治維新後は海外への渡航および海外留学がいよいよ盛んとなった。政府は海外旅行出願者に免許証を交付し、また海外渡航者の調査等を行なったが、明治三年十二月には初めて「海外留学生規則」を定めている。これによれば海外留学生はすべて大学の管轄としている。当時大学南校では、三年八月に目賀田種太郎ら四人をアメリカに、同年十月には菊池大麓をイギリスに、神田乃武外二人をアメリカに、同年十一月と十二月にはベルギーに二人、ドイツに三人、ロシアに一人を派遣し、さらに四年二月にはヨーロツパに三人を派遣している。大学東校では、三年十月に池田謙斎ら九人をドイツに派遣したが、その後追加され、四年にはドイツ留学生は一四人となっている。また、開拓使の建議により四年十一月に津田梅子ら五人の少女が欧米派遣使節とともに出発して米国に留学したことは有名である。このように明治初年には海外留学生の派遣が盛んに行なわれており、欧米文化の摂取に国民の強い熱意が示されているのである。

文明開化と洋学校

 明治維新後は、西洋文明を急速に取り入れて日本文明を開化させようとするいわゆる「文明開化」の思潮が高まった。欧米の近代思想や科学技術のみでなく、生活様式や風俗習慣等に至るまで、社会生活すべての面にわたって西洋の文物が勇敢に取り入れられた。古来の日本的・東洋的なものは軽蔑され放棄されて、西洋風のものであれば無批判に尊ばれるという時代でもあった。明治維新当初は、攘夷主義者も多く、欧米のものを排斥する風潮もなお強かったが、新政府の開明政策と相まって廃藩置県のころからは文明開化が社会の大勢を古め、一大風潮となって社会を風靡する状況を呈した。そしてこの風潮は、学制発布後に引き継がれていったのである。

 外来文化を受容することは、それ自身広い意味で教育の問題であったが、狭い意味でも文明開化は教育と深い関連をもっていた。当時の学校では欧米風の学科を設け、文明開化の翻訳教科書が広く使用された。また洋学塾や洋学校(外国語学校)が隆盛をきわめ、多くの外人教師が厚い待遇をもって雇われ、多数の海外留学生が欧米に派遣されたのもこの時代の特色である。文明開化の風潮とともに、民間の啓蒙運動もきわめて盛んであった。当時の洋学者や啓蒙家によって、欧米の思想や生活を紹介した著書や翻訳書が多数出版され、新聞や雑誌が新しく発行されて国民の啓蒙が行なわれた。また、福沢諭吉の慶応義塾をはじめ当時の洋学塾は、文明開化の啓蒙運動に大きな役割を果たしたのである。

 明治初期の啓蒙運動において、欧米の近代科学の紹介、理学思想の普及が重要な課題であった。そのため、欧米の自然科学書を翻訳または抄訳編集した理科啓蒙書が多数出版された。これらは自然現象の法則を通俗的に解説して民間の迷盲を解こうとしたものである。また、欧米の地理・風俗等を紹介することも当時の啓蒙運動の重要な一面であった。そのため啓蒙的な地理教科書が多数出版された。さらに西洋の倫理道徳や政治経済に関する啓蒙書の類も出版された。このことは科学技術は西洋が優れているが倫理道徳については東洋が優れているとする思想に対する啓蒙を意味するものであった。

 文明開化の思潮と関連して、明治維新後洋学校や洋学塾が急速に発達した。新政府関係の洋学校についてはすでに述べたので、次には府県諸藩の洋学校および民間の洋学塾について概略を述べることとする。明治維新後わずかな期間ではあったが、欧米近代科学の一中心をなしていたものに沼津兵学校がある。この学校は、明治維新に際し、沼津に移住した旧幕臣によって設けられ、明治元年十二月に開設された。幕末の陸軍所・海軍所の伝統をつぐ兵学校であったが、同時に開成所の流れを扱む洋学校であり、西周を頭取として著名な洋学者がここに結集された。廃藩置県後は新政府の所轄となり、四年十一月兵部省に移管されたがまもなく姿を消した。

 次に京都府では、明治三年十一月にドイツ人を雇って独逸学校、四年にはアメリカ人により英学校、フランス人により仏学校を設けているが、これらは中学校の一分科として「欧学舎」と呼ばれた。さらに五年四月、イギリス人夫妻を雇って「新英学校」および「女工場」を開設している。このほか、東京府の「東京洋語学校」、横浜の「英学校」(洋学所)、名古屋藩の「名古屋洋学校」、熊本藩の「英学所」・「洋学校」などが明治維新直後の洋学校として注目すべきものであった。

