(二) 文化の振興

 文部省においては、教育、学術のほかに文化の振興についての方策を立て、これを文教行政の一部として努めてきた。それらは芸術文化、国語国字問題、著作権、文化財保護であって、すべて広い意味において文教に関係をもった分野である。これらはそれぞれに特質をもった文化上の問題であって、時代の区分によって、まとめてみることはできない。しかし、全般として第二次世界大戦後は、振興のための方策を積極的に立て、行政にあたったので、明治以来終戦までの文化振興とは異なったものとなって、時期を画している。

 芸術文化のうち美術の振興については、すでに明治十二年から日本美術協会が設けられて、絵画・美術工芸品の展覧を行なっていた。文部省は明治四十年に美術審査委員会と美術展覧会の規程を定めて、文部省展覧会を開いた。これは文展として大正七年まで続いた。八年帝国美術院を創設して美術の振興についての意見を開申し、重要事項について建議することとした。帝国美術院は美術展覧会も開催したのでこれは帝展として一般に知られた。昭和十二年にはこれを帝国芸術院に改めた。戦時中は芸術文化についても統制が加えられていたが、戦後は自由な文化活動が行なわれる時代となり、帝国芸術院を日本芸術院と改め、芸術を選奨する事業も行なっている。この分野の文化振興としては文部省が行なっている「芸術祭」があり、国民の間に年中行事として定着してきている。芸術文化向上のためには地方においても活動する必要が認められて、これに関する事業を行なってきている。また戦前には設立をみることのできなかった美術館の開設が計画され、東京と京都に国立近代美術館を設け、国立西洋美術館も設けて、計画的に展観の企画を立て、美術振興に寄与している。

 国語問題は、幕末から明治の初めにかけて盛んに論ぜられた。文部省は明治二十六年、小学校教育における字音仮名遣いについて、専門家に諮問し、その答申に基づいて、三十三年、仮名遣いを改めるとともに、仮名の字体の標準を示し、漢字制限を実施した。三十五年に国語調査委員会を、大正十年に臨時国語調査会を、昭和九年に国語審議会を設けて、国語国学に関する調査審議を行なってきた。戦後、同審議会は、漢字制限の問題から着手し、多くの答申や報告を行なった。二十四年、審議会は建議機関となり、種々の建議・報告を行ない、三十七年、再び諮問機関となり今日に至っている。なお、この審議会の建議によって、二十三年、国立国語研究所の設立をみた。

 著作権の保護については明治初年には文部省において事務を取り扱っていたが、明治八年から内務省の所管事務となった。戦後になって二十二年再び文部省に移管された。著作権については国際的なとりきめもあり、複雑な事務となっていたが、四十六年から新しい著作権法が施行された。しかし、最近は著作権が広く考えられ、音楽やレコードにも及んでいるので、国際的にもその保護について容易に解決できない問題も残されている。

 文化財保護は明治初年から太政官は「古器旧物保存方」を布告して、文化財の保護を始めた。しかし、この文化財についての行政はその後内務省において行なわれていた。明治三十年から「古社寺保存法」が実施されてきたが、昭和四年「国宝保存法」が公布されて社寺以外の物件を指定して保護するようになった。また史蹟名勝天然記念物についても保存法が大正八年より施行されていた。すでに大正二年から古社寺保存法は内務省から文部省に移管されていたが、記念物保存法施行による行政は昭和三年に文部省所管となった。第二次世界大戦後は文化財保護の必要が強く訴えられ、保護についての新しい方策がとられてきていた。二十五年に文化財保護の総合立法が「文化財保護法」として成立したが、二十九年改正して、文化財保護の行政が広い範囲に及ぶこととなった。国宝・重要文化財の保護、無形文化財および民俗資料の保護、史跡名勝天然記念物の保護などについての文化行政が行なわれてきている。

 文化財保護についての行政のために文化財保護委員会が文部省の外局として設置されたが、四十三年に外局として文化庁が設けられたので、文化財保護行政を、同庁の文化財保護部に移すこととなった。これによって、古い文化財を保護する行政が現代文化の振興と一体になって推進される体制がつくられた。

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