 府県諸藩の洋学校のほかに、明治維新後は民間の洋学塾も発達した。ことに文明開化の風潮とともに、明治四、五年ごろから急速に増加している。洋学塾の多数設立されたのは東京であり、地方には少なかった。洋学塾の中には生徒数が一〇人程度の小さいものから三〇〇人をこえるものもあり、内容・規模ともに各種のものがあった。また、外人教師を雇っているものもあり、藩や府県の洋学校に比べてはるかに優勢なものもあった。

 明治維新のころの洋学塾として著名なものには福沢諭吉の「慶応義塾」などがあり、科学技術の方面では近藤真琴の「攻玉塾」などがあった。まず福沢諭吉の「慶応義塾」について見ると、福沢諭吉は安政五年(一八五八)に江戸に出て鉄砲洲に蘭学塾を開いたが、これが慶応義塾の起源である。この塾はその後英学塾となり、慶応四年(一八六八)四月、芝新銭座に移転して初めて「慶応義塾」と名づけた。その間福沢は渡米渡欧を重ねて洋学者として名声を高めていたが、このころから塾の内容も充実し生徒数も増加している。当時の教師には、福沢のほか高弟の小幡篤次郎をはじめ著名な洋学者や啓蒙家が名を連ねていた。教科書にはウェーランドの経済書をはじめ、西洋の歴史、地理、自然科学、倫理の書物などを用い、広い範囲にわたっている。生徒数も明治三年には三〇〇人をこえ、四年には三田に移転している。慶応義塾の出身者は社会の各方面で活動したが、明治維新後全国各地に新しく設けられた学校の教師となった者も多く、当時の慶応義塾は教員養成機関としても重要な役割を果たした。

 近藤真琴の「攻玉塾」は、科学技術方面の洋学塾として有名である。近藤真琴は蘭学、兵学を学び、文久三年(一八六三)に幕府の軍艦操練所翻訳方となった。当時航海術の基礎としてオランダ語の教授を望む者のために私塾を開いたが、これが攻玉塾の起源である。その後この塾は英語、数学、航海術、測量術等を教授する塾として発展した。塾は幕府滅亡とともに閉鎖されたが、明治維新後、近藤は新政府の海軍操練所に招かれ、明治二年九月、塾を再興し、同年十一月はじめて「攻玉塾」と称した。明治四年に芝新銭座の慶応義塾跡に移転した。五年には教員二四人、生徒一二一人であり、きわめて隆盛であった。攻玉塾は海軍操練所(のちに海軍兵学寮)と深い関連をもって発展し、海軍関係をはじめ、航海・測量など科学技術方面の人材を養成し、これらの分野に果たした役割は大きい。

中学校・女学校の開設

 大学と小学校の中間段階の学校として中学校が成立するのは明治維持以後のことである。それは欧米の学校制度にならって、学校を三段階に構成しようとしたところに始まるといえよう。明治政府は、さきに述べたように、明治三年二月に「大学規則」とともに「中小学規則」を定めたが、これによってはじめて「中学」を設置する構想が明らかにされた。この中学は「専門学」を授ける学校であり、学制後の中学校とはかなり異なった性格のものであった。右の規則は全国に実施されたものではなかったが、当時の諸藩や府県の学制改革に影響を与え、その後「中学」または「中学校」と称する学校が各地に設けられた。

 新政府の右の規則よりも早く中学校の設置を企画したものは京都府であった。京都府では明治元年から新しい学校設置の企画に着手し、明治二年二月に、「中学校小学校建営趣意」を新政府の弁事に提出している。これによれば京都市中を上京・下京に分け、それぞれに中学校各一校を設置し、さらに町組ごとに小学校を設置する計画を立てている。すなわち学区制による小学校・中学校の設置計画である。なおこの中学校は地域の行政や生活・文化等の中心機関としての機能をも兼ねるものとして計画されていた。この計画に対して「中学校」という名称について疑義が提出されていることから見ても、京都の中学校計画は先駆的な意義をもっていたことが知られる。右は中学校設置の計画であったが実現を見なかった。実際に京都府が初めて中学校を設置したのは三年十月(十二月開校)であった。この学校は、皇学所・漢学所を京都府が引き継いで府学とし、これを改称したものであった。この中学校は、新政府(大学)の「中小学規則」に基づいて計画されており、予備教育機関として「小学舎」を設けることとしている。

 すでに述べたように、明治維新後は諸藩においても藩校を改革して中学校を開設した。諸藩が中学校を開設する際に基準となったものは新政府(大学)の定めた明治三年二月の「中小学規則」であった。しかし、実情としては規則どおりに実施することは困難であり、多くは伝統的な教育内容である漢学に洋学等を加えて藩校の近代化を図り、これを「中学」または「中学校」と称していた。当時の中学校の実態はさまざまであり、その内容も一定していなかった。しかし、当時の中学校は、その地方における最高学府であり、小学校よりも程度の高い普通教育および専門教育の一部を授ける総合的な教育機関であった。そして多くはその藩や府県の教育行政の機能をももち、また教員養成機関をも兼ねていた。

 明治維新後は新しく女学校も設けられている。学制発布ごろまでに開設された女学校には各種のものが存在した。小学校と同年齢の女児を入学させる女児小学校の類が多かったが、小学校の上に位置する中等学校程度の学校もあった。江戸時代以来の伝統的な女子教養を主とするもの、新時代の洋学を中心とするものなど内容もさまざまであった。当時の女学校は「女子の学校」というほどの意味であったといえる。

 明治維新後の女学校の設置計画として注目すべきものには、福山藩(広島県)・出石藩(兵庫県)・松江藩・名古屋藩の女学校などがある。京都府では明治五年にイギリス人夫妻を雇って新英学校および女工場を設けたことは先に述べた。この女工場は女学校であり、女生徒に英語を教授し、また裁縫・手芸なども授けた。のちに英女学校と改称し、女子の中等学校として発展した。

 文部省は明治五年二月に初めて官立の女学校(十一月、東京女学校)を開設している。この学校は新しい時代の女学校の模範として設けられたものであり、当時最も整備された女学校であった。外人女教師を雇い、英学に重点をおいていたが、「手芸」を加えている点などは男子の学校と異なっていた。

 右のほか民間で開設された私立の女学校もあった。これらの女学校は、新しい時代の女子教育を特色づけるものであり、ミッション系の女学校がその中心をなしていた。すなわち、明治維新後の新しい女子教育の開拓はキリスト教の宣教師の力によるところが大きかったのである。明治三年横浜にミス・キダー(Mary Eddy Kidder)によって英学塾が開設されたが、これは後にフェリス女学校として発展した。同じく横浜に四年に横浜共立学園が設けられたが、これも三人の婦人宣教師によって設立された女子英学塾であった。東京では三年に「A六番女学校」、またミッション系ではないが、四年に「芳英女塾」、五年に「水交女塾」が開設されており、いずれも早く設立された女子英学塾として注目される。

 明治維新後は女子の教育を男子の教育と同様に行なうことが近代教育の特色であるとして奨励したため、女学校がしだいに発達した。しかし全般的には、江戸時代以来の女性観の影響も強く、女子の学校は男子の学校に比べて著しく遅れて発達したのである。

小学校・郷学校の開設

 江戸時代以来の寺子屋・私塾の類は、明治維新後も存続していたが、維新後はこのほかに小学校や郷学校等が全国各地に新しく設けられた。これらの学校は学制発布後の小学校の前身であり、また小学校設立の母体となった。維新政府は、早くから小学校設置の方策を進めていることは先に述べたが、維新後は府県や諸藩においても政府の政策に基づき、または独自の立場から小学校・郷学校等の開設に方を注いでいる。

 学制以前の小学校には大別して二つの類型が認められる。その一つは、士族あるいは指導層の学校である中学の予備段階としての「小学」であり、他の一つは、主として農・商など庶民を対象とする「小学校」である。「小学」と「小学校」は当時においても混用されており、必ずしも明確に区別することはできないが、指導層の中学の予備段階の性質をもち、やや程度の高いものを「小学」と称し、国民大衆の学校を「小学校」と呼ぶ傾向が見られる。先に述べたように新政府の教育政策の中にも右の二種のものがあった。「中小学規則」の「小学」は前者であり、府県施政順序の中に示された「小学校」は後者である。府県や諸藩において学校の設置を企画した際にも右の二つの類型が存在した。しかし、実際に設けられた小学校は両者の中間または複合的な性質のものが多かった。

 幕末の藩校は、藩士の子弟の教育機関としてしだいに整備され、学習内容の程度等によって等級を分け、段階編成が成立する傾向にあった。そして幼少の者に主として素読を授ける課程がしだいに独立し、これを素読席(素読生)と呼んだ。このような背景のもとに、明治維新後の改革において藩校の初等段階を独立させて小学校が設けられたのである。ことに新政府(大学)の「中小学規則」に準拠して藩校を改革した際には、藩校を中学と小学に分けている。この小学(小学校)は形式的には庶民にも開放したものも多かったが、実質的には主として士族の子弟を対象とするものであった。この系統の小学校の成立と、そこに受け継がれている伝統は、「学制」発布後に小学校が設立される際にも重要な要素をなすものであった。

 明治維新後、「学制」発布までに開設された小学校の主要なものについて次に述べる。まず東京府では、新政府の指示のもとに早くから小学校の設置を企画している。明治二年三月政府は東京府に対し、中小学校取調掛を設置すべき旨を達しているが、東京府ではこのころから小学校設置の計画を進めたようである。そして三年六月に初めて小学校六校を開設することとした。その達によれば、設置場所はすべて寺院であり、寺子屋との関連も推測されるが、一般市民を対象とする小学校であった。

 明治四年七月に文部省が設けられ、その後東京府の学校はすべて文部省の直轄となった。文部省は四年十二月、東京府下に小学校六校と洋学校を開設し、また女学校をも設けることとした。その際の布達には小学校設置についての文部省の基本方針が明らかにされている。これによれば、新しい時代に即応する開明的な文教方針が示されており、国民一般の「共立の小学校」を設置すべき旨が述べられている。すなわち、寺子屋と異なる公立小学校を設置する趣旨が示されているのである。これらの小学校は学制発布後は東京府に移管された。

 学制発布以前に設置された小学校の中でも特に著名なものは京都の小学校である。その開設が早かったばかりでなく、学区制によって組織的に設立された点に特色があり、その意味で「学制」の先駆ともいうべきものである。京都府では、町番組を設け、そこに番組小学校を設立することとした。明治元年十月に小学校設置の趣旨を諭達し、さらに二年二月には「中学校小学校建営趣意」が明らかにされ、小学校の諸規則も定められて、その後各町組に小学校が開設された。同年五月に上京第二十七番組小学校(のちの柳池小学校)が創立されたのをはじめとして明治二年末までに六四校の番組小学校が実際に開設されたのである。

表1小学課業表(京都)

表1小学課業表(京都)

 京都の小学校は、その地域の集会所を兼ね、大人の教諭所でもあり、布告の伝達をはじめ、警察・消防等の機能をも兼ね、市民生活と密着して計画されていたところに特色がある。また、学校経費の徴収についても学区内の各戸に賦課する方法をとっている。学制実施後これに類する方法をとった地方もあり注目すべきものであった。京都の小学校では、二年五月に小学校の諸規則を定めているが、実際には各町組にまかせ自由にしていたため、各校まちまちで一定していなかった。三年二月に大学において「中小学規則」が定められたので、京都府ではこれに準拠して同年十一月に規則を定めた。その大網は右の「中小学規則」に基づくものであったが、独自な点も多く、内容の上に特色が見られる。この時定められた「小学規則」によれば、小学校の教科は句読・諳誦・習字・算術の四科とし、五等級に編成している。同時に「三教師心得」を定め、句読・習字・算術の三教師をおくべきものとした。これに基づいて、その後「小学課業表」が定められ、四年八月に布達された。その課業表を前ページに掲げたが、そこには伝統的な教育から近代小学校の教育へと移行する過程が示されている。

 沼津兵学校附属小学校はさきに述べた沼津兵学校とともに明治元年十二月に設けられ、その設立が古い点でも著名である。その規則によれば、課程を一級・二級・三級の三段階編制としている。また、学科は素読・手習・算術を中心とし、そのほか地理・体操・水練および講釈聴聞を設けている。算術では洋算を授け、地理を独立の教科としている点などに近代的な性格がみられる。この学校は、本来兵学校の予備段階であり、一般庶民の学校ではなかったが、庶民にも開放しようとしている。また、この学校を模範としてのちに一般の小学校が設けられたことや教育内容に近代化の萌芽がみられることなどに近代小学校の先駆としての意義が認められる。なおこの学校の規則が、他の地方にも影響を与えた例として「徳島藩小学校規則」がある。

 学制発布後の小学校の前身として注目すべきものに、明治維新後全国に多数設けられた郷学校の類がある。江戸時代の郷学(郷校)については先に述べたが、その中には主として庶民を対象とし、寺子屋と類似の初歩教育を授けるものが存在した。このような歴史的事情のもとに、明治維新後は新政府の教育政策を反映し、また時代の動きを背景として、郷村の住民を対象とする郷学校が各地に設立されたのである。寺子屋は本来私設の教育機関であったが、これに対して郷学校は主として地方住民の有志によって設立維持された学校であり、学制発布後の公立小学校と同様な性格のものであった。

 郷学校は、今日から見れば小学校と称してもよいものであったが、当時においては「小学」・「小学校」の呼称はまだ一般的ではなく、民衆にはなじみの少ない名称であった。藩校の改革による士族子弟の初等学校を「小学」と称した関係からも、小学(小学校)は貴族的で程度の高い学校と考えられ、民衆には近づき難い印象を与えていたといえよう。したがって当時においては、民衆の初等学校に対しては、小学(小学校)の呼称をさけて、これらの学校は郷学校、郷学所、啓蒙所、教導所などと呼ばれていたのである。

 明治維新後の郷学校として、まず注目すべきものは神奈川県の郷学校である。神奈川県では、明治四年八月の触書によって管内に二七校の郷学校の設立計画を明らかにし、県内に多数の郷学校を組織的に設立しようとしている。この郷学校は当時の郷村の組合(寄楊組合)を単位として、各一校を設立しようとしたものであった。郷学校設立の触書によれば、各村に学校世話役人をおいて学校の運営にあたらせ、学校経費は学童の有無にかかわらず各戸に割当て、貧富によって段階を設け、各村の負担金は学校からの距離によって差等を設けている。修学期間は六、七歳から十三歳までとし、課程を上・中・下の三等に分けている。教科および教授内容も示されており、そこには西洋の綴字・単語や洋算等もあげられ、文明開化の時代の動きが反映されている。この計画は、そのまま実施されたとは見られないが、明治維新後の郷学校設立計画として特色がある。

 徳島県でも藩主の奨励により、郷学校が多数設けられている。この場合にも地方の住民の協力によって設立され、学校の経費は有志の寄附金により、または村民の結社によって支弁している。筑摩県(長野県南部と飛騨地方)の郷校は当時の地方官永山盛輝の強力な政策によるものであった。この郷校は「小校」とも呼ばれ、「筑摩県管内第一小校」から順次番号をつけて呼ぶこととしており、学制発布後の学区制の小学校を思わせるものがある。各村には「学校世話役」をおき、学校経費の徴収負担方法にも特色がある。右にはいくつかの例をあげたが、明治維新後は全国に多数の郷学校が設けられているのである。

 名古屋の「義校」も郷学校と類似のものといえよう。名古屋藩では藩校明倫堂を改革して小学校を設け、庶民にも開放することとしたが、士庶の区別がなお厳格であった当時の状況から、実際には士族子弟の学校であった。そこで名古屋県となって後に庶民の学校として「義校」の設立が計画された。名古屋県では明治四年九月に民間有志の「結社」による義校の設立を奨励し、同年十月初めて義校が設立されている。当時定められた「義校大意」には義校設立の趣旨を述べているが、その中には新しい時代に即応する実用の学問、文明開化の知識の必要性が強調されている。また農村の郷学校と異なって商業都市である名古屋において、特に商人の子弟を対象として義校が設立されていることも注目すべきである。

 明治維新後は、全国各地で国民一般を対象とする初等教育機関の設立が試みられた。同じく小学校といってもその内容や性格には各種のものがあった。また、小学校の前身をなし直接の母体となった郷学校や義校などのような民衆の学校も発達していた。しかし、一方では江戸時代以来の寺子屋や私塾の類がなお大きな勢力をもって多数存続していた。明治五年の学制はこのような状況の中で発布され、当時の実態を基盤として実施されねばならなかった。学制が発布され、全国に小学校が設立されたが、右に述べた各種の初等教育機関が実質的に統一化されて近代の小学校が成立するまでには、学制実施後もかなりながい期間を要したのである。

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